にいくら編みもの教室 ××× アドベントカレンダー2025 ×××

ミコト楚良

§1§  編みもの教室初回

 空気は冷えているけど、よく晴れた土曜日。 

 新倉奈々子にいくらななこは、ちらりと壁の柱時計を見た。

 そろそろ生徒が来る。

 はじめてのことに緊張するなんて、いつ振りだろう。入学式、入社式、はじめてのデートまで思い浮かべて、奈々子は苦笑した。


            ×××


         にいくら編みもの教室

 

    編みものをはじめてみませんか。

    まったくの初心者さん向け講座です。

    毛糸と道具は、こちらで御用意いたします。(自宅保管の寄付毛糸)

   

    全5回のレッスンで、マフラーを完成させましょう。


            ×××


 この文面の下に11月半ばから12月のクリスマスの直前までの講習日を並べた。

 土曜日の15時から16時。

 講習代は、5回分で2000円。

 チロルの本日の珈琲つき。

 欠席の日も、チロルの本日の珈琲券1枚を渡すことにした。



 このチラシをチロルの店内に用意して、入り口の風除室にも貼っておいた。

 

「これ、参加申し込みして、全部来れなくなりました~って言ったら、チロルの珈琲をお得にで飲めるチケットじゃ」

 黒エプロンの男が、カウンターの中から皮肉っぽい笑顔を奈々子に向けた。

「そんなこと考えるの、マスターだけですって」

「うんにゃ。常連ならそう思うべな」 


 ここで、奈々子の毛糸編み講師の資格が役に立つとは。

 アルバイト応募の履歴書に書くことがなくて、昔、市の公報で募集に応じて取得したヘルパー2級とか、そういうのまで奈々子は書いたのだ。

 編み物講師の資格を取ったのは、婚約前だった。ヘルパー2級免許を取ったのは、その婚約破棄後だった。

 チロルに来て、かれこれ1年がたとうとしていた。

 藁にもすがる思いで、チロルのアルバイト募集に応募した頃が懐かしい。アルバイト募集の『寮完備、賄いつき』の文字に奈々子は食いついたのだ。そういえば、そのチラシも、チロルの入り口に貼ってあったっけ。



「本日の珈琲、深煎りで」

 お客様のオーダーを奈々子が告げる。


 マスターは銀色の珈琲ケトルの細長い注ぎ口から、熱い湯をカップの上に据えたネルドリップに注ぐ。

 珈琲の香りが同じ色合いの家具に、ゆっくりとなじんでいく。


 マスターの伯父は小型の焙煎機で豆を少量ずつ焙煎ばいせんし、ハンドドリップで1杯ずつれていたという。それをマスターも継承した。

 知られていないけれど、テイクアウトにも対応している。ぼちぼち立ち寄ってくれる人がいる。

 店の前の道が電車の駅へ行く抜け道のようになっていて、人通りがあるのだ。


「奈々子さん、とりあえず座ったら」

 落ち着かない様子の奈々子を見かねて、マスターは一枚板テーブルのカウンター席をすすめてくれた。


「ありがとうございます」

 奈々子は下がり眉を、いっそう下げた。

 この眉のせいで気弱で寂し気に見えるらしい。

 女子校時代の奈々子のあだ名は『日陰』だった。うれしくない。


 そうして奈々子が何気に両の手を乗せた一枚板のカウンターテーブルは、少しだけクリスマス仕様になっていて、子羊を抱いた少女の木彫り人形が置かれていた。

 藍色の北欧のイヤープレートは先代マスターのコレクションで、それは年中飾ってあった。

 チロルのコーヒーカップは、カモメの柄だ。


「3名だっけ」

 チロルのカウンター席は低座でくつろげる。うっかりすると、これからの用事を忘れそうになる魔の低座椅子だ。

「3名です。まず、藤崎ふじさき先生が招待枠。あと2名、申し込みをいただきました」


 この編みもの教室の企画は実験段階。

 奈々子も、はじめて人に教えることを考えれば、そのくらいの人数で十分だった。

 本来の喫茶店業務に支障が出ては本末転倒だ。



 かららん。

 チロルの扉に固定したドアベルが鳴った。

 ぴょこんと小柄な女子が、顔をのぞかせた。

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