第8章

夕暮れの薄明かりが、図書館の窓ガラスを薄く染めていた。埃っぽい空気には、古紙特有の、かすかに甘く、どこか懐かしい香りが漂う。それは、加納哲也の胸を締め付ける騒音とは対照的な、静謐で温かい聖域だった。隅の席に、蒼太はいつものように身を縮めていた。薄汚れた制服の襟は乱れ、膝に抱えた漫画の表紙だけが、かすかな色彩を放つ。彼の視線は、磨り減った木の床に釘付け。小さな肩は、まるで見えない重荷を背負い込んでいるかのようだった。


その様子を、鈴木美智子は遠くから見つめていた。数週間前からの変化は、彼女にはっきりと感じ取れた。かつて、朗らかに笑みを浮かべ、目を輝かせながら冒険小説を読みふけっていた少年は、影のように静かに佇み、その瞳は、深い淵のように濁り、光を失っていた。まるで、深い海の底に沈んだ真珠のように、かつての輝きは失われ、暗く、深く沈んでいる。


美智子は、ゆっくりと本棚へと歩み寄った。少年が好む冒険小説ではなく、今回は、静謐な森を写した写真集を選んだ。ページをめくる音だけが、静寂を破る。一枚一枚の写真は、まるで息をするように、静かに、そして力強く、自然の息遣いを伝えてくる。 息を吸い込み、美智子は蒼太の傍らへと静かに歩み寄った。


「蒼太くん、今日は少し疲れているみたいね」


優しく響く声。それは、枯れ葉を揺らす秋の風ではなく、柔らかな春の微風のように、蒼太の耳に届いた。驚いたように、蒼太は顔を上げた。美智子の温かい笑顔に、一瞬、彼の瞳に、かすかな光が宿る。しかし、それはすぐに消え、再び深い淵へと沈んでいった。まるで、水面に現れた一瞬の虹のように、儚く消え去る。


「…はい」


かすれた声は、枯れ葉が風に舞う音よりも、さらに小さく、繊細だった。まるで、息をするのも辛いほどの疲労感が、声の奥底に潜んでいるようだった。


美智子は、蒼太の傍らに静かに腰掛けた。彼の肩にそっと手を置くと、予想以上に冷たかった。まるで、凍えるような冬の夜に、触れた氷の塊のように、冷たく、そして硬かった。その冷たさは、少年の心の奥底に潜む深い闇を、肌で感じさせるほどだった。


「何か、困っていることでもあるの?」


美智子の声は、春の雨のように、優しく、そしてしつこくない。静かに、しかし確実に、蒼太の心を潤していくような、そんな声だった。


蒼太は、しばらく黙っていた。視線は、相変わらず床に落ちた。そして、小さく首を横に振った。


「…何も…」


その言葉は、まるで、息を潜めて生きている生き物のように、小さく、弱々しかった。美智子は、彼の言葉を信じることができなかった。彼の沈黙、彼の表情、そして、彼の冷たさ、全てが、彼の心の叫びを物語っていた。


美智子は、静かに蒼太の手を取った。彼の小さな手は、冷たく、震えていた。まるで、小さな鳥が、必死に羽ばたこうとしているかのように。


「大丈夫よ。いつでも話していいのよ」


美智子の言葉は、暗闇に灯された一筋の光のように、蒼太の心に温もりを与えていった。それは、決して押しつけがましくなく、ただ、そこに存在するだけで、温かい光を放つ小さな灯火のようだった。


図書館の静寂の中で、二人の間には、言葉以上の何かが静かに流れていた。それは、理解、共感、そして、深い慈愛だった。美智子の優しさは、春の芽吹きのように、ゆっくりと、しかし確実に、蒼太の閉ざされた心を解きほぐしていく。それは、春の訪れを告げる、温かい光だった。


やがて、日の光が、図書館の窓から差し込み、蒼太の小さな肩を優しく照らした。その光の中で、美智子は、少年の未来に、かすかな、しかし確実に存在する希望を見出した。それは、まだ小さな芽だが、確実に成長し、やがては大きく花開くであろう、そんな希望だった。

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