【04】第二の事件
2024年7月5日午前7時11分。
彼は現在38歳で独身。
独り暮らしの生活は、侘しいというよりも気楽と表現する方が適当なのだろう。
実際彼は、今の暮らしに不自由は感じていないし、仕事が忙し過ぎて、寂しさを感じる暇もないのだ。
20代後半で結婚生活に失敗して以来、もう一度誰かと生活を共にしようという気は、彼にはなかった。
それは今の生活が、単に気が楽だという理由だけなのだが。
その時携帯の着信音が鳴った。
上長の熊本からだった。
その時点で鏡堂の脳裏に、只ならぬ事態の予感が駆け抜ける。
電話を取った彼の耳に飛び込んできたのは、熊本の緊迫した声だった。
「鏡堂。二体目だ」
その短いメッセージだけで、何が起こったのかが想像できる。
「今度も溺死ですか?」
「確定ではないが、恐らくそうだ」
熊本との端的な言葉のやり取りで、鏡堂の中で緊張が高まっていく。
「パトカーをそっちに向かわせた。
梶木と一緒に現場に急行してくれ」
電話を切った鏡堂は、テキパキと食事の後始末を終え、スーツに着替えてマンションの玄関に降りた。
すると間もなく、同僚の梶木刑事を乗せたパトカーが到着する。
パトカーに乗り込んだ鏡堂は、梶木と無言で会釈を交わすと、後は黙って窓の外に流れる景色を見ていた。
梶木は盛んに、手元の携帯を
二人を乗せたパトカーが現場に到着したのは、午前8時前だった。
先着していた熊本と熊本班の刑事一名、そして〇山署の富樫と天宮が、現場マンションの前で待機していた。
鏡堂たちの到着を確認した熊本は、刑事たちを率いてマンションに入って行く。
現場は二階東奥の、2DKの部屋だった。
室内では既に、小林誠司を筆頭とする鑑識課員たちが、現場検証に当たっていた。
鏡堂たちは、ビニール製のシューズカバーと手袋を装着して、室内に入った。
部屋の入口に面した、マンションの共用廊下もそうだったが、室内の床という床はすべて水に濡れていた。
さらにベランダに面した、十畳ほどの広さのダイニングキッチンに入ると、壁から天井に至るまで水浸しの状態だった。
天井からは、水滴が
ダイニングの床を見ると、Tシャツ短パン姿の男が、仰向けに倒れていた。
男が亡くなっているのは、一目瞭然だった。
そして男の全身は、ずぶ濡れの状態だった。
倒れた男の脇では、先に室内に入っていた鑑識課の小林と国松が、しゃがみ込んで検死を行っている。
そして刑事たちは熊本の指示に従って、実況見分を行うために、それぞれ散っていった。
鏡堂は富樫と天宮に、DK内を隈なく調べるよう指示する。
そして自分も、DK内の検分に取り掛かった。
壁際に置かれた食器棚を開けると、中に置かれた食器類まで、すべて水に濡れていた。
部屋の隅に置かれたテレビも同様だった。
――これではもう、使い物にならんだろうな。
そう思いながらテレビの横に目をやると、コンセントが抜かれている。
――何故コンセントを抜いてあるんだろう?
鏡堂がコンセントを手に取ると、背後から小林の声が掛かった。
「感電の恐れがあるから、ブレーカーを戻す前に、部屋中のコンセントを抜いたんだよ」
「来た時は、全部コンセントが入っていたのかい?」
「ああ、そしてブレーカーが全部落ちてた。」
「ブレーカーが?」
「ああ、電化製品が軒並み水に浸かったんだろうな」
「それはどういう状況なんだ?」
二人の会話に、班長の熊本が割り込む。
「多分ですけど、この部屋全体が水没したんだと思います。
ガイシャも見ての通り、ずぶ濡れですしね」
小林の答えを聞いて、熊本が独り言ちた。
「部屋全体が水没って。そんなことあり得るのか」
鏡堂も、その場の誰とはなしに向かって呟く。
「あり得るんでしょうね。
先日の車の一件もありますから」
そのやり取りが、彼らの困惑を如実に表していた。
「ところで、ガイシャの死因は?
また溺死かい?」
熊本が気を取り直して、小林に訊いた。
「これが、溺死か感電死か判然としないんですよ」
「感電死?」
「ええ。この部屋が水没する最中に、電化製品から電流が水中に漏れて」
「感電したということか」
小林の言葉を、最後は鏡堂が引き取った。
「ただ、感電のショックで気絶した後、溺死したということも考えられるので。
いずれにせよ死因の特定は、司法解剖の結果待ちになるでしょうね。
そろそろ解剖に回していいですかね?」
小林はそう締めくくった。
熊本は無言で肯くと、外で待機している制服警官を呼び入れるように、富樫に命じた。
頷いた富樫は、外に駆け出していく。
その後姿を見送った熊本と鏡堂に、天宮が近づいて来た。
手には紙片のようなものを持っている。
「熊本班長。鏡堂さん。
こんなものが、見つかったんですが…」
そう言って天宮は、手に持ったメモ用紙のような紙片を二人に差し出した。
紙はぐっしょり水に濡れていて、片面に手書きの文字が残されていた。
『次はお前 雨男』
それを見た熊本と鏡堂は、互いに顔を見合わせる。
明らかに脅迫状と思われたからだ。
「筆跡を誤魔化すために、わざと仮名釘流で書いてますね」
鏡堂の見立てに、熊本が頷く。
「『次はお前』ということは、この事件は先日の県道1号線の事件と、続いているということになるのでしょうか?」
天宮が鏡堂を見上げながら、恐る恐る尋ねる。
「断定は出来んが、可能性はある。
しかし予断は持つな。
それで足を掬われることがある」
鏡堂の言葉に、天宮は素直に頷いた。
その時制服警官を連れて、富樫が戻って来た。
警官たちは、鑑識課員たちがブルーシートを被せたガイシャの遺体を、用意した担架に乗せ運び出す。
それを見送った熊本が、刑事たちを呼び集めた。
「ガイシャの身元は分かったか?」
「この部屋の住人の滝本純一と考えて、間違いないと思います。
財布の中に入っていた、免許証の写真と、ガイシャの顔がほぼ一致しますので」
熊本の質問に、鑑識課員の国松由紀子が答えた。
「では、身元の確認が最優先だな。
鏡堂、所轄の若手を一人連れて、このマンションの管理業者に当たってくれ」
「分かりました」
そう言って鏡堂は二人を見る。
すると、手を挙げようとした富樫の機先を制するように、天宮が進み出た。
「今日、車で来ていますので、ご一緒します」
その勢いに押されて、富樫は無言で引き下がらざるを得なかった。
内心苦笑して、その様子を見た鏡堂は、天宮に声を掛ける。
「早速行こうか。
業者の名前と住所は、入口の看板に書いてあった筈だ」
二人は連れ立って、マンションを後にした。
業者に連絡を取り、そちらに出向くと伝えると、相手はかなり慌てた様子で承諾した。
現場から、マンションの管理業者の営業所までは、車で20分程の距離だった。
鏡堂は、天宮が運転する車の助手席で、事件について考えていた。
「鏡堂さんは、県内のご出身ですか?」
その沈黙に耐えられなかったのか、天宮が彼に声を掛ける。
「ん、いや。
俺は札幌の出身だ」
その答えに天宮は驚いたようだった。
「遠くから来られたんですね。
どうして、こちらで警察に?」
「偶々だよ。
こっちの大学を出て、そのまま就職先に選んだだけだ。
そういう君は、この県の出身なのか?」
「はい、〇山市の出身です」
「じゃあ、地元で警察に入った訳だ」
「そうですね。で
も子供の頃に別の場所に移って、大学時代に戻ってきて、そのまま就職したので、鏡堂さんと同じですね」
そう言って天宮は、笑みを浮かべた。
一方の鏡堂は、彼女のその答えに、何と返していいのか戸惑う。
何か事情があって転居したのであれば、理由を聞くのも憚られたからだ。
そして何よりも、彼はこの手の取り留めのない会話が、大の苦手なのだ。
特に相手が女性の場合は、会話の途中から、何を話したら良いのか、分からなくなってしまう。
そして最後には、相手に対して、ぶっきら棒な対応になってしまうのだ。
そのことが結婚に失敗した、大きな理由の一つだと、鏡堂は思っている。
案の定、会話はそこで途切れ、車内に気まずい沈黙が流れた。
二人にとって救いだったのは、間もなく車が、管理業者の事務所に到着したことだった。
事務所で応対に出てくれた、中年男性に事情を話すと、彼は真っ先に頭を抱えてしまった。
「事故物件になりましたか…」
彼の事情はよく分かるのだが、今はそれにかかずらわっていられないと思い、鏡堂は部屋の入居者である、滝本純一の背景情報の提供を求めた。
業者の男性は、デスクに戻ってパソコンを操作し、プリンターに打ち出した紙を持ってきて、鏡堂たちに差し出した。
「滝本さんは、入居時の保証人が実父になっています。
その紙に連絡先がありますので、連絡を取って見て下さい」
鏡堂は彼に礼を言った後、念のために滝本純一の素行について確認した。
それに対して返ってきた答えは、特に問題のある住人ではないということだった。
隣室の住人などとのトラブルもなかったらしい。
鏡堂は最後にもう一度礼を言うと、事務所を後にした。
そして車に戻ると、管理業者から聞いた連絡先に、携帯から電話を入れる。
電話には、滝本の母という人が出たので、彼は出来るだけ穏やかな口調で事情を話すと、司法解剖の同意が必要なので、〇〇大学まで本人確認に出向いて欲しいと伝えた。
電話の相手はそれを聞いて絶句したが、やがて消え入りそうな声で、出向くことを承諾してくれた。
電話を切った鏡堂は、憮然とした表情になる。
まだ見ぬ<雨男>に対する怒りが、忽然と湧いてきたからだ。
事件に対する予断を持たないことが、彼の信念であったが、今回は何故か、<雨男>が引き起こした事件であると、確信していた。
そして怒りの表情を湛えて沈黙するベテラン刑事を、運転席に座った天宮が、怯えた表情で見ていた。
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