第10話

 翌朝、鳥のさえずりと蝉の声に包まれて目が覚めた。鳥の声は清々しく軽快で、夏の始まりを告げるように聞こえるのに対し、蝉の声はやけに激しく、どこか暑苦しい悲鳴のように響く。耳障りな蝉の鳴き声に少しイラつきながらも、朝の準備を整え、学校へと向かった。

 学校に着くと、まだ未来は来ていないようだった。教室の後ろ、一番端の席は未来の「指定席」となっている。


 誰もいない教室で、一人、窓から差し込む朝の光を浴びながら席についた。この席は、未来が「落ち着くから」と言って毎回座っているところだ。


 最初はどこでもいいと思っていたが、最近は後ろに人がいると落ち着かなくなり、自分も自然とその席を選ぶようになっていた。


 鞄から取り出したのは、つい先日書店で見つけたミステリー小説。


 読み始めるとつい時間を忘れてしまうので、今日は十章まで読んだら一旦止めると決めていた。開いたページにはびっしりと文字が並び、物語の世界に引き込まれる。殺人事件の謎が徐々に明かされるスリリングな展開に夢中になり、ページをめくる手が止まらない。


 頭の中に景色が浮かび、登場人物たちの緊迫した空気が伝わってくる。ふと我に返ると、教室には次第に人が増え、賑やかな声が周りに響いていた。


 ちらりと辺りを見回しても、未来の姿はまだ見えない。少し心配になりつつも、再び本に視線を戻して読み進める。文字が目に映るたび、頭の中に映像が広がり、物語がまた動き出す。物語の中心にいる探偵が犯人に迫る場面に差しかかった時、右肩を優しく叩かれた。


 やっと来た! 


「もー! 遅いよ! え・・・・・・?」


 未来が来たと思い、思い切って大きな声で出迎えようと振り向いたが、そこに立っていたのは全然違う人だった。


 驚きつつも、見覚えのある顔だと気づく。

 いや、むしろ鮮明に覚えている顔。昨日のカフェで、カウンターに座って本を読んでいたあのお客さんだ。俺を見つめてた人。


 一瞬、言葉を失ったまま、なぜ彼がここにいるのかと頭が混乱する。彼もこちらをじっと見ていて、何か言いたげな表情を浮かべていた。


「ごめんなさい、急に。驚いきましたよね・・・・・・?」


「いや、驚いたって言うか・・・・・・何でっていう疑問の方が・・・・・・」


「あ、ですよね。実は俺も同じ大学生で。一年生。君もでしょ?」


「え? 同じ⁉︎」


 驚きとともに、なぜか嬉しくなってしまい、思わず大きなリアクションをしてしまった。


「そう。昨日、たまたま行ったカフェの店員さんが君だったから」


 たまたま行っただけなのに、店員である自分のことをよく覚えているなと少し不思議に思う。彼の視線に妙な親しみが感じられて、なんだか悪くない気分だった。


「覚えてたんですか?」


「うん。あ、隣座っていい?」


「あ、はい。どうぞ」


 同じ歳なのに、どうしてもよそよそしくなってしまう。仕草や話し方が大人びていて、どこか距離を感じさせるから無理もないか。


 自然と背筋が伸びる自分に気づいて少し笑ってしまった。


「ね、名前聞いてもいい?」


「あ、僕、佐野雄也って言います。じゃあ、雄也って呼んでください」


「分かった。俺は羽田陸人。陸人って呼んで」


「うん。陸人」


(はねだりくと? どっかで聞いたことがあるような・・・・・・)


 ぼんやりと記憶の中をたどってみるが、記憶のフィルターには何も引っかかるものがない。

 過去に会ったことがあるような気がしていたのは、ただの思い違いだったのかもしれない。


「よろしくね」


「うん」


 気まずさから右を向けず、沈黙を保ってしまう。

 しかし、相手は構わずに次々と話しかけてきて、会話の糸を繋げようとしているようだった。


「ね、ミステリー好きなの?」


「え? あー、うん。好き」


「へー、俺も。俺はアガサ・クリスティが好き」


「へー。そうなんだ」


 そういえば、そんなことを昨日読んでいたなとぼんやり思い出した。けれども、なぜか落ち着かず、相手の話に対して単調な返事しか返せない。


 心の中で「早く来てくれ、未来!」と念じながら、思わず彼に連絡を取ってしまった。

 しばらくして返信が来たが、「今日は体調が悪いから休む」とのことだった。こんな時に限って未来がいないなんて、心細さが募るばかりだった。


「ね、もしよかったら連絡先交換しない?」


「え? ああ。いいよ」


 こんなイケメンの連絡先をもらっていいのかという疑問が頭をよぎる。

 しかし同時に、なぜか優越感のようなものが心の奥から込み上げてきた。


「へー。このアイコン可愛いね。犬飼ってるの?」


「あー、実家でね」


「実家どこなの?」


「大阪」


「へー。じゃあ一人暮らし?」


「そう」


「うわー、いいな。俺まだ実家暮らし」


「実家の方がいいんじゃない? 楽だし」


「楽だけど、自由がないじゃん」


「まあね」


 会話もそこそこに、チャイムが鳴り、授業が始まった。陸人はさっきまでの軽い雰囲気が嘘のように真剣な表情でノートを取り始める。


 どうやら真面目なところもあるようだ。


 対照的に、俺はというと、朝早く起きたせいか、次第にまぶたが重くなっていった。

 気がつくと、周囲は静まり返っている。どうやら授業中にうたた寝をしてしまったらしい。


 慌てて身を起こして周りを見渡すと、教室には数人しか残っていない。ふと隣を見ると、陸人が俺の席に頬杖をつき、俺が机に置いていたミステリー小説を静かに読んでいる。

 その真剣な表情と美しい横顔に、なんだか見入ってしまった。


「これ面白いね」


「え? そ、そうでしょ? てかいつの間に終わってたん?」


「二十分くらい前に終わったよ」


「え、嘘・・・・・・起こしてよ。てか課題出てなかった?」


「今日は出てなかった」


「そっか。よかったー。あ、次授業ないの?」


「もうないよ。雄也は?」


「俺もない」


「そっか。じゃあお昼食べに行こうよ」


「うん」


  教室を出て並んで歩き始めると、眠気にあくびが止まらない俺に、陸人が「ほら、しっかりしろよ」と言わんばかりに頭をポンと軽く叩いてきた。


「え、なに?」


「いや、なんか寝癖がついてるから」


「え、嘘? ま、いいや。これで昨日は終わりやし」


「やっぱり関西弁可愛い」


「え、出てた? 出ないように気をつけてたんだけど」


「素でいいのに」


 時々、素が出てしまうのは仕方のないことだ。長い間の習慣が抜けるわけがない。


 だから、陸人の反応に少しムッとしながらも、すぐに自分の不器用さを感じる。

 キャンパス内をぶらぶら歩きながら、ふとお腹の中から鳴る音に気づく。


 普段なら無視してしまうところだが、今日はなんとなくその音が恥ずかしく感じてしまった。無言で歩き続けていると、ふと、隣にいる陸人がちらっとこちらを見てきた。

 しばらくして、ふっと問いかけるように言ってきた。


「何食べたい?」


 けれど、その時、ちょうどまたお腹が鳴ってしまった。恥ずかしさで顔が赤くなる。これ以上お腹が鳴らないように、歩くペースを少し早くしてみた。


 しばらく黙って歩いていたが、まだ心の中では「何食べようか」と考えている。やっぱり、腹が減っていると気が散る。


「じゃあ、えーっと、オムライス!」


「オムライス? 可愛いね」


「別に可愛くない」


「じゃあ、俺が検索するよ」


 陸人が検索してくれている。その姿に背が高くて見惚れてしまった。


「なに?」


「あ、いや。背でかいなと思って」


「あー。俺百八十三ある」


「へー。いいね」


「雄也は、小さくて可愛いね」


「それ褒めてんの?」


「褒めてるよ」


 こんなイケメンな人と友達になれたことはない。だから、少し気分が高まっている。嬉しいのだ。

 若干、いじっているようにも聞こえたが、気にならなかった。


「あ、駅に行けばいっぱいあるよ。行く?」


「うん。行く」


 そのまま二人でバス停まで歩き、八王子駅行きのバスに乗り込んだ。

 隣同士で席に座ると、陸人が窮屈そうにしている。


 足が長いため、前の座席に当たってしまう。思わずその姿を見て、高身長って意外と不便だなと感じた。


 こんな小さなことで、身長の高さがこんなに制限を受けるとは。

 思わず一人で笑ってしまったが、恥ずかしさもあり、すぐに口をつぐんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る