19
……きっと。
今回しくじれば、私も克己と同じ運命を辿るのだろう――ありとあらゆる場所から消え失せ、公的にも私的にもこの世に初めから存在しなかったことになるのだろう。
まるで現実味がなかった話が、今は少しだけ実感を伴っている。
あの機関――『国力増強推進事務局』は、国力を増強させるためであれば、いかなる手段をもとる。それこそ、超法規的な手段でさえも。この平和そうに見える資本主義かつ民主主義国家の日本の裏では、黒くグロい粛清や弾圧が行われていた。
もうこの世に、彼の記録は存在しない。会社は登記簿ごと潰され、事業も無かったことになり、彼の出生届やその他行政書類は抹消され、死亡届すら出されていない。近しい親類や関係者には記憶処理を施し(どうやったかは不明だが、想像するのも悍ましい)、ネット上にも彼の痕跡は一切残っていない――
但し、私の記憶を除いて。
……1度、私は國義に、『何故私の記憶を消さなかったか』を訊いたことがある。彼の答えは『その記憶が、スパイプログラムの開発経験と深く結びついているからだよ。下手に記憶を消して、スパイプログラムの存在まで消えたらまずいだろ?』だった。そして『ちなみに、この秘密をバラしたら、君もこうなるから』と記憶処理や殺害の様子を見せられた。
むごかった。
吐きもした。
あんまりその処理の詳細を覚えてはいない(というより、脳が記憶を拒否したのだろう)が、恐怖を抱いたことだけはよく覚えている。
だから、克己や慈愛リツとの記録が再び世に出回ることを、何としてでも阻止したかった。
しかし、記憶や記録を消すのは、そう簡単なことではないと推断できる。プルースト効果などのように、人間の記憶は喪われたとて、ふとしたことで甦る。さらにネットにも紙にも情報が記される世の中では、全てを根絶することは不可能に近い。
現に燻離学生は、私と克己との姿を収めた写真や、克己の名前の書かれた慈愛リツの計画書を示してきた。
手に入れるのは容易ではない筈なのに。
……一体、燻離学生の裏で繋がっているヤツは、何者なんだろうか。ただのフリー記者ではない、何かこの件と深い因縁を握っていそうな予感さえあった。だとすると、そのフリー記者も、燻離学生さえも、かなり危ない状況にある。……彼・彼女の口車に乗せられた私も、同様だが。
何故なら、闇に葬られたあれらの秘密を暴いたことは、そのまま國義率いる『国力増強推進事務局』に対する反逆に他ならないからだ。遅かれ早かれ、私達はきっと消されるだろう。
――古代ローマでは、反逆罪を犯した重罪人の記憶や名声を破壊する目的で、記録を破壊し、そもそもこの世にいなかったものとして扱う措置がとられていた。
反逆。
克己は慈愛リツという技術を使うことを是としなかった。恐らく克己も私と同じように脅されたというのに、國義の要求を突っぱね、反逆したのだ。
彼は、やはり強い。
脅しに屈して受け入れた私とは違って、遥かに。
当然の帰結として、彼は消え、私は生き残った。
自分勝手に生き残った私の心に残ったのは、自分勝手で、故にやり場のない惨めさだけ。
そんな惨めさを抱えたまま、私はいずれ消されるのだろうな――そんな嫌な妄想もした。その妄想は今、少しだけ手触りのあるものになりつつある。
――そんなことを思いながら、私は車に揺られていた。
但し、どこを走っているのかは一切検討がつかない。大学に迎えに来た國義たちに目隠しと耳栓をされ、更には後ろ手に手錠までかけられているからだ。流石に目隠しや手錠の一式を見た時はギョッとしたが、國義の『殺さないよ、まだ失敗も逃亡もしてないんだから』という言葉に従うしかなかった。
圧倒的な力の前に、人は無力。
……視覚も聴覚も奪われ、時間感覚を失ってしまったからか、どれだけ時間が経ったか分からない頃、突然車が止まる感覚がした。同時に、耳栓が外される。
「はい、到着。降りて」
國義の声と同時、ドアが開く音。まだ私の拘束は解かれない。私は暗闇の中、感覚を頼りに車から降りた。今どこにいるのかは分からないが、コンクリートとは異なる地面の柔らかさ、葉擦れの音や蟲のさざめきから、明らかに都会から外れた場所――例えば山の中とかなのだろう。
下手をすれば私は、ここら辺に埋められて死ぬのだろうか。
……もしかしたら私は、埋められた死体の上を、歩いているのでは。
そんな空恐ろしいことを思いつつ、パソコンの入った鞄を後ろ手に持たされ、背中を押されながら進んで行った。
暫くして立ち止まらされる。國義(か、彼の部下)が何かをピッ、ピッと操作する音の後、扉が開く音がした。
「ようこそ、私達の秘密基地へ。ささ、入って入って」
中に入る。冷房が効いていて、ゾッとするほど寒かった。後ろで扉が閉まる音がしてから、ようやく、目隠しと手錠を外された。
一面の、白だった。
明る過ぎて、反射的に目を瞑った。徐々に目を開いていき、目の前の光景の解像度が上がる。
白い天井。白い蛍光灯、白い壁。
真っ白な、異様で異常な空間。
ここが恐らく、『国力増強推進事務局』のアジト。
「手荒な真似してすまなかったね」歩きながら國義は言う。「ただ、ここの場所は国の最高機密でさ。この国には存在しない機関――という建前上、誰にも明かす訳にはいかなくてね」
無論、准教授――と國義は笑顔を向ける。
「貴方は特別だ! 貴方は、ここに来た時点で、十二分に選ばれた人間なのだよ!」
選ばれた、か。
あんな脅しをして引き摺り込んでおいて。更には克己も消しておいて。
苦笑だか怒りだか分からない表情を浮かべそうになるのを、私は必死で抑えていた。
「さて。研究発表の場所はここで良いかな」
國義がとある部屋の前で止まり、指紋認証をして扉を開け、私を招き入れた。その部屋も、白一色のなんとも不気味な部屋だった。
「あ、Wi-Fiのパスワードはコレだよ」
旅館にでも泊まりに来た時に、友人に教えるくらいの気軽さで、Wi-Fiパスワードを見せてくれる。異様に長いパスワードだった。
迷わず私はパスワードを打ち込み、Wi-Fiを繋ぐ。このスパイプログラムは、Wi-Fiに繋がねば機能しない。
但し繋いでも、このプログラムが動いたという形跡は残らない。形跡を一切残さず、この世のありとあらゆる情報を集積し、データを集めるプログラム。それが故に、スパイプログラム。
慈愛リツを削除したあの日――2022年8月14日。彼女は、誹謗中傷者たちの事細かな、しかもかなり正確な個人情報を手にしていた。それなのに――後で分かったことだが――それら個人情報を手にしたという
これに目をつけたのが、國義たち『国力増強推進事務局』だ。彼
――発明は、得てして偶然から成されることがある。ポストイットやコカコーラ、電子レンジやペニシリンなどもその類。こうした偶然の産物が、世界を席巻することもある。
このスパイプログラムも、いずれそうなるだろう――ただしこの場合は、席巻なんて生易しいものではなく、支配だろうが。
スパイプログラムを起動。
つるりとした凹凸のない顔のアバターが現れる。
「それと」立ち上げると同時、國義が紙を1枚手渡してきた。「こちらで名前を無作為に選んで指定したから、これらの名前を打ち込んで、調べさせてみてくれ」
私は國義からリストを受け取った。名前は、10人ほど書かれてあった。
ロドリゲス・フォージャー。
マリア・エイジア――
――無作為。
すなわち、ランダムな選択。
私は、その言葉を疑いたくなった。
なぜならリストの次の名前は、見間違えようもなく。
合歓垣燻離
彼女の、名前だったから。
何故、ここに。
「さあ、実験を始めよう。感惑准教授」
待ちきれない様子で、國義が声を上擦らせる。私はそれに頷くしかなかった。驚愕を顔に出していないかどうかは、わからなかった。
早速、1人目の名前を打ち込む。12分ほど待つと、その人物の出生から現在までの詳細なデータ――すなわち人生が、A4用紙2枚ほどに収まって出力された。
『 不破或伍。年齢42歳。職業プロ棋士。生まれは██県██村███。実家は地元の名士であり、父が大の将棋好きであった。初めは将棋を勧める父を鬱陶しく思っていたが、次第に将棋の面白さに目覚め、地元の将棋スクールに通う。20歳でプロに。その後、タイトルを獲得し、24歳には現妻・
村に届け出られた死亡届を元にすると、27歳時に、父・
……開発者ながら、恐ろしい。
不破或伍。そう言えばそんなプロ棋士がいた。そのくらい有名であるが、途中から語られていることには一切の心当たりがない。
「へえ、父の死の事実は初めて知ったよ」
お題を出した國義ですら、この始末だった。
「これが本当なら、中々なクズ野郎――というか、人の心とか無いのかな、コイツは」
そう思わないかい、感惑准教授――國義はそう私に振った。
……お前が言うか。私は心の中でそう返した。
「ま、こんなの知ったところで、国力の足しにもならないけど。実験は実験だしね」
確認しといて――國義は近くにいたスーツの女に紙を渡した。女はスマホを耳に当て、どこかへと去ってゆく。
「でも、感惑准教授」私の方を振り返った國義は、爛々と目を輝かせる。「あの1人目、他の部分は全部当たりだったよ! 素晴らしい! 予想以上の出来だ! あの父の死隠しまで事実だったら、私達もまだまだということだ」
いずれ、AIに仕事を奪われるかもな――と國義は茶化す。どんな返答をすれば良いか困って、私は曖昧に笑う。
「ま、それはさておき。どんどん行こう! 楽しみになってきたよ!」
言われるがまま、私はスパイプログラムに名前を打ち込んでゆく。
2人目、江戸紋土。男性。37歳。フリーライター。執拗な取材と執念の調査であらゆる有名人の闇を暴いてきた。彼により、人知れず姿を消し、この世からも消えた者は数知れず。
3人目、李小鈴。女性。29歳。本名、李
そして、4人目、5人目と、次々スパイプログラムは情報を吐き出してゆく。
「本当に素晴らしいよ」
國義は特に、3人目の結果を見て手を叩いていた。
「この人に関してはパーフェクトだ。しかも、表に出ている情報も少なく、拷問を受けて死亡した事実なんてのは国際的にも機密情報だ。それでもキチンと引き出し、しかも政府関連のログには侵入された痕跡が一切ない。これは、凄まじいね」
「……どうも」
賞賛の嵐だった。しかし、私には嬉しいと感じられる余裕はなかった。
末恐ろしかった。この、自ら生み出したスパイプログラムが。
本当に世界を――今までのパワーバランスから何から、全てをひっくり返してしまいそうで。
……そして、6人目。遂に順番が回ってきた。
「それじゃあ次だ、次。早く行こう、感惑准教授!」
促されるまま、私は冷静に、名前を打つ。
合歓垣燻離。
彼女の名前を。
だがこの時にはもう、私の心から動揺は掻き消えていた。別に彼女の名前がこのリストにあっても不思議ではない。無作為であるということは、『必然はない』ということを意味するだけで、『可能性がゼロである』ことを意味しない。
それに、私は彼女のことを知っている。単なる紙面上の存在ではなく、生身の人間として知っている。大学生で、父と母との3人家族で、歌(とドーナツ)が好きで、バーチャルアイドル『音夢崎すやり』の中の人で、誹謗中傷によって心を壊して配信活動を休止し、全財産を
だから。
その生い立ちのほとんどがひっくり返る前提条件を見た時、私は思わず息を呑んだ。
「どうかしたかい?」
「……いえ」
國義が尋ねてきた時に、私は辛うじて、そう答えた。もうこの時点で、私は実験のあれやこれやが、どうでも良くなっていた。
「何も。これが検索結果です」
「ふむふむ……ま、これも当たりだね。いやあ、本当素晴らしいよ! さ、どんどん行こう、感惑准教授」
その後、私はぼうっとしていたのか、あまり鮮明な記憶が残っていない。
國義が満面の笑みだったから実験は概ね成功したのだろうと悟れたことと、どこかから電話がかかってきて、ウキウキしながらどこかへ去ったことくらいしか、あとは覚えていなかった。
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