9
午後6時50分。
約束時間のピッタリ10分前、カフェ・メロウに到着。扉を開けると、ゆったりとしたジャズソングと冷房の冷気がふわりと流れ込む。
「いらっしゃいませ〜」とにこやかに寄って来たウエイターに、私の名前を告げた。すると表情を一変させ、こちらへどうぞ、とカフェ中央にある席へと案内される。
優雅にコーヒーを飲む老夫婦や、仕事の電話をしているらしい
「やっ。流石は准教授、10分前行動とは感心するね」
「……どうも」
影から
年齢は不詳だが、30代前半に見えるほど若々しい。黒い髪の毛をきちっとヘアクリームでまとめ、オールバックにしている。服は黒無地のスーツ姿で、これ以外の服装をしているのを私は見たことがない。
そんな柔らかな笑顔を湛える彼の正体。それは、日本国・内閣府直下、特別機関の1つにして、日本国ホームページに名前すら載っていない組織『国力増強推進事務局』の局長。
そして、今回の『スパイプログラム計画』の統括責任者だ。
「ま、座ってよ。なんか食べる? 僕もサンドイッチ頼もうと思ってるんだけどさ。あ、金は気にしなくていいよ。
「……いや、自分で払うよ」
私は答えた。こんな技術の開発をしておきながら、税金を使って食事をとる気は、更々なかった。
「遠慮する必要はないぜ!」
だが、國義はメニュー表を私へと押し付けてくる。
「良いかい、感惑准教授。これは必要経費だ。貴方をきちんと生かして、常に万全な状態で研究をさせるための」
……万全な状態、か。
今はまさしく彼女のせいで、そうとは言い切れないのだが。
若い男性店員が私の分の水を運んで来る。だが構わず、國義は話を続けた。
「それに、『血税』を使っていることに負い目を感じているのなら、それこそお門違いってもんだよ、感惑准教授。このプロジェクトは、必ず国の為になる。国の為になる事柄には、きちんとお金を使うべきだ。私は、貴方が元気でいてくれることこそが、この国の為になると思っている。それに、別に無駄遣いしている訳じゃない。数日ぶりにどこにでもある普通のカフェで会って、高くもない食事をしているだけだよ。何か問題があるかい?」
「……」
このプロジェクト自体を推進することに問題があるだろ。
そう思ったが、これ以上は口を慎み、
國義はスティック砂糖を次々と破り開け、紅茶の中に全て放り込んだ。今の私の年齢になると中々できそうにない飲み方だ。……本当、コイツは何歳なんだ?
「さてさて、早速プロジェクトの進捗でも見せてもらおっか。どんな感じだい?」
「今準備する」
私は、PCを起動する。
ディスプレイに、つるりとした凹凸のない――それこそ、顔の形すらない人型のアバターが現れる。
かつての慈愛リツから、顔も服も容姿も声も性別も名前も――AIについてまわる
「うわ、見た目はキモいな」國義は正直な感想を漏らした。「でも、コイツが世界の情報を盗む訳だろ? しかも何の痕跡も残さずに」
「お、おい」
私は思わず声を上げた。周りに聞かれてはまずい内容だったからだ。
しかし國義は「まあまあ落ち着いて」と私を制止するのみ。
「良いんだよ。ここにいる人には聞かれても」
「……それは、どういう」
「そうか、見せたことが無かったか」
不可解なことを言ってから、國義は突如席を立ち。
「はーい! 一旦止め!」
大声で、カフェ全体に呼びかけた。
その瞬間ぴたりと、談笑の声が止み、ウェイター達の動きが止まった。急に静まり返ったカフェの中、空気の読めないジャズソングだけが流れ続ける。
私は呆気に取られて何も言えなかった。だが、何が起きているのかは理解した。
國義の命令に、全員が従った。
それは、國義が異能力を持っているからではない。
恐らく、このカフェにいる全員が、『国力増強事務局』の関係者。そして、このカフェ・メロウは『国力増強事務局』の直営店といったところだろう。
だから、スパイプログラムの話をしていても、全く問題ない――という訳だ。
「やはり賢いね、感惑准教授」
ふふっ、と微笑む國義。私はその笑顔に背筋が凍る思いだった。
「戸惑いながらも、もう何が起きているか、理解している顔だ」
さて、話を続けようか――そう言うと、周りの談笑や動きが復活した。
動揺こそしたが、國義に促され、私はどうにか平然を装って回答をする。開発状況は順調であり、現時点でバグは認められないこと。そしてこのまま進めば、遅くとも1ヶ月以内には完成し、テストに移れること。
「へえ。流石は准教授。AIの専門外であってもここまで早く仕事ができるとはね」
「……どうも」
こうして褒め言葉を素直に受け取る私は、結局、燻離学生のことを伏せたままにしておいた。
……あの燻離学生の計画を頓挫させる、最も手軽で最も手っ取り早い手段は、この男――影浦國義への告発だ。そうすれば、彼率いる『国力増強事務局』は総力を上げて彼女を始末するだろう。
かつて慈愛リツのプロジェクトを推進し、今回のスパイプログラムの件に反対した者達が、情報漏洩のリスクのためにこの世から消されたように。
だが、燻離学生がそこまでの仕打ちを受けることを、私は望んでいなかった。目指すべきはあくまで、『音夢崎すやり自律AI化計画』の頓挫と自殺阻止で、燻離学生が消え失せることではないからだ。
それに、よく分からない手段で人が忽然と消えてしまうのは、もうごめんだ。
――この、人殺し。
慈愛リツが過去、私に放ったあの言葉が、頭の中にフラッシュバックする。
「……感惑准教授?」
はっ、と我に帰った。
「大丈夫かい? 随分具合が悪そうに見えるけど」
「……少し、疲れているだけだ」
「だったら!」
と、國義はにこやかに、メニューを再度よこした。
「ぜひここで満足ゆくまで食べて、精をつけることだ! 遠慮は無用だ――私は、感惑准教授に倒れられては困るってだけだからね」
……その笑顔に。
彼の善意のはずの笑顔に、薄寒いものを感じ取ったのは、多分間違いじゃない。
私は、確かにそう思った。
思ったが、丁度良いタイミングで運ばれたサンドイッチで、私の目は奪われてしまった。
(Seg.)
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