身代わりの人質花嫁は敵国の王弟から愛を知る

夕香里

第1章

第1話 プロローグ

・リルテッド・ハーディングと申します」


 教会の聖堂に続く廊下にて。ヴェール越しに初めて会うエヴェリの夫となる人物は、思わず息を止めてしまうほど端正な顔立ちをしていた。


 癖のない濡れ羽色の黒髪はステンドグラス越しに降り注ぐ陽光によってきらきらと輝く。凛々しい目元は冷たさを感じるが、瞳の色は温かな陽射しを想わせる蜂蜜のような黄金だった。


 あまりに整いすぎた顔立ちに一瞬作り物のような感情を抱く。けれども長い睫毛と冷ややかな双眸が微かに揺れる度、自分と同じ人間なのだと再認識する。


 エヴェリは軽く頭を下げて夫となる者の言葉を待った。腕を組み、険しい表情でこちらを見据えるその人物は面倒くさそうに口を開いた。


「セルゲイ・フォン・シュタインズだ。貴殿が私の花嫁で相違はないか」


 低く、それでいて玲瓏な声だ。かの御仁は顔貌だけではなく、声までも美しい。


 顔を上げると未だセルゲイは眉根を寄せて睨むようにエヴェリを見下ろしていた。竦みそうになる体を叱咤し、胸に手を当ててはっきりと口にする。


「はい。ハーディング国を代表してわたくしが嫁ぎに参りました」


(正確に言いますとシェイラに扮した私ですけど)


 とはいえ、そんなことは伝えられないのでエヴェリは余計なことを言わないよう口を噤む。


「何度か遠目から貴女のことを拝見する機会があったが……」


 ますます眉を寄せ、セルゲイは告げる。


「最初に言っておこう。貴女の噂はここまで届いている。私は貴女のような我儘で傲慢な人間を心底嫌っている。自国では自由に暮らしていたのだろうが、ここではそうはいかない。大国の姫だとしても、わがままを聞くつもりは一切ない。全てが思い通りになる訳では無いとゆめゆめ忘れるな」


 淡々と諭すように、それでいて微かな希望さえ潰すように畳み掛けてくる。本物のシェイラであれば我慢ならず怒り狂う場面だろう。しかし、エヴェリは間髪入れずにこくりと神妙な面持ちで頷いた。


「かしこまりました」


 エヴェリの返答は予想外だったのだろう。ここでほんの少しだけセルゲイは表情を変え、目を見開いた。こほんと咳払いをし、エヴェリから目を離す。


「あの、殿下?」

「違う」

「?」


 いったい何が違うと言うのだろう。首を傾げると彼は目を逸らしたまま答える。


「その呼び方……私は王位継承権を放棄し、臣下に下っているから王子ではない」

「失礼致しました。ではご当主さま」


 それでもセルゲイは眉根を寄せる。その反応に、今度はこちらが困惑する番だ。


「……気に触るようなことを言ってしまいましたか?」

「何故そこまで頑なに私の名を呼ばない」

「えっと……名前を呼んではいけないと教わっておりますので」


 この大陸で授けられた名前は親から子へ送る最初の贈り物と共に、神からの恵みだと言われている。

 エヴェリのような厭らしい身で高貴な方の名前を呼ぶなど不躾で言語道断だと何度折檻を受けたことだろうか。


(ああ、でも今はシェイラだから口にして良いのでしょうか……)


 姫であるシェイラなら名を呼ぶのが自然かもしれない。むしろ上から目線で呼ぶだろう。ただ、中身はエヴェリなのだ。これで彼に不幸があったらそれこそ申し訳がつかない。


 加えて誰からも望まれない、ましてや目の前の夫となる人にとっては、今すぐにでも厄介払いしたいだろう押しかけの人質花嫁に、名前なんて呼ばれたくないに決まっている。


(騙している私なんかがお名前をお呼びするのは烏滸がましい)


 悩んでいるとセルゲイはため息をつく。


「貴女は形だけとはいえ、私の妻だろう。臣下ではない」

「そう、ですね。そうしましたらええっと……旦那さま?」


 違うだろと言いたげな胡乱な視線を送られるが、これがエヴェリの考える最善の妥協案だった。


(シェイラのフリをしなければいけないけれど、ここは譲れない)


「どうか『旦那さま』でご容赦くださいませ。とはいえ、ご不快でしたら旦那さまのご要望通りの呼び名に致します。お名前の方がよろしいでしょうか」

「…………もういい、勝手にしろ」


 諦観の眼差しを向けられる。歩き出したセルゲイは、ふと思い出したかのように振り向いた。


「最後に言っておく。私は君を愛することはないし、愛されるとは思わないでほしい」


 そうして聖堂に続く扉に手をかけた彼が、苦渋に満ちた表情でひとりごちるのをエヴェリの耳は拾ってしまった。


「無理やり姫を寄越しておいて、待遇の期待はしないでくれよ」と。


 セルゲイはエヴェリを置いて婚姻の儀式を執り行う聖堂内に入ってしまった。閉じられた扉を見つめながらきゅっと胸元で手を握る。


 冷淡な彼の反応は、エヴェリを疎んでいることを如実に表していて、到着する前から抱いていた罪悪感が増幅していく。


(本当にごめんなさい。もしかしたら好いた方がいたかもしれないのに、政略結婚で半ば強制的に全てを貴方に背負わせてしまって。挙句の果てには嫁いできたのが本物の姫ではなくて────紛いものである私だということも)


 ヴォルガ国の王弟であるセルゲイは今年二十三歳になったと聞く。世間では結婚適齢期。好いた令嬢がおらず、政略結婚で花嫁を迎え入れるとしても、エヴェリより相応しい相手がいたはずだ。


 それなのにエヴェリの祖国、ハーディングが自己都合で無理やり花嫁エヴェリを押し付けた。


「出来る限り邪魔にならないようひっそりと生きていきますから、どうか赦してください」


 エヴェリは本来の髪色ではない蜂蜜色の横髪を耳にかけ直し、指に嵌った指輪を確認してから聖堂に入った。

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