上阪

中田もな

 明治三十八年、十二月。風が強く、窓を打つ。


 乗り継ぎの汽車は、定刻通りに発車した。その後も寸分の遅れもなく、淡々と駅を通過していく。


“ただ今、会津を通過いたしました”


 私は車両の一番奥の、赤いソファ席に腰掛けている。幸いなことに、この車両はがらんとしていて、私以外に乗客はいない。ただ、途中で帝都に停車するので、それまでの静寂であろう。


 ふぅと一つ、ため息をつく。アイヌモシリ……ではなく、北海道から大阪への旅路は疲れる。


 窓側の席に新聞が置きっぱなしになっていたので、手に取って読んでみる。近頃は露西亜に勝って、その話で持ちきりであるが、やはり新聞の一面もそれであった。


 煤汚れた窓から外を見る。本日は曇天であり、人々は何を憂いているのか、下を向いて歩いている。寒いのだろうか。だが、私からしてみれば、本州の冬は何てことない。肌を突き刺すような寒さとは程遠い。


 そう思うと、私は最悪であった。私の爺さんはアイヌの誇りを絵に描いたようなじじいで、私は時代錯誤的な狩りに連れ出され、吹雪いて吹雪いて仕方のない山の中で、やれ獲物はあれだ、やれ狙いはこうだと、延々と聞かされたものだ。もうそのような時代は終わったさ、と言えれば良かった。だが、それは酷と思って、ついに爺さんが死ぬまで口に出せず仕舞いであった。


 販売の給仕が来たので、珈琲を一杯貰う。私が今度暮らす街には、こういう飲み物を売っている、カフェーがあるのだろうか。子どもでもあるまいに、ついつい新天地に心躍る。


 大阪へ行く目的は、専ら仕事だ。それに、嫁ぎがどうの、お嫁がどうの、という話も持ち上がっている。最初は面倒だと思っていたが、引っ越しの準備をしているうちに、段々と考え方が変わってきた。


 大阪に着いたら、本州でしかできないことをしよう。仕事や結婚は、その後に考えれば良い。そう思えば、大阪とやらも悪くはない。むしろ、楽しみになってきたではないか。


 その時、ふと右横に影が走る。そう思うや否や。


 ──鋭い銃声が上がった。


 小さく丸い銃口は、確かに俺を狙っていた。


 危なかった。咄嗟に身を捩ったから何とかなったものの、ぼうっとしていたら即死であった。

 この時ばかりは、アイヌの末裔の爺さんに感謝した。


「ちぃ」


 顔を上げると、そこには男が立っていた。

 青年と呼ぶには幼すぎる。年齢はさておき、少年のあどけなさを残している。


「誰だ、お前は」

「なるほど、自己紹介が必要か」


 私の問いかけに、男は答えた。聞けば、私と同じ苗字だ。珍しい類であるのに。


「奇遇だな、苗字が同じとは」

「何を寝ぼけたことを。俺は貴様の息子なのだから、苗字が同じなのは当たり前だ」


 はぁ、そうですか、となるものか……。

 と思ったが、言われてみれば、私に似ている気もしなくはない。


 私の理解が追いつかない内に、男はべらべらと喋り出した。


「俺は米国との戦争に徴収されることになった。加えて、どこだか知らんような南の島に、死にに行けと言われている。だから貴様のせいだ。貴様が死ねば、俺は生まれない。つまり俺は、戦争に行かずに済む」


 「親に向かって何たる口の聞き方云々」となるところだが、そもそも私はまだ親ではない訳で、その類の怒りは湧いてこなかった。


「不意打ちのようなやり方で殺すなど、日本男児の恥だろう」

「何が日本男児だ。そのような考え方こそが、軍国主義を冗長させるのだ」


 逆効果であった。扱いにくい男である。


“上野、上野でございます”


 さすが上野と言うべきか、閑散としていた車内に人が雪崩れ込んできた。目の前の男──息子とはにわかに信じ難い──も、あまりに人の目が多くなったので、渋々と言った様子で私の前の席を陣取った。


「兎に角、だ。俺は戦争に行きたくないんで、南の島に行かされる前に、お前を殺しに来たという訳だ」


 男は非常に殺気立っていて、最早やけくそに見える。考え方を変える余裕がないのかもしれない。私は仕方なく、話を合わせてやることにした。


「よく分からないのだが、お前の話を信じるとして、お前はそもそも、どうやって過去に来たのだ?」

「俺は未来の日本からやって来たのだ。貴様は知らないだろうが、未来には、それを成せるだけの技術があるのだ」


 そんな馬鹿な。狐につままれたような気分だ。


「そうなのか?」

「そうだ」


 男は死んだような瞳をしていたが、嘘はついていなそうだったので、この件は一旦保留にする。


「それと、お前は私を殺したがっている訳だが、親である私が死んだら、お前はそもそも生まれないのではないか?」

「それでいい。仕方ないのだ。日本は戦争のしたがりで、生まれたが最後、泣こうが喚こうが戦地に連れて行かれるのだ。だから俺は貴様を殺して、全く別の人生を送る可能性に賭けることにした」


 簡単に言ってはみせるが、目論見通りに上手くいくようなものだろうか。

 私はそう思ったが、男には男なりの算段があるらしかったから、それ以上何も聞かなかった。


“新橋を通過いたしました”


 ぐぅと腹の鳴る音がした。男の腹から出た音である。丁度みかんを持っていたので、くれてやった。男は私を睨んではいたが、空腹には勝てなかったのか、存外素直に受け取った。


「お前の言い分は分かった。だから、今度は私の話も聞いてくれ」


 さて、どうするか。しばし逡巡した時に、ふと先ほどの新聞が目に入った。評論「故郷の遊び」。東京の遊びは地方と比べて云々かんぬん。


 ……これだ。私は咄嗟に閃いた。


「こんな車内でドンぱちやるのは、お前にとっても不都合だろう。だから、ここは一つ、賭けをしよう」


 私は提案した。昔、アイヌの爺さんと「ウコニアシ」と言うゲームをしたことがある。汽車の中で暴れるのは良くないから、それで勝負しようと言ったのだ。


「ウコニアシでお前が私に勝ったら、私はその次の駅で降りる。そしてお前に殺されてやる」

「ふん」

「そして、お前が負けたら、お前が汽車から降りて死ね」


 ……男は想像すらしていなかったのか、私の言葉を聞いて、目を見開いた。


「何故、そうなる!」


 男は腹を立て、ドンと床を蹴る。喜怒哀楽で意見を述べる男だな、と私は思った。


「よく考えろ。お前は戦争に行きたくない。だから私を殺す。そしたらお前は、そもそも生まれてこないのだから、今死んでも同じことだろう」

「そうなのか?」

「そうだ。それに私とて、お前の言い分を聞いて死んでやるほど、お人好しでもないのでな」


 私がきっぱりと言い切ると、男は「……そうか」と呟いた。


 私は文具入れから鉛筆を六本取り出した。そして新聞の端っこに、簡単な格子を描いた。

 いわゆる三目並べのような遊びだ。だから男もすぐにルールを理解して、私たちは早速、ウコニアシを始めた。


“名古屋に到着です。お忘れ物のないよう、ご注意くださいませ”


「何故、大阪なんぞに行くのだ」


 男は私の立てた鉛筆を、あえて邪魔するように置く。相手の棒が一列に並んだ時点で負けであるから、戦略としてはごく一般的な部類に属するのだが、それが妙な執着を感じさせる。


「希望などない。どこにも。求めれば求めるほど、地獄への片道切符を先送りにしているだけだ」


 男の言った「希望」という言葉が、私の喉に引っかかる。ひどくざらついた響きだ。


 私は思い出した。かつて爺さんと見た、開拓兵のことを。無色透明、無味無臭の、奴らのことを。

 私も、奴らと同じと言うのか。本土から来た開拓兵の「それ」と、全く同じ色をしているのだろうか。


「ならば、私が本州行きの支度をする前に、化けて現れるべきだったな」

「したさ。何度も。とっくのとうに。だから今、ここにいるのだ」


 つくづく、よく分からぬ男だな。もしくは、よく分からぬ未来なのかもしれぬ。


「その言葉が本当ならば、諦めの悪い性分だ。戦争に行った方が早いではないか」

「黙れ。俺は戦争には行かない」


 こと。くしゃ。ぶす。

 鉛筆を突き立てすぎて、新聞はぐしゃぐしゃになってしまった。


「なぁ。良心と思って、教えてくれ。これからの日本は、どうなるのだ」

「糞みたいなものだ。だが、教えてなどやるものか。貴様はどうせ死ぬのだから、聞かせたところで意味がない」

「そうか……」


 甘いな、若造。何もかも。

 私は次の一手を刺した。


「お前の負けだ」


 私は勝った。何故なら私は、アイヌの爺さんから「裏技」を教えて貰ったことがあるからだ。


「嘘だ、許さん、インチキだ!」

「インチキではないし、往生際が悪いぞ」


 そう言いつつ、私は爺さんに感謝した。今日だけで二度も有り難がることになるとは。後にも先にもこれきりだ。


“大阪です。足元にお気をつけくださいませ”


 私は男を引き摺り下ろした。荷物を片手に、空を見上げる。

 大阪は雪模様だった。頬に当たる白が冷たい。


「では最期に、何か言うことは」

「黙れ。さっさと殺せ」


 私は人気のない路地で、男を撃ち殺した。男が持ってきた、ひどく軽い銃で。


 男の赤い血が滴る。私は思った。今晩は兎鍋などどうだろうかと。

 最早、アイヌでもないくせに。

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