第2話 最高で最悪の夜


 件の仮面舞踏会の日、アルノルは久しぶりの休暇に浮かれていた。


 休暇とは言っても、午前中は普通に事務仕事に登城していたので、正確には半休なのだが。しかし半休とは言え、二月ぶりの仕事のない時間。

 自分が仕える殿下は異常なほど仕事を集めてくる性質なようで、不満には思いつつも、文句の1つも言えずに従順に仕事をこなしてきたのだが、まさかこれほどまでに休暇が取れないとは。正直に言うと過労で死にそうだった。


 そんなこんなでやっと手に入れた休み、アルノルは、以前は足繁く通っていた仮面舞踏会へ行くことに決めていた。


 家柄も高貴な中でも特に上位の方だからか、それなりに優秀だったので、若くして王城勤務という栄誉を賜ってはいるのだが、この仕事に就く前は少し、というか大分、派手に遊んでいた。


 男女問わず数え切れないほどの数の貴族たちと関係を持っていたので、わりと性には奔放な方だったと思う。早くから学友と共に仮面舞踏会という場を知り、顔全面を覆い隠す美しい仮面を着用して、一夜限りの関係を楽しんだ。

 まあそんなこんなで通ってばかりいたので、ほとんど顔も見たことが無いような親に、無理やりこの仕事にねじ込まれたのだが、今でも、事前に招待を受けずとも顔パスで入れるほどには、立派な常連だった。


 その日も、何人か好みの体型をした者を捕まえて、存分に発散するつもりだった。


 実際、会場に着いてからは、しばらく来なかったのは何故だ、と何人もの男女に囲まれた。しかし、生憎とその中には探しているようなタイプの者はいなかったので、無難に少し会話をした後、案内されるままに、慣れ親しんだ三階の個室へと通される。


「いつものを頼む」


 側に控えていたウェイターに、毎回必ず飲む強めの酒を頼み、銀の仮面を直しながらソファにどさりと腰を下ろす。


「お待たせいたしました」

「ありがとう」


 程なくして、いかにも成金貴族が好みそうな華美で華奢なグラスとボトルが届けられ、すぐに受け取って、仮面をずらしながら口に含んだ。


「…美味いな」


 久しぶりだからこそ、格別に美味しく感じる。香りも味も素晴らしいが、何より強い酒だからこそ、疲れた体に染みるのだ。

 だからか、ペースがいつもより早かったようで、半時も経たない内に、ボトルが3つ空になり、酔いも大分回ってきた。


「…そろそろ行くか」


 良い感じに酔いが回り、気分も高揚する。いざ狩りへ、と天幕をまくって広間に向かった。

 後々思えば、ここで引き返すか、最初に適当な相手でも選んでおけば、翌日の後悔も知らずに済んだのであろうが、アルノルは気分も酔いも上々といった様子で歩いていってしまった。


 問題のその男は広間の入り口にいた。

 まだ扉の手前なので、薄暗くて顔も髪色も見えなかったのが大きな失敗の要因だったのだが、その時のアルノルは、丁度よく引き締まった筋肉に、自分より幾分か高い身長と、若々しい雰囲気だけが見えていた。


 相手も自分に興味を持ったようで、グラスを片手に話しかけながら近づいてくる。


「素敵な夜ですね」


 第一印象は“初々しい“だろうか。このような場で敬語を使って話す者は久しぶりに見る。


「そうだな、今日は一段と酒も美味い。…ご一緒にどうかな?」


 仮面で見えはしないだろうが、笑っていることが伝わるよう気さくに話しかける。


「……是非」


 相手の男がいくら初々しかろうとも、このイベントの趣旨は理解して来ているのだろう。床の誘いに、躊躇う素ぶりを少し見せつつ、期待を込めたように頷いた。


「じゃあ、特に場所のこだわりが無いなら、俺が使っている部屋に案内するが」

「お願いします」


 それから部屋に向かう道中、相手はそれでも社交に一定以上の慣れがあるようで、話題は尽きず、ストレスのない会話が続いた。


 酒が回っていようと、普段からこういった場には慣れているので、自分の身元の判別がついてしまうような話題は躱したが、思っていたより楽しんでいたらしく、部屋についてからも数時間は会話をする時間が続いた。

 親兄弟のこと、職場のこと、元婚約者の愚痴、あまり人には言ったことがないようなことまで、聞き上手な彼の前では次から次へと口が動いていく。


 自分ばかり話すのも良くないかと、元来の真面目が出てきて、彼に話を振ってみることも多々あったのだが、彼との会話は心地よく、何ら苦痛も抱かずに、気づけば二人揃って立ち上がって、備え付けの寝具へと歩いていった。


「…脱がすか?」


 その時は興が乗っていて、自身のシャツの襟を摘みながら、普段はしないそんな提案をする。


「…失礼します」


 その男は迷う素振りも無く首を縦に振るものの、中々手は動かないようで、勝手が分からないのか右へ左へと宙を泳がせている。それは恥じらっているというより、ただ行為自体に慣れていないようで。


「なんだ、初物か?」


 上段めかして尋ねてみたが、どうやら図星だったようで、本人は押し黙ってしまった。


「……」

「今日の俺はどうにも幸運らしい。初めてのお相手を飾れるなど、これ以上無い名誉だな」


 何も恥じることはない。むしろ俺はラッキーだと感じている、と伝えるように目の前の髪をクシャりとかき混ぜる。その手がそのまま彼の仮面の頬の辺りを伝う頃には、彼はスイッチが入ってしまったようで、アルノルを優しく横抱きにして、衝撃を与えないようにベッドに下ろしてきた。


 腹の辺りから侵入してくる硬い手を受け入れることを伝えるために、伸し掛かっている彼の肩に両腕を回すと、彼はもう一方の手でアルノルの銀の仮面に触れた。


「キスがしたい」

「…駄目だ」


 直接的で可愛い”おねだり”は酷く情欲をそそったが、線引きははっきりしなくては、と彼の手を上から抑える。


「今日は気分が良いからな、そこ仮面の下以外なら好きにするといい」


 仮面を外すことは許さないが、それ以外の全身を好きにする権利を差し出す。数時間前に出会ったばかりの男に。本当にこの日は久しぶりの享楽に羽目が外れていたので、翌日も仕事があることなど頭の片隅にも無かった。


「…ん」


 彼の片腕が胸の辺りにまで届き、先端部分の凹凸に触れると、久方ぶりに訪れた甘美な刺激に甘い声を漏らした。

 しかし、そこでアルノルは大事なことを聞き忘れていたと、彼の肩を二度ほど優しく叩いて上体を起こす。


「一応確認しておくが、お前は上と下どちらがいいんだ?」

「…上と下ですか?」


「抱きたいか、抱かれたいかだ」


 上下で伝わらなかった辺り、アルノルはその初さを愉快に感じて仮面の下で小さく笑った。先程までの彼の行動から、こちらを抱く気でいることは十分に理解していても、そんな意地悪な質問をしてみる。

 そして当の男は、相手が抱きたいと思っているという可能性は考えていなかったのか、明らかに狼狽えて心配気にこちらを窺う様子を見せた。


「…貴方さえ構わないなら、…抱きたい」


 こちらの反応を窺いながら見せたはっきりとした意思に、アルノルは再び気分が良くなって、同じく目の前に座っている彼の下穿きを開いて、存在を主張するそれに自身の手を添えた。


「、待っ」


 他人の手で触れられるのは初めてなのか、止めようか止めまいか迷って、でもしっかりと感じている様子がまた良い。

 もちろん、自分も抱かれる気満々でいたのだ。望み通りの返答をくれた彼には褒美とまでは行かずとも、良い思い出にしてほしかった。


 先走りが溢れる先端を丁寧に親指で擦り、根本からゆっくりと上下に動かす。

 息も先程より荒くなり、段々と酒以外の理由でも赤みが増してきた彼の逞しい肌を見ながら、仮面の下で舌舐めずりをした。


 堪えきれなくなった彼が、その形の良い顎を上に反らせて達すると、アルノルは彼から出た白濁を両の手で受け止め、少し腰を浮かせて、自身の蕾へとあてがう。

 彼は快楽の余韻に肩を上下させながら、そんなアルノルの様子を見守った。


「…何を?」

「男のものはそれ用に作られていないから、こうやって慣らすんだよ、…すぐ終わるから」


 彼も最初はその様子を静かに見守っていたのだが、アルノルの紅潮した肌と滴る汗に魅入られてか、再度アルノルに伸し掛かるように覆い被さってきた。


「…俺がしてもいいですか?」


 アルノルは仮面の下で小さく目を瞠る。予想外の行動力もそうだが、


「…抵抗はないのか?」


 男の後ろを使うことに、初めてのお坊ちゃんは少なからず心理的抵抗があると思ったのだが、どうやらアルノルが思っていた以上にこの男は今この瞬間を楽しんでいるらしい。


「貴方は綺麗ですよ」

「っふは」


 その‘綺麗’という言葉に含まれている意味は、容姿だけへの言葉ではないように見受けられる。


 仮面を付けていない昼間ならば、自身の容姿を褒められることなど慣れっこなのだが、こんな場に入り浸っている自分に対して、汚くないどころか”綺麗だ”などと嘘も口説くでもなく言われたのは初めてのことだった。


「好きにしろと言っただろう」


 今日は本当に運の良い日だ、と画面の下で微笑む。


 その後は、アルノルの体力が尽きて気絶するように眠るまでは彼との情交が続き、その晩、同じフロアに響き渡るアルノルの声は今までより一層甘いものだった、と暫くの間噂になったのは、当人たちの与り知らないことであった。




 翌朝。

 まだ朝日も登り始めの時間帯、いつもの習慣か、体質か、仕事に行く準備をしなければならない時刻にアルノルは目を覚ます。


 場所は昨日のあの個室のまま。


 上体を起こして部屋を見渡すと、テーブルの上に置かれた桶とタオルが目に入る。

 アルノルが眠った後にいつの間にか不器用にも彼が清めてくれたのだろう、体はベタつきも不快感も無いが、続いてベッドの中、すぐ横でまだ眠っている男を視界に入れた途端に、アルノルは思考も体も硬直した。


 昨晩は暗くて見えなかった、彼の深い青の髪の毛に、手の甲に入った見覚えのある小さな切り傷。そして何より、よく知る殿下が好んで付けていた質素な耳飾りが目に入る。


「…………………………………………は、?」


 思わず漏れた疑問の声に、反射で口元を抑える。


(!?、!?、!?)


 意味が分からない。夢にしては質が悪すぎる。最悪だ。最悪の失敗をした。


 視界から流れてくる衝撃の情報量を処理するのに、優秀なはずのアルノルの脳がてんで追いつかない。


(…口調が違ったから、……いや、声で気づけよ)


 自分で自分にツッコミを入れる。


 昨日はいつもより酒も大量に飲んでいた。かといってこれまで仕事を頑張ってきた自分に対して、この仕打ちは無いんじゃないか、と心の中で信じてもいなかった神を恨む。こういう時だけ神を出してくるのは卑怯だと思っている派のアルノルでも、恨む相手を作って現実逃避をしないと心が崩れそうだった。


(ああああああああああもう)


 まだ装着したままの仮面の下でアルノルは涙目になりながら、横ですやすやと眠る男に再度視線を向ける。


 彼の仮面に向かって伸びていく手を、既の所で引っ込めた。その顔を確認して、事実が確定してしまえば、そこでもう何かが終わってしまう気がしたのだ。


(…ま、まだ、まだ大丈夫)


 殿下だって昨日寝た男がアルノルだったと気づいていた気配はなかった。


 仮面だって一度も外していないし、今この場から逃げさえすれば、もうあとは数名の従業員と自分が口を噤めばいいだけの話である。

 ここの従業員は特殊な教育をされていて、例え王族相手でも守秘義務に関しては問題ないから、事実上自分さえ気をつければそれで済む。


(…殿下は朝に弱いし、あと数時間は起きない)


 帝国の小さき太陽たるもの、どんな国民よりも朝は早くなくては、と皇后陛下に叱られるも、一度とて早起きに成功しなかったライナスの様子を思い出す。


(自分がいた証拠を隠滅して、早々にこの部屋を出る…)


 取り敢えずやるべきことが決まったアルノルは、物音どころか、揺れの1つも起こさないようにベッドから抜け出し、3秒で服を着た。

 しかし、浮かれていたため職場で着ていた服をそのままで来ていたことに気づく。どこにもありふれたデザインの白いシャツだが、この国では、真っ白なシャツは貴族の中でも裕福な者しか常用しない。この殿下に限ってあの暗闇の中でそこまで見ていたとも思えないが、バレていたらと思うとゾッとした。


 一応、ベッドやソファなどに自分の頭髪などがないかも確認する。

 忘れ物、落とし物が無いかも入念に見た。


 鏡の前で、乱れた髪とシャツを軽く正し、もう一度緩やかに呼吸を刻むベッドの方向に視線を向けてから静かに退室する。


 部屋を出ればこっちの物だと思い、早鐘を打っていた心臓は少しずつ落ち着きを取り戻してくるが、足だけはこの場を早く去ろうとスピードを緩められなかった。


「…ふぅ、」


 1階のフロントで、一応アルノルが昨晩来ていたことを誰にも口外しないように言っておく。従業員の数名やオーナーはアルノルの仮面の下の顔を知っているが、客の中では正体を知っている者はいないので問題はないだろう。


 会場から出ると、玄関前に数台控えている辻馬車に乗り込んだ。皇子が探す可能性も考慮して、そのまま王城には向かわせず、王都の適当な場所に行くよう伝える。


「はぁぁぁぁぁぁ……」


 車内は1人で、やっと仮面を外して息をつける。

 緊張や困惑、恐怖、焦燥なぞ様々な感情をまとめて大きく吐き出した。


 普段馬車酔いはしない質なのだが、胸中を複雑な感情がグルグルと回って、二日酔いと相まって酷い倦怠感に襲われる。



 アルノルの身体を気遣って、すぐにでも動きたいのをこらえていた筋肉質な腰も。

 何度良いと言っても、翌日に体調を崩すからと、絶対にナカには出さなかった強情さも。

 しつこいくらいに丁寧な愛撫だって。


 今までああいった場では出会ってこなかった類の人間に、たまには悪くないかと、また気が向けば会ってもいいかもしれない、などと思ってもいた。


 だが、次回どころか、時を戻したいとさえ思う。


 アルノルは、まだ彼の感触が残る両手で自らの顔を覆い、再び深く息を吸って吐き出した。



(………早く、…忘れよう)






 そして、殿下から探してほしい人がいると頼まれるのは、その2日後の事だった。

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