救い
佐々井 サイジ
第1話
法廷の奥、中央に座る裁判官を田崎は茫然と見つめていた。黒い袈裟を着た裁判官は長々と何やら読み上げているが、耳の奥でハウリングのような耳鳴りが続いており、言葉の内容は聞き取れなかった。それよりも死刑判決が確実になった今、いよいよこの世と決別できるという格別の喜びに侵されていた。ハウリングでさえも心地よい子守歌のように響いていた。
五人を包丁で刺したときの感触は今も手のひらに残っている。標的を定めながら公園沿いの道を歩いていると、少し先に子どもと手を握って歩いている女がを見つけた。もう片方の手は買い物袋が握られており、完全に無防備だった。田崎は足音を忍ばせることなくツカツカと歩調を速め、女の背中めがけて包丁を握る手を振りかぶり、ひと息に切っ先から差し込んだ。
「え?」
女が振り向いた瞬間、急に怖くなった。一刻も早く死んでくれとばかりに包丁を深く差し込んでいく。ブチブチと肉が切れる感触。女は頽れながら子どもを抱きかかえた。小さな断末魔の悲鳴をこぼしながら子どもを守った女を見て罪悪感を抱かなかったわけではない。田崎にはこれしかなかった。せめてもの情けで子どもを避け、逃げ遅れた男や女に襲い掛かった。
田崎は死にたかった。しかし、どうしても勇気が出なかった。首を輪の中に入れるも椅子を蹴飛ばすことができなかった。ならばと包丁を手首に押し当てるもその手を引くことができなかった。駅のホームから飛び降りてやろうと画策したが、駅員のアナウンスで我に返り、目の前を流れる電車には哀れな自分が映っていた。
それでも希死観念は消えず、むしろ強まるばかりだった。国立大学を卒業した田崎は地元の中小企業に就職した。就職活動中、大企業ばかりエントリーシートを出した。国立大学に進学したのだから無名の中小企業に就職するなど考えられなかった。業務内容など二の次だった。とはいえ田崎はコミュニケーション能力に優れているわけではない。九割は書類選考で落とされていく。なんとか篩に残してくれた企業も一次面接でお祈り通知が届いた。大企業の規模には劣るが地元では名の知れた企業にエントリーシートを出した。田崎なりの妥協だった。しかし、三次面接まで進んだところで、不採用の通知が届いた。自棄になった田崎は帰り道にたまたま見上げたビルの一角に書いていた企業にエントリーし、就職が決まった。ゼミの同期には無名の企業名など言えるわけもなく、「教育業」とやんわりと伝えていた。田崎の意思をなんとなくくみ取ったのか、同期も深く突っ込んでは来なかった。
面接時に優しそうな印象を受けた男が上司になるのだが、これが豹変する。パワハラ上等、残業上等。それが新卒研修だと思えと言わんばかりに周りの社員は見てみぬふりをする。この会社だけ時代が昭和で止まっているのではないかと思うほど過酷だった。田崎は退職代行を利用して会社を辞めた。
しかし、就職活動中に変形した自尊心は上司に散々罵倒されたことによって完全に原型がなくなり、修復の仕方もわからなくなっていた。そのうち自殺を考えるようになり、それが失敗に向かうと、「死刑になるにはどうすればいいか」と考えるようになった。
日本では昨年、拷問刑が法律として認められたところだった。死刑は人権無視であるという国際世論に加えて、希死観念を持つ人は死刑になるために大量殺人を犯し、死ぬこと自体が救いになるため、刑として本末転倒ではないかという国内世論も噴出してきた。その結果生まれた刑罰だった。死刑や一定期間刑務所に所属することでは罪の償いが不可能とされた罪人に与えられる刑だった。拷問内容は明かされていないが、噂によると完全に発狂して人間ではなくなるとも言われている。
それだけは避けなければならない。死刑になるには、大量に人を殺しつつも死を望んでいないというスタンスでいなければならない。
五人の殺害を達成し、第一関門を突破した田崎は、殺したときの描写を生々しく笑顔で語り、一方で遺族に謝罪して、死刑だけはやめてほしいと法廷でひたすら繰り返した。これさえやれば、謝罪がうさん臭く思え、反省している様子がなく受け止められて死刑になるに違いないと踏んでいたのだった。どれだけ懺悔をしたところで死刑を満たす要件が変わることはないとわかっていた。
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