あわい荘の魔にまに

星見守灯也

第1話、あわい荘

 黒い夜、満月を背に、人狼がのっそりと立ち上がる。

 その開いた口からは舌がのぞき、金の目が俺を捉えて見開かれた。

 鋭い爪が無造作にこちらに向けられる。

 ――それでも、奴を捕まえなければならない。

 絶対に。




 朝晩は涼しくなったが、まだ残暑の残る季節、安和井あわいひとしは気動車に乗ってこの街に来た。三津喜みつき市、山に囲まれた人口十万ほどの地方都市。かつて、父方の伯母が住んでいた街だ。急逝した彼女の遺したものは、ひとつのアパートだった。


「かわいそう?」

「あわい荘だ、ジン


 父はそのアパートの管理人を継いでほしいと言った。高校卒業後、進学も働きもせずにいた俺に? できるわけがない。そう思ったが、あれこれ理由をつけて押し切られてしまった。そしてこの日の夕方、最寄りの駅に降りたというわけだ。



 安和井あわいひとし、二十一歳、男。俺は人が嫌いだ。人も俺が嫌いだと思う。


 三白眼で目つきが悪いため、よく怖がられる。通りすがりにギョッとされることは日常、睨まないでくれと言われるし、謝っても反抗的だと怒られる。いつも怒ってると思われて、いるだけで勝手に雰囲気が悪くなる。


 小さな駅に人はあまりなく、むしろホッとする。都会にいた時は、人混みを歩くと、ガンつけんじゃねえよといちゃもんつけられることが多かった。土曜日とはいえ、バスが一時間に数本しかないのは参ったが。


 駅からバスに乗って十三分のそこに、「あわい荘」と書かれたアパートがある。


 父から預かった鍵で管理人室兼住居の101号室に入る。……伯母が住んでいた部屋だ。先月で止まったカレンダー、出しっぱなしの扇風機。父が葬儀の後少し片付けたというが、雑然とした生活感がいっそう寂しい。


 伯母と最後に会ったのは、もう十五年も前のこと。「世界にはたくさんの曖昧な境界がある」。本を読むことが好きだった伯母はここで何を思っていたのだろう。本棚の上に小さな小さな骨壷を置き、手を合わせた。




 さて、管理人の初仕事だ。住人の方に自己紹介をしなければ。頬を叩いて気合いを入れる。


 ……正直、気が重い。伸ばし気味の前髪を少し除けるように、黒縁の伊達眼鏡をなおす。少しは目つきがごまかせそうな気がして、出歩くときはかけている。洗面所の鏡を見て、にこっと笑ってみた。……やっぱり笑うのはやめておこう。




 まず向かったのは向かいの102号室。「東尾牙狼」の表札に、狂犬病予防接種済みのステッカー。犬がいるのかな。ここペット飼っていいんだ……。ふわふわかな、仲良くなったら触らせてもらえないかな。その表札の下に「何でも屋」の小さな看板があった。ドアの下の方にはなぜか凹みや傷がある。


 父は「向こうに行ったら、まず牙狼がろうさんに頼れ」と言ったけれど、怖い人だったらどうしよう。いや、俺が怖がられるほうが先か。怖がられて、押し売りと間違われて警察を呼ばれたらどうしよう。


 そんなことを考えながら指を伸ばす。……えい。


 ピンポーン。


 ひとしはチャイムを鳴らして住人が出てくるのを待った。これでもう逃げられない。心臓がドキドキとして、みょうに痛い気がする。


「はあーい」


 出てきたのはアッシュグレーの髪の、背が高くガタイがいい男だった。金の目はまんまるで、人の良さそうな顔だ。耳の上が少し尖っているのが特徴的で、一度会ったら忘れることはない風貌といえる。


「あ、ひ、東尾ひがしお牙狼がろうさん、ですね……?」

「はいはいはい、そうで……」


 牙狼は何かに気づいたように、跳ね上がって背を伸ばした。


「あー! 新しい管理人さんだあ。優子ゆうこさんの甥っ子さんですよねぇ?」


 伯母のことを名前で呼ばれて、思わずぎょっとしてしまった。ひとしはとっさに目線を外し、慌ててごまかそうとする。


「は、はい、そうです。ひとしといいます。あの、今日から101に住むので……」

ひとしさん。はあい、わかりました。よろしくお願いしますねえ」


 ちらっと見たところ十八歳くらいだろうか。牙狼はにこやかに笑った。よかった、怖がられてない。俺は怖がられないうちにと焦って早口でまくしたてる。


「そ、それで、他の住人の方には回覧板でお知らせしようかと思ってて……いいですかね?」

「んー……いいんじゃないですかあ? 早く顔見たいって騒ぐと思うけど。でも、もう遅いですし、今日は休んでくださいな」

「あ、これはお気遣いを……はい、ありがとうございます……」


 ひとつ頭を下げてひとしは逃げるように101号室に戻る。なんだかまだ見られてる気がして振り返ると、102号から牙狼が小さく手を振っていた。慌ててもうひとつ軽く頭を下げて部屋に入り、ドアを閉める。


 久しぶりに人と話したのに、うまく話せなかった……とひとしはドアの裏でへたりこんだのだった。


 牙狼は101号のドアを見つめて鼻をひくつかせる。


「ちゃんと挨拶したかったなあ……」




 コンビニのパンとチキンカツを食べて、机の上のゴミをまとめて袋に入れた。


 移動に加え、人と話して疲れたので、ひとしはもう寝てしまおうと思った。ところが、歯ブラシと歯磨き粉を元の家に忘れてきたことに気づいた。まあいいか。近くにドラッグストアがあったし、多分まだやってるはずだ。サンダルを履いて外に向かう。


 もう日は落ち切って、東の空に綺麗な満月がでていた。


「空が広い……」


 都会で生まれ育ったひとしには慣れない広さで、少し心細くなる。牙狼さんは俺を怖がらなかったけれど、じゃあ簡単に話せるかといえばそうはいかない。こんな感じで住人の人たちと話して、アパートをまとめることができるのだろうか……。




「うおーーーーーーーん!」


 日が沈み、ゆっくりと登ってきた満月に犬の遠吠えが聞こえてくる。静かな住宅街にやけに大きく響く。


「うるせーぞ!」

「うおおーーーーーーーーん!」


 アパートの住人が次々にドアから出てきて、怒りを向ける。


「また102号室か!」

「くそ、そういや今日、満月だったな……」

「おら! 出てこい、ガル夫!」


 ドンッ!!


 102号室の前に集まった住人たちは、思いっきりそのドアを叩き、蹴飛ばした。


 ガンッ!! 


「もう、吠えるものに吠え返しても、うるさいだけでしょう?」


 出てきたひとりが呆れたように止めたとき。


「うおーん!」


 ガシャーン! 


 ガラスが割れる音がして、住人たちは何があったのかを理解する。「それ」は窓を突き破り、ベランダから外へと飛び出していった。


「ひゃっほーーーーーーう!」

「うわーーーーーー!」




 一方、ひとしはドラッグストアからの帰り道で「それ」に行きあった。


 アパートの前に差し掛かった時、ガシャーン! と音がして何かが飛んで行った。ガラス窓をぶち破ったのは大きな灰色の犬……? まるでホラーゲームのドッキリ演出のようだった。襲われる、と反射的に思い、腕で体を防御する。


 しかしその影は、仁に《ひとし》見向きもせず道を越え、向こうの家の庭を越え、去っていってしまった。


 なんだか嫌な予感がして、急いでアパートに走り帰る。すると、住人たちが102号の前に集まっていた。


「どうしたんですか!? 102号ですよね? なんか犬、犬が飛んだ! ……って、え?」


 奇妙な人たちだった。気まずそうに顔を見合わせた異形のものたち。


 ひとりは朽ちる途中のゾンビのようで、ひとりは八重歯が目立つ黒ずくめの男。ひとりは白い着物の女で、ひとりは額に二本のツノがある女だった。


「あー……」


 言葉が出てこないひとしに、もうひとり。青と黄色の皮膚を縫い合わせた男――フランケンシュタインの怪物を思わせる――が進み出た。男の身長は、身をかがめていてもアパートの天井に届くほど高かった。こんな服のサイズあるんだ。


「失礼、新管理人のひとしさんですね? 住人を代表して説明いたします」

「は、はあ……」


 想像していた怪物とは違う、理知的な目で彼は語り始める。


「ガル夫……牙狼さんは人狼でいらっしゃいます。ここは人ではないものが住まうアパートでして」


 人ではない……。


「まあ……おばけみたいなものと考えていただければ」

「おばけ!?」


 ひとしはあからさまにビビった。昔から、おばけが怖くて布団から頭も足も出さずに寝て、よく窒息しそうになっている男なのだ。暗いとおばけがやってきて、見つかったら食べられてしまう気がする。自分が怖がられるのは嫌だが、だからといって怖いものは怖い。


「……そんなに怖がらなくてもいいでしょうに」


 フランケンシュタインの怪物が、困ったように頭を掻いた。


「え、じゃあ、牙狼さんも……?」

「狼男と言えばいいですか、満月の夜に狼人間になるのですが、その……テンションが爆上がりしてしまうのです」


 ギョッとしたひとしに、怪物は手を振りながら慌てて付け加える。


「もちろん人を襲うことはありません、ありません、が……」

「ちょっと興奮して、全裸になって公園で後ろとびひねり前方抱え込み二回宙返りとかするだけですねェ」


 その後ろから、乾いたような皮膚のゾンビがあっけらかんと言う。ええ……と嫌そうに顔を引きつらせたひとしを、安心させるように怪物がフォローした。


「大丈夫です、落ち着いて。まだ露出で捕まったことはありません」

「変質者じゃん、変質者じゃん!」


 全裸で体操とか見られたら変態になるやつじゃん。恐ろしいおばけの想像が、一瞬でヘンタイに変わる。


「人間の法は犬には適用できませんので……その、保護されたことは……何度かありますが……」

「こんなことしてる間にも、電柱にマーキングでもしてるんじゃないかな?」


 ゾンビがくくくと笑った。絵面がひどい!


「くそっ、早く捕まえるぞ! 変態アパートになっちまう!」




 夜も遅かったが、ひとしたちは聞き込みをすることにした。近所の家を回っておかしなものを見なかったか話を聞く。


「そこで側溝に落ちたのを見た」

「ありがとうございます!」


 側溝にはべったりと泥がついている。ここで落ちたのだろう。


「走ってて植え込みにぶつかって穴を開けた」

「ごめんなさい!」


 きれいな植え込みには大きな穴が空いていた。


「うちの池に飛び込んでハマってたので助けたんです」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 あちこちで頭を下げながらも彼の足取りがわかってきた。それはともかく。


「言っちゃなんだけど、おっちょこちょいすぎない……?」


 フランケンシュタインの怪物が肩を落とした。


「そそっかしいので大きな怪我をする前に探してやらないといけないんです」




 証言をもとに、たどり着いたのは近くの小学校。警備会社のサイレンの中、真っ暗な校庭に動くものがある。全身が灰色の毛でおおわれた、狼顔の、尻尾の生えたなにかがいる。


「いた!」

「いましたね……」


 満月の光に毛を光らせ、全裸の狼人間が夜の校庭を全力疾走していた。こっちの鉄棒で大車輪、あっちの砂場でブレイクダンス。本人の体には白い粉――おそらく線を引くための炭酸カルシウム――がついてブチ模様を作っていた。


 二宮金次郎像の前に、なぜか衣服が畳まれておいてある。砂場の砂が撒きちらかされ、ここ掘れワンワンとばかりに掘られたのだろう穴があちこちに開いていた。あまりの傍若無人っぷりに、ひとしはあんぐりと口を開けた。


「あれがテンションぶち上がりの状態でして……」

「動きにキレがあるなァ」


 ついてきた黒い服の八重歯の男が大袈裟に頭を振った。ゾンビが軽口を叩く。なんと返したらいいのか分からず、ひとしは雲梯で懸垂を始めた牙狼を見ていたが、フランケンシュタインの怪物がそっと本題を思い出させてきた。


「さて、あれをどうします?」


 どうすっかな……とひとしは頭を抱えた。できれば見なかったことにしたい。見なかったことにしたいが、これからあのアパートに住むにあたって、住人がヘンタイという不名誉な噂を立てられては困る。


 一方、牙狼はタイヤの上を跳び、朝礼台から前転宙返りで着地した。つりあがった金の目が、ひとしをとらえた。


 ――怖い。その目が、その牙が、その爪が。人間とは異なることわりを生きるものであると知らしめる。




「わん!」


 牙狼はひとしたちに気づき、上機嫌で尻尾を振って近づいてきた。遊んでくれというように。


「え、ええ〜……」


 拍子抜けしたが、これなら捕まえられそうだ。緊張しながら手を出して、突進してくる牙狼を受け止めようとする。


 ところが牙狼は手がとどく寸前にがばっと地面に伏せ、尻尾を揺らす。待っているのか? ひとしはそっと近づいて、羽交い締めにしようとした。けれどもまた手が届く前に、牙狼が跳ね上がり、向こうまで飛んでいってしまう。


「遊ばれてますねえ……」


 黒ずくめがぼやいた。


 一方、牙狼は落ちていた縄跳びの縄を見つけた。ごろんと腰を落とし、もぐもぐと噛みはじめる。


「あ、こら! 噛むな!」


 思わず仁は出ていって縄を掴んだ。牙狼はぎょろりとした半目で見上げると、嬉しそうに綱を噛んだまま引っ張った。強い力に、ひとしは踏ん張って引っ張り返す。


「ダメだって! この! はーなーせ!」


 ひとしが引っ張るだけ、牙狼も引っ張り返してくる。そして牙狼のほうが力が強い。縄跳びの縄が伸び切ったと思ったとたん、ひとしの足が滑り、振り回される。遊園地の回転ブランコのように、遠心力に任せて軽く宙に浮いた。


「待って! 止めて止めて!!」


 手が痛い。でも離したら飛んでいってしまう。縄を振り回すのに夢中になって、だんだん牙狼の鼻に皺が寄ってくる。熱狂しているように目が怖くなってきた。ヴヴーッ……と唸って、その勢いのまま縄を振り上げた。


「うわああああああああ!!」


 手を離してしまったひとしは満月にむかって飛び、そのまま放物線上に落ちていく。




「はい、二歩前。三、二、一、はいキャッチー!」


 ゾンビの掛け声に合わせてフランケンシュタインの怪物が手を伸ばして仁を受け止めた。


ひとしさん、あれは……」

「あいつめ……」


 立ち上がって、ひとしは牙狼を見あげた。まるで昔飼っていたポメラニアンだ。楽しすぎて我を忘れている。バカにしやがって……ひとしを無視して遊ぶ牙狼に、段々と腹が立ってくる。


「くそっ」


 ひとしはそこに転がっていたソフトボールをとって、高く掲げると牙狼に見せる。牙狼は思わず首を上げてボールを目で追った。


「そーら! とってこーい!」


 校庭の端から向こうまで投げると、尻尾を振って走っていく。ジャンプして素直にボールをくわえた。お、これはいいかも。


「よーし、よしよし、いい子だ。こっち持っておいでー」


 ボールをもって、たたたた……と走ってきた牙狼だったが、ひとしを華麗にスルー。ひとしの背後で腹を見せてボールを噛みはじめた。振り返ったひとしがそっと近づくと、すぐに立ち上がって逃げ、捕まらないぎりぎりの位置をキープする。完全にバカにされている。


「こ、こ、このバカやろうー!!」




「申し訳ございませんでした!」


 管理人になった翌日の仕事は、警察署で頭を下げることだった。結局、牙狼は早朝、砂場で腹を見せて寝ているところを捕獲された。全裸の成人男性に戻って。


 「ほっときゃ遊び疲れて寝ますのに」と言ったのはゾンビ。「パンツはかせときましょう……」と服を持ってきてくれたのはフランケンシュタインの怪物。気が効くなあ……。でもパンイチでもまだ怪しい人だなあ……。


「すみません……」


 牙狼はというとしゅんとして縮まっている。尻尾がまだあれば内側に巻いていたことだろう。


「満月だとテンション爆発しちゃって。はしゃぎたくてわけわかんなくなるんですよ……」

「いや、無事でよかったです。この前は事故に遭いそうになっていたので」


 警官はもう何もかもわかっている様子で言った。親切な警官さんでよかった。こういうことはよくあるらしい。よくある……。ひとしはこれからのことを想像してがっくりと肩を落とした。


「安和井さん、そんなに怒らないであげてください」

「あ……」


 顔に手をやって気づく。そういや今は眼鏡してないんだっけ。警官さんには俺が怒っているように見られているのか。


「……怒ってはいないです」


 怒ってはいない。この目つきのせいでそう見えるかもしれないが。


「わかる。呆れてるんだよねえ」


 けらけらと笑って牙狼がひとしの背中を軽く叩いた。……いったい誰のせいだと思ってる? これ見よがしにため息をついて見せたが、どこまでわかっているやら。頭を押さえてため息をついた俺を見て、警官さんが頬を緩めた。


「はははは、怒ってないのはよかった。これで怒ってたら身が持ちません」




 まだ朝は早い。二人でアパートにもどってくると、前庭にナイトキャップを被ったきれいな少女がいた。


「あら、ガル夫、どうしたの? あなたの部屋のガラスが割れていたけれど」

「あなた寝たら起きないですもんね。その、昨夜、満月でして」

「ああ、そう……」


 彼女はすぐに察したらしい。どんだけ繰り返してるんだ。ガラスの後片付けしないとなあ……。ガラス代って家賃に上乗せでいいんだろうか。あとで父親に電話してみよう。そんなことを考えていると、彼女はひとしに声をかけてきた。


「あなたが新しい管理人さんね? あら、何を怒る事があるのかしら?」

「いえ、それは、ええと……」

ひとしさんは怒ってないよう」


 牙狼がぶーと膨れて口を出した。少女がふむ? と首を傾げると、ナイトキャップから一匹の細い蛇が出てきて、仁を見た。ペロペロと舌を出している。


「わ!?」


 彼女のペットだろうか。頭に?


「確かに、疲れてるだけね。怒ってないわ」

「え、疲れてるの!?」


 大きな口を開けて驚く牙狼。いや……一晩中、犬と遊び回ったら疲れるだろう。そもそもひとしは体力が多いわけではない。もう全身へとへとになって怒る元気もないのだ。


「どうせ、管理人さんを振り回したんでしょ。だめよ、ヒトのこと考えなきゃ」

「そうかあ……ごめんね、ひとしさん。オレ、もっと仲良くなりたいんだけど」


 牙狼は眉を下げた。おい、まるでこっちが悪いみたいじゃないか。


「なら、自己紹介でもすればいいじゃない。昨日来たばかりなんでしょう?」

ひとしさんだよ! それ以外知らない! でもいい人なんだ!」


 嬉しそうにひとしを「いい人」だと言う牙狼。新学期、にこやかに自己紹介したとたん、しん……と静まった教室を思い出す。みんな怖がって声をかけてくれなかったじゃないか。影で「ナイフ持ってそう」「陰気スケベ」と言われてたのに。


「……安和井あわいひとしです」


 そこで詰まってしまった。頭が真っ白になり、何を言えばいいのかわからない。うろうろと手をさまよわせる。


「ええと、あと、趣味とか……? 今読んでる漫画は……って、聞けよおい!」


 その間に、牙狼はするっとひとしの背後に回った。そして尻に鼻を近づけた。くんくんと匂いを嗅ぐ。


「ひゃん!?」

「うん、優子さんの親戚だあ。昨日、コンビニのチキンカツ食べたでしょ?」

「ヘ、ヘ……」

「あれ美味しいよねー。オレも好きー」

「この、ヘンタイやろう!」


 思わず仁は牙狼を力いっぱい突き飛ばしてしまう。ごろんごろんと転がった牙狼はしゃがみ込んで頭を押さえ、哀願するようにひとしを見上げた。


「優子さんの甥っ子さんだから、ちゃんと挨拶したいんだよう……」


 蛇をまとわせた少女は愛想をつかしたように言い捨てる。


「ほんとバカ犬ねえ。人間に肛門腺はないじゃないの」

「あってたまるか!?」

「じゃあ、オレのお尻かぎます?」

「しないよ!」


 ともあれ、こうしてひとしのあわい荘での日々が始まった。

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