第5話 眩む希望
水の流れる音が聞こえ、足を早めた。
森を抜けた先に広がる晴々とした空の下には、帝国最大の大河が
「わぁ……! これが、大河なのね!」
向こう岸はかろうじて見える程度で、川沿いには所々に船頭が立っている。私達以外の冒険者も何組か見えた。
帝国西部の冒険者の多くは大河を渡り、都を目指す。
みんな未来に希望を持って大河を渡ろうとしているんだわ。多くの若者の希望を背負っている大河は日の光を反射して綺麗に輝いている。
「思っていたよりもさらに大きいわね」
水の流れる音がけたたましい。“大河”と呼ばれているだけありあらゆる面で期待以上だわ。
「……空気が湿っている。雨が降りそうだな。急いで適当な渡り船を探そう」
雄大な大河には目もくれずに足を進めるミラク。
渡り船が集まっている場所に向かっている。
「もしかして、ミラクさんは大河を渡ったことがあるんですか?」
ニーナが首を傾げて、慣れた様子のミラクに尋ねる。
ニーナが旅の仲間に加わってから五日間ほどが過ぎていた。
ニーナは、私たちと共に旅をすることになったのだった。
蒼龍狩りの依頼をニーナ伝手に出していた村では、村民たちにとても感謝された。
聞けば、交易商が蒼龍を怖がって寄り付かずに、村では物流が滞って困っていたらしい。
『いやぁ、あんたらが蒼龍を倒してくれたおかげで、また上手い酒が手に入るようになるよ!』
報奨金や報酬として殲獣の希少な部位を渡してくれただけでなく、その村の村長は、ちょっとした宴のようなものも開いてくれた。
私たちは散々楽しく飲んで語り明かした。
そして、すべて終わって村を発つとき、ニーナとこんなやり取りをした。
『ニーナ。村までの案内をしてもらって世話になったわね。宴も楽しかったわ、また会えたらいいわね』
私はそう言ってミラクと村を立ち去ろうとした。
『ねぇ……サキちゃん、ミラクさん。私も、一緒に都を目指したらダメかしら?』
背後からニーナが私にこう言ったのだ。
私はニーナの提案を受け入れた。
旅は仲間が多い方が楽しい。何より、姉のことで都には良いイメージがないはずなのに、前へ進むことを決めたニーナのことを好ましく思った。だからニーナとは一緒に旅をしたいと思った。
ニーナは斧使いだ。斧は熊型の殲獣の骨を混ぜて溶かしてあるらしく、私の槍と同じように魔術は施されていないが、普通の斧よりも攻撃力や耐久性がとても高くなっているらしい。
ニーナは無愛想なミラクにも物怖じしないし、一人旅をしてきただけあって強い。森にいるような殲獣は簡単に倒す。
「……あら〜。ミラクさん返事をしてくれないわね〜。サキちゃんからも何か言ってみてくれない?」
「いやよ。私べつにミラクの過去なんか興味ないもの」
私はニーナの頼みを断った。
ミラクの過去に興味がないというのも本当だけれど、実はニーナが旅に加わったばかりの頃に、私の手合わせの誘いを断ったのも関係していた。
ニーナは「えぇっとね、私、幼い子に武器を向けたりするの苦手なのよねぇ」と断ったのだ。
――ニーナのことは好きだ。でも私のことを子供扱いしてくるのだけは、少し気に食わないわ。
「お願いを聞いてくれたら……そうね、大河を渡った先で戦ってあげてもいいわよ〜」
うっ……その条件を出されると弱い。私が戦闘を大好きなことは、共に旅をするうちにニーナも理解したらしい。
私を子供扱いしているニーナが本気で戦ってくれるとは思えないのだけれど、都まで共に旅をするのだから、少し武器を交わすくらいはして起きたいわよね。
仕方ないわ、私もミラクに尋ねてみるわよ。
「ねぇミラク、ニーナが聞いてるわよ。答えなさいよ」
「……俺は都シュタット出身だ。大河は西部に来るときに渡った。言っていなかったか?」
私が詰め寄ると、ミラクは渋々といったように答えた。
ミラクが、人族の多い辺境では亜種族の体は高く売れると言っていたのを思い出した。
「都と違って西部は亜人共が少なくて清々する」
ミラクは私を横目で見て嫌味を吐く。亜人とは、亜種族の蔑称だ。
私が吸血鬼族の混血だと知っておきながら、この言い草なんて喧嘩を売っているとしか思えないわ。
「ミラク、よくそんなことが言えたものね」
私がそう言うと、話の流れがわからないのかニーナは不思議そうな顔をした。
ニーナは私が吸血鬼族の血を引くことを知らない。
私は人族の村に育てられた。そのため常識は人族のものだ。
ぱっと見て分かる吸血鬼族の特徴は翼くらいだ。ニーナの前では外套を取っていないから、まさか私が吸血鬼族の血を引くなんて思ってもいないはずだ。
「それにしても、ミラクさんは都出身だったのですね。亜種族がお嫌いみたいですが、亜種族には何か嫌な思い出でもあるのですか?」
「無駄話をしている暇はない。適当な船頭に声をかけるぞ」
「あら、うふふ、相変わらず冷たいんですね」
ニーナはミラクに物怖じしないというよりも、のんびりとした穏やかな気性のため、特に気になっていないという方が正しいのかもしれない。
ミラクもニーナの態度を特に気にした様子は無い。目に見える範囲にある五つほどの渡り船を見比べる。
「あの渡り船にしよう」
ミラクが選んだのは、小ぶりな船だった。
「なんでよ? 蒼龍狩りの報酬でお金も殲獣の希少な部位もたくさん手に入ったんだから、大きな船に乗りましょうよ?」
「大きな船は相乗りをすることになる。相手を待たなきゃならない。……もうじき雨が降りそうだ。大河は荒れやすい。今、出航させなければ、船頭は二、三日は船を出さなくなるだろうな」
「ふーん……。まぁ、渡るなら早いほうがいいわね」
「ミラクさんは物知りで頼りになりますね」
ミラクの言葉に、私とニーナは素直に感心した。
船頭に声を掛けると、すぐに出発することになった。
「私、川で船に乗るの初めてだわ。小舟なのに揺れないのね」
「サキちゃんは海育ちだものね」
「大河の殲獣と遭遇したら、私が戦うから、ニーナとミラクは下がっていていいわよ」
「あらぁ。それは頼もしいわね」
私とニーナは、甲板で大河を見ながらそんな話をして過ごした。
ミラクは、船内から大河を眺めているだけだった。
何か過去を思い出しているようだった。
夜になるとポツポツと降り出して強まっていく雨音が聞こえた。
私とニーナは肩を寄せ合い、狭い船の中で眠りについた。
ミラクの言っていたことは本当だったのねと思いながら、意識を手放した。
そのはずだった。
*
全身を打つ冷たい風雨の感触で目が覚めた。
空は黒かった。雷鳴が空気を裂いて叫ぶ。
「なによ、これ……。私、どうして外に?」
船の中で寝ていたはずなのに……。一体何が……。
槍を取ろうと体を動かそうとしたが、上手く動かなかった。
頭がやけにぼんやりしている。
仕方なく朧げな意識で暗闇の中、目を凝らす。
目の前には、赤い髪の女の人が横たわっていた。
「ニー……ナ?」
ニーナの胸は赤く染まっていた。斬られていた。
「そんな……」
私は、動かないニーナを抱き起こそうと腕をあげようとした。そこで、縄で縛られていることに気がついた。
「殲獣用の麻酔薬を飲ませたのに、もう起きたのか。サキ。このまま何も知らずに溺れ死んでいた方がお前には幸せだったろうぜ」
満足に動かない体を何とか起こして見上げると、そこには血に塗れた刀を翳したミラクがいた。
断続的な意識の中。
私の意志とは裏腹に、何度も何度も、ミラクとの日々が脳裏に蘇った。
「悪く思うなよ。俺は初めからこのつもりだったんだ」
いつもの、ミラク特有の抑揚のない冷淡な声。冷たい瞳。嵐の中、私はミラクの黄色い瞳を朦朧とする意識を無理矢理奮い起こしながら睨みつけていた。
「なんでよ!? ミラク……! お前は、私の初めての仲間だった……なのに……裏切るというの!?」
私の腕の怪我が治るまでミラクに付いてまわったギルドでの地味な依頼。
蒼龍を見つけたとき、確かに分かち合ったした高揚。
他人は利用するだけだという態度を貫き、心を開くことを忘れたミラクを救いたいと思った。
いつか心を通じ合わせて笑い合いたいと、思っていたのに。
「ミラク……すべて嘘だったというの?」
絞り出せた言葉は、それだけだった。
「何か勘違いをしているようだな。サキ、出会った日を思い出すといい」
ミラクは淡々と言った。
「俺はお前を利用していたに過ぎない。お前との旅で心を動かされたことなど、ただの一度もない」
お前に利用価値があったかどうかは、お前を殺してから明らかになる、と。
「
そう告げたミラクは、縄で拘束した私と、斬られて動かなくなったニーナを荒れる大河へと蹴り落とした。
「……今度こそ、きっとあの熱が手に入る……」
船から蹴り落とされ大河に沈む直前に、ミラクがそう言ったのが聞こえた。
ああ。私はミラクのことを本当に何もわかっていなかった。
『知っているか? 人族の多い地域では、亜種族の体は高く売れるんだぜ、生体死体問わずな』
『こんな翼じゃ売っても大して値は張らねェだろうな』
『こいつを見て逃げ出すようなら、今ここで殺して、その翼を売り捌くつもりだった』
『囮、ご苦労だったな。サキ』
今までミラクが冷たい声で私に言った言葉が浮かんでは、消えた。
この軽口は、冷淡で、でもどこか不器用なミラクなりの意思疎通だと思っていた。
とんでもない、思い違いだったわ。
ミラクの言葉は、あの冷酷な瞳は、すべて本心だったんだ。
共に旅をしていたときの、戦いを通じてミラクと分かり合いたいという気持ちは、もう湧き出てこなかった。
私は……心躍る冒険をしながら都シュタットに旅をして、そして帝国軍に入って、名を上げて、……他にも、色んなことをしながら……亜種族である私を育ててくれたライトや村のみんなに恩返しをするつもりでいた。
…… つい先ほど、嵐の中の甲板で目を覚ますまでは、本気でそう信じていた。
信じていたすべてが、ミラクに否定されて、壊された。
前に進もうとしていたニーナを殺し、私のことも殺そうとしたミラクに感じるのは、もはや憎悪のみだった。
溢れるほどに胸の内側から感じていたはずの希望の光は、ゆらゆらと掻き消えていった。
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