第9話

 初めて働いた日から二週間が過ぎた。慣れない標準語も、いつの間にか関西弁と使い分けられるようになっている。こんな順応性が自分にもあったとは、と少しだけ誇らしく思う。今日は学校が終わってからのシフトだ。昼間の強い陽射しがまだ残る中、自転車で街を駆け抜ける。走っている間は風が心地良いが、少しでも止まればたちまち汗が噴き出してくる。


「子どもの頃って、こんなに暑かったっけ?」


 ふと考えながらペダルを漕ぐ。地球温暖化なんて話をニュースでよく聞くけれど、まさかここまで実感するとは。だらだらと考えているうちに、いつもの店、ピカデリーに着いてしまった。


 店に入ると、すぐにエプロンをつけて身支度を整える。ワックスは、風で髪型が崩れるし、正直つけるのが面倒なので今日もなし。ささっと準備を終えると、キッチンに向かう。初出勤から一週間ほどで、キッチンとレジの基本的な作業を任されるようになった。最初は緊張していたけれど、もうすっかり慣れてきた。


 午後六時を回る頃には、常連のマダムや仲良し夫婦、女子高生グループ、学生カップルなどが店に集まり、思い思いに楽しそうに会話をしている。仕事を覚えたことで店内全体が少しずつ見渡せるようになり、常連さんたちの様子も気になるようになってきた。


 今日はどんな一日になるのだろうと考えつつ、いつものようにホールとキッチンを行き来する。


 窓際に座った女子高生たちが、ちらちらとこちらを見ながら何か話しているのが見えた。


「何だ?」


 ちらっと視線を向けると、女子高生グループのうちの一人と目が合った。すると、彼女が「キャー!」と小さく叫び、他の友達たちと楽しそうに身を寄せ合って笑っている。周りのお客さんが振り返るほどの盛り上がりで、少しうるさいなと思う。


 ただ、自分がそんな風に注目されるのは慣れないが、悪い気分ではない。


「雄也がイケメンだから見てんのよ」


 隣で、未来が肘で小突いてきた。


「は? 俺イケメンじゃないし。なんなら髪も整えてないからボサボサだし」


「じゃあ、可愛いか」


「可愛くもないから」


「いや、雄也は結構可愛いよ? 目がクリクリしてて子犬みたい」


「は? 何それ。ないない」


 女子高生たちが小さな声で名前をささやき合っていると、ふいに店の入り口から小さなベルの音が響いた。新しいお客さんが入ってきたのだ。


 彼女たちもその音に気づいて一瞬会話を止め、入口の方へと視線を向ける。その瞬間、店内の空気が少し引き締まったような、そんな気がした。


「いらっしゃいませー」


 入店してきたのは、どう見ても大学生だろうか。しかし、大学生にしては少し大人びた印象がある。何より、その顔立ちと立ち姿は「イケメン」という言葉そのものだ。思わず目を奪われ、初めて本物のイケメンを生で見たかもしれないと感じた。


 彼の背丈は自分よりも軽く二十センチは高く、周囲の空気が一瞬で変わるのを感じる。自分も高身長に憧れるけれど、彼のような圧倒的なオーラはそう簡単に真似できないだろう。服装も黒のシンプルなシャツをスラックスに入れるという、飾り気のないコーディネートだが、そのスタイルだけで目を引く。品があり、無駄なものを一切纏わない姿が逆にかっこよさを引き立てている。


 店内の女子高生たちは当然ながら、キャーキャーと小さな黄色い歓声を上げ始め、彼の姿に目を輝かせている。それにつられて、他の女子学生やカップルまでもが、彼の動きを目で追いかけている。だが、本人はその視線を気にも留めない様子で、淡々とカウンターに向かってくる。その落ち着いた態度がまた、ただ者ではない雰囲気を醸し出していた。


「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

 その人は迷っているのか、それとも俺の後ろのメニュー表を見ているのか。こっちを見たまま動かない。


「お客様? いかがなさいますか?」


 もう一度、少し大きな声で声をかけてみる。しかし、彼はまだぼんやりとした様子で、こちらに気づいていない。大きく澄んだ瞳が、どこか遠くを見つめているようで、不思議な透明感がある。その視線に一瞬、吸い込まれそうになった。


 試しに小さく手を振ってみると、彼はハッとしたように我に返り、こちらを見て「すいません」と軽く頭を下げた。その姿に思わず、胸が少しだけ高鳴る。どこか上品さを漂わせつつも、控えめなその表情が、さらに彼の魅力を際立たせているようだった。


「どうされますか?」


「あ、えーと、アイスカフェラテ一つください」


「はい。四百五十円です」


 彼から渡された五百円玉を受け取り、お釣りとして五十円玉を一枚返すと、未来が手際よく注文の品を準備し、彼に渡す。礼を言って受け取ったその人は、レジ横のカウンター席に座り、鞄から文庫本を取り出して読み始めた。


 カバーもかけていないので、こちらからタイトルが見える。アガサ・クリスティの『葬儀を終えて』だった。


 懐かしい本だ。随分前に読んだ記憶があるが、彼は何を感じながら読んでいるのかが気になる。


(へぇー。こんな人でも読書するんや)


 左耳に小さなピアスが光っているのを見て、少し意外な気持ちになった。どこかチャラく見えるから「こんな人でも」と思ったのだろう。

 だけど、読書離れが進む中で本を手にしているのが、意外にも親近感を抱かせた。


 お客さんが少なく、手持ち無沙汰な時は、カップを拭いたりカウンターを整えたりして、暇を持て余さないようにしていた。


 しかし、何かずっと視線を感じる気がして落ち着かない。どこからの視線だろうと周囲を見回したが、どこもそれらしい様子はない。

 ふと、顔を上げたとき、目の前のその男性がこちらをじっと見ているのに気が付いた。


「あの・・・・・・何か付いてますか?」


 ドラマとかで、こんなセリフを聞いたことがあるが、実際に使っている人なんていないだろうと思っていた。


 しかし、実際にそういう状況になると、そう言ってしまうのだと気がついた。


「あ、いや。すいません・・・・・・」


「おかしな人だな」と、その男性を見ながら思った。なぜかずっとこちらを見ている気がして、なんだか気になって仕方がなかった。

 けれど、不思議と嫌な気分ではなく、どこか不快感を伴わない不思議な視線だった。


 閉店時間が近づくと、店内のお客さんも少しずつ帰っていき、最後にはいつものように、ぽつりぽつりと常連たちも席を立った。いつもなら静かな夜が戻ってくる店内も、今日は妙な緊張感に包まれていた気がする。そして、あの例の男性も一人、文庫本を閉じて静かに店を後にした。


 レジ締めや掃除を済ませると、ひと息つきながら時計を見た。外に出ると、未来は他の大学生と談笑している様子だったので、一足先に店を出ることにした。今日は何だか胸の奥がざわつくバイトだった。


 あの視線を浴びていたことを思い返すと、どこか浮ついた気分がよみがえる。


 自転車置き場に向かうと、心なしか足取りも軽く、無意識のうちに夜空を見上げた。満月に近い月が、鮮やかな光で夜の街を照らしている。街灯の薄い路地にも、その明るさが届き、夏の夜風が穏やかに吹き抜ける。


「なんでずっとこっちを見てたんだろう」と、月明かりを浴びながら、ぼんやりと考えを巡らせる。


 何かしら意味があるわけでもなく、ただ偶然の気まぐれなのかもしれないが、気が付くとその視線のことばかり考えている自分に驚いた。

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