第7章

昏黄の街灯が、雨に濡れたアスファルトを薄く照らし、その光は、まるで水に滲んだ油絵のようだ。加納哲也は、その仄暗い光の下、一人佇んでいた。空には、鉛色の雲が低く垂れ込み、街全体を重苦しい闇に沈めていた。時折、冷たい雨が、彼の頬を打ち、身体を冷やす。その冷たさは、アスファルトから立ち上る湿った空気と混じり合い、彼の肌を刺すように冷たかった。彼の心にも、それと似た冷たさが、深く深く沈殿していた。それは、凍てつくような、底知れぬ寒さだった。


ポケットから、擦り切れて皺くちゃになった煙草を取り出す。指先が、その粗い紙面に引っかかる。火を点ける。マッチの擦る音、そして、一瞬の火花。吐き出される煙は、街の霧と混じり合い、瞬く間に消えていく。まるで、彼の過去の記憶のように、儚く、そして、跡形もなく消え去る。しかし、その記憶は、煙とは違い、容易には消え去らない。むしろ、深く深く、彼の魂に、焦げ付いた烙印のように、刻み込まれている。


それは、鮮烈で、決して忘れられない記憶だった。鮮血が飛び散る光景。それは、まるで、悪夢の残像のように、彼の脳裏に焼き付いていた。妻・美咲の狂気じみた叫び声。それは、彼の鼓膜を震わせるような、凄まじい叫びだった。そして、鈍く響く打撃音。それは、彼の胸に突き刺さるような、痛ましい音だった。何度も何度も繰り返された暴力の記憶が、断片的に、断片的に、彼の脳裏に蘇る。まるで、壊れたフィルムが、断続的に再生されるかのようだ。


最初の暴力は、結婚して間もない頃だった。些細な口論から始まった喧嘩は、美咲の怒りの奔流と化し、哲也の頬に鋭い打撃を浴びせた。その瞬間、彼の世界は、白黒の映像に変わった。焼けるような痛み。頬を伝う温かい液体。それは、血だった。その鮮やかな赤色は、彼の記憶に、鮮烈なコントラストを描いた。


それからというもの、暴力は日常の一部となった。まるで、季節の変わり目のように、自然で、避けられないもののように。些細なことで、美咲の怒りが爆発し、哲也は、彼女の標的となった。殴られる、蹴られる。時には、陶器の置物が、彼の頭に直撃し、鋭い破片が彼の頭皮に突き刺さった。身体的暴力だけでなく、精神的な虐待も受けていた。美咲の言葉は、常に鋭く、冷たく、刃物のように、哲也の心を深く傷つけた。「お前なんか、死んだ方がいい」「役に立たない男!」 彼女の言葉は、彼の心を蝕み、自己肯定感を奪っていった。


彼は、その度に、深く傷つき、深く絶望した。しかし、同時に、美咲への恐怖心も、日増しに大きくなっていった。それは、理性を超えた、本能的な恐怖だった。彼女に逆らうことなど、到底できない。彼女の怒りの前に、彼は、まるで木の葉のように、翻弄され、無力感を味わった。


彼は、何度も逃げ出したくなった。何度も、息子の蒼太を抱きしめ、逃げようとした。しかし、息子・蒼太の存在が、彼をその場にとどめていた。蒼太に、この地獄のような日々を見せるわけにはいかない。その思いが、彼を支え、同時に、彼をこの暗い場所に縛り付けていた。それは、愛ゆえの、苦しい束縛だった。


しかし、逃げ場のない閉塞感、絶望感、そして、深い恐怖。それらは、彼の心を蝕み、徐々に、彼の魂を窒息させようとしていた。彼は、まるで、深い闇の中に閉じ込められた、一匹の獣のようだった。息苦しかった。息をするのも、苦しかった。胸が締め付けられるような、息苦しさを感じていた。まるで、誰かが、彼の胸を、強く強く、締め付けているかのようだった。心臓が、彼の胸の中で、激しく鼓動していた。


雨は、ますます激しくなってきた。冷たい雨が、彼の顔に容赦なく叩きつけられる。彼の心にも、雨のように、涙が溢れそうになった。しかし、彼は、涙をこらえた。男の涙など、無意味だと、彼は思っていた。男の涙は、弱さの証だと、彼は信じ込んでいた。


煙草を吸い終え、哲也は、ゆっくりと立ち上がった。彼の背筋は、依然としてピンと伸びていた。それは、緊張の表れであり、彼の心の弱さを隠すための、必死の抵抗だった。


彼は、闇の中にたたずむ、群青色の隧道を見つめていた。その隧道の出口は、どこにあるのだろうか。彼は、まだ、それを知らない。しかし、彼は、歩き続けることを決めていた。たとえ、その先が、闇に包まれた、果てしない隧道であったとしても。彼の足取りは、ゆっくりと、しかし、確実に、前へと進んでいく。その足取りは、かすかな希望を、闇の中に灯していた。

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