卵黄が乗ったローストビーフ丼

!~よたみてい書

美味しいローストビーフ丼

 会社のオフィス内で、性能が良さそうな椅子に座っている佐藤柚子(さとうゆずこ)は、卓上のパソコンマウスを操作するのを止めた。

彼女は視線を眼前のパソコンモニターから室内の壁にかけられている時計に移す。


 時計の針は長身と短針が一緒に12を指している。


 柚子は両手を上げながら顔を歪ませ、上半身を椅子の上で反らせた。


柚子は卓上に置かれた電子メモ帳に、『休憩後、3件で合っているか確認』と白い文字を書き残す。


 彼女は机の下に置いていた鞄の中に手を入れ、中から布に包まれた長方形の箱を取り出した。

それから、箱を卓上に運び、布をほどいていく。

中からプラスチックの長方形の箱が姿を現し、彼女は蓋を開けた。


 容器の半分には米が詰め込まれており、米の上には胡麻が少々振りかけられている。

弁当箱のもう半分には、小さい赤いトマトが2個、球体のまま入っていて、すぐ横に小さな唐揚げが3つ並んでいた。

そして、数種類の野菜が使われたサラダが空いたカ所に詰め込まれている。


「佐藤さん、お昼休憩中にすみません、ちょっとよろしいですか?」


 柚子がこれから箸で弁当箱を突こうとしている時、彼女に近づいて来た男性が声を掛けた。


 柚子は固まった顔のまま口を開く。


「はい?」

「今日の仕事終わりの後、お時間ありますか?」


 柚子は一瞬、片頬を僅かに上げ、右上の宙を見つめた。


「どうかしましたか?」

「よかったら、俺の家で食事していきませんか?」


柚子の同僚、酢醤(すじょう)は無表情で柚子の顔を見つめる。


 柚子はスマートフォンを手に取り、彼に表示画面が見えないように持ちながら画面に指を添えた。

スケジュールアプリが開き、空欄が表示される。


「今日は、えーっと……予定があるの――」

「どうしても来れませんか?」


柚子は頭を掻きながら、左下を向く。


「他の方を誘って――」

「出来るだけ早めに、いえ、今日、佐藤さんに来てほしいです。お願いします」


柚子は腕を組みながら苦笑を返した。




 終業から数十分後。


 柚子は玄関をくぐり、靴を脱いでいく。


「お邪魔します」

「いらっしゃい」


 酢醤は玄関の扉を閉め、何かが作動する小さな音を鳴らす。


 柚子は恐る恐る家の中に進んでいき、首の向きを左右に忙しく変えていく。

そして、大きめの机が中央に置かれた部屋の中に柚子はたどり着いた。


 酢醤は軽やかに調理場に足を運んだ。


「佐藤さんはそこに座って待ってて」

「え、あー、私も手伝いますよ」

「俺に任せて」


 酢醤は無表情のまま低い声音で返事をする。

柚子は彼の返答を聞いて、固い笑みを作った。


 柚子は椅子に腰を掛け、室内を見渡す。


 室内の両壁側には棚が何個も置かれていて、料理に使うであろう調味料の容器が多く並べてある。

店で見かけないパッケージが多く置かれていて、怪しい雰囲気を出していた。

そして、殆どの容器の中身は半分ほど使われている。

また、隅の棚には鋭利な刃物が数本並べられており、部屋の電灯の明かりを刃が反射させ自己主張している。

刃物はどんなものでも容易に切断しそうな出来上がりだ。


 柚子は刃物をしばらく凝視し、大きく息をのむ。

それから、部屋の出入り口に視線を移し、見えない玄関を頑張って覗こうとする。


 柚子が家を物色していると、酢醤は棚の前に移動し、刃物を手に取った。

そして、その状態で柚子の方に顔を向ける。


「もう少し待ってて」

「あ、はい……」


 彼は真顔のまま呟き、再び調理場に向かっていく。


 柚子は酢醤の後ろ姿をしばらく見つめ続ける。

それから、彼の背後から自分のスマートフォンに視線を移し、現在時刻を確認した。

そして、彼女はもう一度、椅子に座ったまま玄関を覗こうと頑張る。


 酢醤は柚子の様子を気にせずに、淡々と食材を触っている姿を背中で見せ続け、まな板に何かが当たる音を室内に響かせ続けた。


 数十秒後、柚子は切羽詰まった表情を作りながら、口を開く。


「あの、すみません、やっぱり私――」

「出来ましたよ」


 酢醤は丼ぶりを両手で支えるように持ち、そのまま柚子の近くに寄る。

それから、彼は柚子の目の前にゆっくりと丼ぶり容器を置く。


 柚子は丼ぶりの中にある、何かの肉片を不安そうに見下ろす。


「……あの、これは?」

「仙台牛(せんだいうし)のローストビーフ丼」


 柚子の質問に、酢醤は淡々と答える。


 柚子は彼の冷たい表情から目をそらし、ローストビーフ丼を眺めた。


 ローストビーフ丼の上には、何枚もの薄紅色の牛肉が並べて敷かれていて、その中央には卵の黄身が乗っかっている。

また、緑色、あるいは黄緑色の小さなネギが各所に散りばめられていた。

そして、わずかに茶色いソースが付着した牛肉の下には、白い米が敷き詰められている。


 酢醤は柚子の斜め前に着席し、柚子にゆっくりと手を差し出す。


「どうぞ、食べてください」

「えーと……」

「あぁ」


 彼は咄嗟に席を立ち、棚から箸を取り出し、柚子に手渡した。


「はい」

「あ、ありがとうございます……」


 柚子はしばらくローストビーフ丼を眺め続ける。


 酢醤は彼女に言葉を投げかけた。


「肉は嫌い?」

「いえ、そうじゃないですけど……」

「ほら、食べて」


 酢醤は無表情で促す。


 柚子は箸を握りしめ、眉尻を下げながら丼ぶりの中に箸を入れる。

タレを吸い込んで茶色がかった白米と牛肉を一緒に箸で持ち上げ、口の中に運んでいく。


 酢醤は柚子の行動をじっと静かに眺めている。


 柚子は彼の視線に不安そうな表情で答えた。


「うっ!」


 柚子は突然、口元を手で押さえ、両目を見開き、体を硬直させる。


 酢醤は彼女の反応を確認したら、口角を上げた。


「どう?」

「……美味しい。脂を一切感じさせないけど、しっかりと旨みが含まれてて、でも強い旨みじゃない。そこをちょっと甘いタレが助けて、濃すぎない味で食べやすくて美味しい」


 酢醤は微笑みを彼女に向ける。


 柚子は丼ぶり中央の卵黄に箸を入れると、黄色い洪水が全方位になだれ込む。

それから、箸で水害を広めるかのように、牛肉の上に塗っていく。


「……美味しい! 卵の黄身を付けたら、食材の味を邪魔しない、濃厚で粘度がある液体が加わって新しい食感になって、すごく…美味しいです…」

「そんなに美味しがってもらえると、嬉しいな」


 柚子は黙々とローストビーフ丼を口の中にかきこんでいく。


「ところで、どうして、こんな美味しい物を私に食べさせようとしたんですか?」


 柚子は柔らかい表情で尋ねる。


「どうしてだと思う?」

「えっ」


 彼女は口を動かし続けながら、沈黙を続けた。

そして、少し頬を赤く染めながら口を開く。


「まさか、私のことが好きだったり?」

「うん」


 酢醤の言葉を聞いて、柚子はさらに顔を赤くさせる。

彼女は思いきりローストビーフ丼を口の中に詰め込んでいく。


「……冗談じゃなくて、本当ですか?」


 酢醤はゆっくりと首を縦に振り、微笑む。


「俺、佐藤さんの事がずっと好きで」

「そんな……」

「ずっと、オフィスでお弁当を美味しそうに食べている姿が好きで。いつか俺の料理を食べさせて、美味しく食事して笑顔になっている所を見たかったんだ」


 柚子は真顔のまま酢醤の顔を見つめ続ける。

そして、目から水滴をこぼしていく。


 酢醤は彼女の水滴を目で追う。


「どうしたの?」

「酢醤さんが作ってくれたローストビーフ丼が、予想以上に美味しくて。嬉し涙です」

「でしょ? 頑張って作った甲斐がありましたよ」

「はい、とっても美味しいです」

「これからも、また俺の家に来てくれるかな?」

「えぇっ、いいんですか! もちろん、喜んで!」

「やった。佐藤さんのために、いっぱい準備しなきゃ」


 酢醤は生き生きとした表情で柚子を見つめる。


 柚子は酢醤の視線に応えるように、満面の笑みを浮かべた。

それと同時に、彼女の目から更に水滴が溢れ出ていく。

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