第26話
陸人が隣にいる。ただ、それだけで十分だった。二人の間に言葉はない。けれど、その静けさがかえって心地よく、何よりも特別に思えた。
夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、二人の影をアスファルトに濃く刻む。目を上げると、陽光を浴びた深緑が鮮やかに揺れ、その向こうには澄み切った紺青の空が広がっている。
蝉の鳴き声が耳に響く中、足音だけが互いの存在を確かにする。
駅へと向かう道は、どこか懐かしい下町の雰囲気が漂っていた。古びた商店の並ぶ通りでは、店先の扇風機が静かに回り、微かな風を送る。
通り過ぎる電気屋のスピーカーからは、ビートルズの《Let It Be》が流れていた。優しく、どこか切ないその旋律が、まるで二人を包むように響く。
陸人の横顔をちらりと盗み見る。穏やかな表情で歩く彼の姿が、夏の日差しの中で輝いて見えた。この時間が永遠に続けばいいと、ふと思う。
言葉にはできない感情が胸の中で広がり、心のどこかで小さな祈りを捧げていた。こんな風に、ただ隣にいるだけで、満たされる瞬間がこれからも続きますように──。
(そう言えば、陸人、俺とカラオケ行きたいとか言ってたな・・・・・・)
隣を歩く陸人をそっと窺う。彼はまっすぐ前を見つめていて、その横顔はどこか凛々しく、美しかった。陽の光を受けた額や鼻筋が際立ち、見慣れたはずの顔なのに、思わず目を奪われてしまう。
その瞬間、自分が見つめすぎていることに気づき、慌てて視線を前に戻した。胸の奥で小さく波紋が広がるような感覚がする。けれど、その正体に気づかないふりをして、一歩一歩足を進める。
陸人の存在がそこにあるだけで、周囲の景色がいつもより鮮やかに見える気がした。深い緑の木々が風にそよぎ、行く先の道が陽射しに輝く。自然と歩幅を合わせながら、静かな空気が二人の間を満たしている。ただ、それだけで十分に思えた。
そして、その状況で陸人に訊いてみる。
「な、陸人。カラオケ行かね?」
陸人が、歩を止めたのが影を見て分かる。顔を見てみると、嬉しそうに微笑んでいる。なんて素直なやつ。
「行く! 行きたい」
嬉々とした声が聞こえる。やはり喜んでいるようだ。
「そんな嬉しい?」
「うん! 俺、行ってみたかった」
「え、行ったことないの?」
「あるよ。でも雄也とはないから」
なるほど。でも、俺と行っても他の人と行っても変わらないと思うけど。
でも、そう態度で表されるとこっちまで何故か嬉しくなった。
「じゃ、駅前のとこ行こ」
「うん!」
陸人って、やっぱり可愛いな――駅に向かう道中、いつの間にか俺の頭の中は陸人のことでいっぱいになっていた。その横顔も、ふとした仕草も、どこか無防備で、目を離せなくなる。
そんなことを考えているうちに、駅前に到着した。目当てのカラオケボックスのドアを開け、冷房の効いた涼しい空気に包まれる。受付で三時間コースを頼み、ドリンクバーに寄る。お茶を注ぎ、乾いた喉を潤した。ほんのり冷たい液体が喉を通る感覚が心地よい。
部屋に入る。暗い室内に足を踏み入れる。柔らかなソファに腰を下ろすと、不意に緊張が走った。二人きりの空間――普段ならなんてことないはずなのに、今日は妙に意識してしまう。静まり返った部屋に微かなエアコンの音だけが響き、気まずさが胸を締め付けるようだった。
どうにかこの空気を変えようと、手元のタッチパネルを操作し始めた。画面の光に照らされる陸人の顔を盗み見ると、特に気にしている様子はないようだったけれど、俺の心は妙に落ち着かない。曲を選ぶ手が、少し震えた。
「陸人って、何歌うの?」
「うーん。俺、洋楽しか歌わない」
「え、まじ? 俺も」
「え? 雄也も洋楽歌うの?」
「うん。前、1D好きとか言ったでしょ?」
「言ってたけど、本当なんだ」
「本当だよ」
「じゃあ、歌って?」
「え?」
「俺、雄也の歌聴きたい。歌ってるとこ見たい」
急に「歌って」とせがまれて、恥ずかしさが込み上げてきた。俺は、特別歌が上手いわけではないし、正直、人前で歌うのは少し苦手だ。けれど、陸人の目を見た瞬間、断るという選択肢は消えてしまう。
その瞳は、いつだって俺の心を掴んで離さない。長いまつげに縁取られた美しい二重の稜線と、可愛らしい涙袋に挟まれたその瞳。澄み切った水面のように輝きながら、俺を見上げてくる。それに弱い自分がいるのを自覚していても、抗うことなんて到底できない。
仕方ないなと少し照れ隠しをしながら、マイクを手に取る。部屋の薄暗い光の中で、陸人はじっと俺を見つめている。その視線が余計に恥ずかしく、けれど少しだけ嬉しくもあった。いつの間にか、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「わかった」
とりあえず、得意なワン・ダイレクションの《What Makes You Beautiful》を入れる。軽快なイントロが始まり、部屋にリズムが流れ込む。
陸人の視線を強く感じる。けれど、そっちを見てしまったら恥ずかしくて歌えなくなりそうで、俺はひたすらテレビの画面を見つめることに集中する。
短い歌詞が続き、やがてサビに入ると、明るく爽やかなメロディが部屋いっぱいに広がった。
ふと陸人の方をチラリと盗み見てみる。彼は椅子に腰掛けながら、頭をリズムに合わせて軽く動かしている。
その姿が想像以上にノリノリで、思わず胸が高鳴った。「か、可愛い・・・・・・」と心の中で呟きながら、視線を戻す。それでも、歌うたびに視界の端に映る彼の笑顔が気になって仕方がない。
これほど真剣に、しかも楽しそうに聴いてくれる人なんて今までいなかった。曲が終わると、陸人がそっと近づいてきた。その距離は、さっきよりずっと近い。
彼の優しい目が目の前にあって、ふわりといつものいい香りが鼻先を掠める。鼓動が少し速くなり、息を整えようと小さく深呼吸する。だけど、それさえも彼に悟られそうで焦った。
「ど、どう?」
「めっちゃ上手い! かっこいい」
「あ、本当? ならいいけど・・・・・・」
画面に点数が表示される。八十八点。まあまあ、低くはない。良かった。
「じ、じゃあ、次は陸人だぞ」
「うん。じゃあ、俺これ歌う」
そう言って入力された曲は、クイーンの《Teo Toriatte》だった。
「すげえ、陸人も知ってるんや」
聴いたことはあるし、なんなら俺も歌う。けど、大学生で歌う人、他にいるだろうかと思って少し笑ってしまう。
「何笑ってんだよ」
「ごめん。選曲渋くて」
「なんだよそれ」
「ほら、始まっちゃうよ」
ピアノの旋律が流れる。しんみりとした雰囲気。
When I’m gone・・・・・・
(え、かっこいい。陸人の歌声・・・・・・)
陸人の歌声が始まった瞬間、部屋の空気が変わった。その声はどこか安心感を与えながらも力強く、自然と耳が引き寄せられる。かっこよくて、気づけばまじまじと聴き入っていた。
視線をそらすつもりが、いつの間にか彼の横顔をじっと見つめてしまう。彼の美しい輪郭や、音に合わせて動く喉元。歌に集中している真剣な表情は、普段の無邪気な笑顔とは違っていて、見ているだけで胸が高鳴る。
やがてサビに差し掛かる。彼の歌声が一段と響き渡り、その爽やかさと力強さに、完全に心を奪われてしまった。リズムとメロディが耳を包み込む中、俺はただ、彼の声に浸っているだけだった。
そして間奏。短い静寂が訪れると同時に、自分がどれほど陸人の歌声に惹かれていたか、はっきりと自覚した。
「どう? いけてる?」
「めっちゃ上手い! かっこいい」
「本当? ありがとう」
再び、陸人の歌声が部屋を満たした。さっきと同じく、その声は軽やかで伸びやかで、聴く者を自然と引き込む力があった。俺は気づけば目を閉じて、ただその音に身を委ねていた。
彼の歌う姿はどこか堂々としていて、それがまた彼らしさを感じさせる。音に合わせて身体を揺らしながら、楽しそうに歌う陸人を見ていると、俺まで楽しい気持ちになった。
だが、それ以上に彼の声に惹きつけられている自分に気づき、心臓が早鐘を打つ。
やがて曲が終わり、少し空気が和らいだのを感じた俺は、そっと寝転がることにした。歌い続けて少し疲れたのもあったけど、一番はさっき走りに走ったからだと思う。
軽い気持ちでカラオケのソファーの背もたれから下に身体を預ける。
その瞬間、頭が陸人の足にコツンと当たった。驚いて顔を上げようとしたが、妙に高さが心地よかった。ふわっとした陸人のズボン越しの感触が、まるでちょうど良い枕みたいだった。
「ちょっと、疲れた。休憩」
なんて言いながら、頭をそのまま彼の足に置いた。
顔は見えなかったけど、なんとなく陸人が苦笑している気がした。
「う、うん。つらくない? 大丈夫?」
「うん。ちょうど良い」
温かくて、このまま眠ってしまいそうだった。さっき、全力で走りに走った疲労が、寝転がった瞬間にどっと押し寄せてきた。心地よい空間と適度に涼しい室内、そして陸人の足の感触が不思議な安心感を与えてくれる。
この場所から動きたくない――そんな思いが自然と湧いてくる。
目を閉じると、静かに脈打つ心臓の音と微かに聞こえるエアコンの音が耳に入った。陸人の存在をそばに感じながら、意識が遠のきそうになる。まぶたの裏には、今までの出来事がぼんやりと浮かんでいた。
その時だった。頬に、何かがふれる感触がした。驚きで瞼を開けかけたが、ふれるものが陸人の手だと気づくと、そのまま身を委ねてしまった。
彼の手は驚くほど温かくて柔らかかった。まるで羽毛のように優しく、俺の左頬をそっと撫でている。ゆっくりとしたその動きが心地よくて、まるで安心を届けてくれるかのようだった。
自然と口元が緩み、微笑んでしまう。その笑みを隠そうともせず、俺は目を閉じたまま、陸人の温もりを感じ続けた。この瞬間が永遠に続けばいいのに、と思うくらいに。
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