第8話 図書館最奥の秘密基地
「―――先輩」
無礼だろうか、とは思いつつも、彼だって授業には間に合ったほうが良いと思うので、肩に軽くトントンと触れる。
彼は眠りが深いのか、ん…、と呟いて頭を少し動かすだけで、閉じられた瞼を開く気配はない。
しかし、彼のその頭を動かした動作がまずかった。
何がまずいかというと、動いたことによって、ライナスが彼の肩においていた手に、彼の綺麗な亜麻色の髪がふわりとかかったのだ。
思わずヒュッと息が漏れたが、咄嗟に叫ばなかっただけ十分に偉いと自分を心の中で褒める。
「…せ、先輩、……もうすぐ授業ですよ」
はやくこの状況を脱しなければ何かが良くない、と脳内が警報を発し、続けて声をかけると更にまずい事態になった。
絹のような髪どころか、それを通り越して、寝返りを打った彼の滑らかな頬が手に当たる。
まずい。これはまずい。何か絶対まずい。
触れるだけならまだ耐えられる。だが、そうスリスリされては、…。
「、…先輩ッ!!」
思わず叫んでしまった。いろいろな収集のつかない感情が混じり合って苦悶の表情を浮かべる。
「………ん、?」
流石に起きたようだ。
冷静に、冷静に、と心がけながら先輩の顔を覗き込む。
しかし彼は薄っすらと目を開けると、ライナスを視認し、ビクリと大きく肩を揺らした。
「…?、あ、すみません」
しまった、怖がらせてしまっただろうか、と慌てて少し距離をとる。
「……、……あ、いや、…起こしてくれたのか、ありがとう」
そう言ってのっそりと起き上がる先輩に、不躾な視線にならないようにとは配慮しながらも目を奪われる。
閉じられていた瞼の中から現れたのは、甘玉のような琥珀色の瞳だった。
綺麗だな、という感想は喉の奥に押し込んで、相手を威圧しないように笑みを浮かべる。
「いえ、突然すみません。私は図書館で道に迷っていたところに偶然この場所と先輩を見つけまして、もうそろそろ授業も始まってしまう時間が近づいていたもので。…ご迷惑でなかったのなら良いのですが」
まだ眠気が残っているのだろうか、先輩はほっそりとした指で目元の辺りを撫でつつ、頭を振って扉に顔を向ける。
「…助かった。もう分かってるかもしれないけど、そっちの扉から第二校舎の方に出れるから使って」
「はい、ありがとうございます」
言われた通り、扉に向かって歩みを進めると、後ろからまだ眠気を残したようなのんびりとした声がかかる。
「…ありがとうついでに。アンタだいぶ疲れた顔してるから、暇な時はこのスペース使うといいよ。1人になりたいならここは俺以外誰も来ないし、俺もたまに来るけど殆ど寝てると思う。って言っても俺がココ管理してるわけじゃないから、許可とか偉そうなこと言えないんだけどね。…まあ、数少ない静かな場所だからあんま広めないでくれると助かるなー」
容姿というか、最初の印象に似合わず、存外この少年はコミュニケーションを取るタイプらしい。言葉遣いも少々雑なところはあるものの、端々からこちらへの配慮が伺える。
未だに眠そうに目をシパシパと霞ませているくせに、よく観察されてるな、と思った。
「それは実にありがたい。…許可いただけるなら相当な頻度になると思いますが、よろしいので?」
こんな良い穴場を見ず知らずの他人に教えてしまうのは嫌だろうに、この少年の好意に思わず頬を綻ばせて、冗談めかしながら笑う。
「おお、構わん構わん。毎日でも来い。ちゃんと使ってやった方がこのソファたちも喜ぶ」
ライナスに合わせるように、亜麻色の髪の少年も笑いながら自身の腰掛けるソファを叩いた。
親しげに細められた瞳に、薄く色づいた唇に、無意識のうちに意識が引き寄せられる。ライナスはそんな自身の反応に気づかないように蓋をしながら、荷物を抱え直して扉に身体を向ける。
「…あ、そうだ。名前をお訊きしても?」
今度は首だけを後ろに向けて、気になっていた少年の名前を問うた。
「アルノルだ。あんたは?」
ライナスは気づかれないように努めながら笑みを深めた。
これまでの態度や、ライナス自身に彼を見た記憶がなかったため何となく予想はしていたが、本当に名前を訊き返されるとは。どうやらこの少年はライナスが皇族だと知らないらしい。
どんな田舎貴族でも最低一度は社交界で皇族と挨拶を交わす機会があるだろうし、普通ならば同じ時期に在学する皇族の特徴と名前くらいは知っているものだろう。
しかし先程ソファで眠っていた姿を思い起こし、病弱なのだろうか、と結論付けた。
(…アルノル。アルノルか。)
ライナスは、陽に照らされて金色に光る亜麻色の髪を視界に収めながら、忘れないように心の中で2、3度その名前を反芻する。
「…ライナスです。以後よろしくお願いします、アルノル先輩」
「アルノルでいいよ、たった一個の違いだろ。話し方も楽にしたらいい」
「では遠慮なく。よろしく、アルノル」
ライナスの適応の速さに、アルノルはもう一度綺麗な顔をくしゃっとして笑った。
「ははっ、よろしくライナス」
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