続りんりんりんと世界が泣いている
yaasan
第1話 続りんりんりんと世界が泣いている
君は大丈夫。
あの時、彼は何度も私にそう告げてくれた。きっとただ私を安心させるためだけに。好きだと言ってくれた私の薄い黒色。その瞳を彼は真っすぐに見つめて。
その言葉は暗闇に沈む私の心をそっと照らす光のようで、優しい声と共に今も私の中で柔らかく灯っている。
「君の目の前で捕まるのは、格好が悪い気がして嫌なんだ」
最後に彼はそう言った。そして私の父親の血に染まった包丁を持ったまま、警官隊に取り囲まれた外に出て行ってしまった。
彼が出て行った後、外で何があったのか詳しくは分からない。後で聞いた話によると、彼は包丁を振り上げて走り出したらしい。そして制止を呼びかける警官に発砲されて、取り押さえられる過程で命を落とした。
この事件は世間を大いに賑わせた。十五歳の少年に発砲したことも含めて、警察側の対応は多大な批判を受けたようだった。
でもそんな発砲の是非も、警察の対応も私にはどうでもいいことだった。
彼が死んでしまった。
それが全てであり、その事実が今も私を悲しみの中に留めてしまっている。
りんりんりんと世界が泣いている。
私の父親を殺してしまう前に、私が言ったその世界で私の居場所を作ると彼は言ってくれた。
そう言ってくれた彼自身だって、本当は痛ましい世界の中にいたはずだった。
彼が多くを語ることはなかったのだけれど、幼少期の彼は実の母親から酷い虐待を受けていたようだった。やがて施設に保護されたものの、その職員や彼と同じく保護された者たちからも過酷な仕打ちを受けていたらしい。
それでも彼は私に優しく寄り添ってくれた。居場所を与えようとしてくれた。彼自身もきっと自分の居場所を求めていたはずなのに。
彼が言った私の居場所を作るという言葉。
でもそれはきっと間違っていて、ちゃんと彼に私は伝えるべきだった。
彼が父親を殺した時、優しく私に何度も君は大丈夫と言ってくれたように、それは間違っているんだよと何度でも彼に言ってあげればよかった。
私が求めていたのは彼と一緒にいられる場所だった。
どこにも色のない悲しい世界であったとしても、彼と一緒にいられる場所が欲しかっただけなのだ。
私がいて、だけれども彼がいないところ。
そんな居場所には、きっと何の意味もないのだから。
だけれども、りんりんりんと泣く世界から、彼が私を解き放ってくれたのは事実だった。
実の父親から私が受けていたおぞましい性的な暴力。辛くて悲しく、恥ずかしくて誰にも言えなかった父親からの虐待。
その暴力から私を救い出してくれた。心が痛みで押し潰されてしまう世界から、私を解き放ってくれた。居場所をつくってくれた。その行為が他人から見れば、浅はかで誤った手段であったとしても。
あの時、真っ赤に染まった包丁を握って出て行く彼に、私は言うべき言葉を見つけられなかった。
「……ありがとう。そして、ごめんなさい」
ようやく絞り出すようにして、それだけを私は彼に伝えた。本当はもっと沢山の言葉を彼に伝えたかったのに。だけれどもあの時、胸の奥にある全ての感情が渦を巻いていて、どれもが言葉にはなってくれなかった。
彼にかけるべきだった言葉は、今もまだ見つけられていない。あの時からずっとそれを何度も考えた。だけれどもそれは言葉として形にならないまま、いつも頭の中で消えてしまう。
見つからない言葉。
今も見つけられない言葉。
その現実も今の私を悲しくさせている。
高校の昼休みに校舎の屋上で、それらのことを私は思い出していた。もう二年も前のことなのだけれども、その出来事や思いは今でも強烈に私の脳裏に焼きついている。
きっとこの記憶や思いは痛みを伴ったままで、これからも私の脳裏から離れることはないのだろう。
穏やかな風を感じて、私はふと頭上を見上げる。視界に広がる空はどこまでも青かった。
私が抱えている様々な負の感情を嘲笑うかのように、空はどこまでも青くてどこまでも透き通っていた。
この青い空の下で私の隣には彼がいないこと。
その事実を改めて気づかされたようで、それがまた少しだけ私を悲しくさせた。
ふと人の気配を感じる。
緩慢な動作で私はそこに顔を向けた。見知った顔だった。確か一学年下、二年生の男子学生だ。名前は知らない。昼休みにこうしてたまに屋上で見かける顔だ。
屋上で見かける時は、いつも一人で彼は昼食のパンを齧っていた。きっと教室には私と同じで、自分の居場所があまりないのかもしれない。
今日もその男子学生は、私から少しだけ離れた位置に座ってパンを齧り始めた。私はそんな男子学生から視線を外して、再び頭上で広がる青空に視線を向ける。
この日の空は、まるで一片の穢れも許さないかのような青だった。その青さはどこまでも青く透き通っていて、この世にあるものとは思えないほどに美しかった。
幼い頃、単純にそれでいて純粋に信じていたように、この青空の向こうにはあるのだろうか。
私の居場所をつくるために、両手を血で赤く染めてしまった彼。そんな彼が安らぎを得られた場所はあったのだろうか。
私はもう一度、二年生の男子学生に視線を向けた。
そんなつもりは本当になかったのだけれど、気がつくと誰かに背中を押されたかのように私は口を開いていた。
「……ねえ、天国って……あるのかな?」
初めて、それも急に声をかけられたので驚いたのだろう。私を見る男子学生の目が、僅かに見開かれているようだった。
「天国ってあるのかな?」
急に声をかけてしまった自分の考えのなさに呆れながら、私は再び同じ言葉を繰り返す。
天国、あの世、天界……呼び方なんてきっと何でもよかった。
幼い頃にその場所を純粋に信じていたように、彼がこの青空の向こうにいると私は思いたかっただけなのかもしれない。
その時、一瞬だけ強い風が吹いて髪が宙を舞う。風に吹かれて舞う髪の毛を押さえる私を見ながら、男子学生は少しだけ首を傾げてみせた。
あれ?
一瞬、胸の奥が小さく波立った。
何だろう?
顔が似ているわけではなかった。だけれども、男子学生の首を傾げた姿やその雰囲気が少しだけ彼に似ている気がしたのだ。
周囲を拒絶してしまうような雰囲気。
その雰囲気が彼と重なって、その事実が私の胸を締めつけるように何故か悲しくさせた。
顔を見知っているとはいっても、互いに名前も知らないような上級生に声をかけられたのだ。しかもその内容が天国はあるのかという、質問者の真意も分からないような謎の質問だ。不審がられて無視されたとしてもおかしな話ではない。
そう思うと無表情に見えながらも、男子学生の顔が僅かに引き攣っているように見えてくる。
だけれども小首を傾げていた男子学生は、私を凝視したままでゆっくりと口を開いてくれた。
「さあ……どうなのかな」
あれ? 下級生のくせにタメ口だ。
私はそんなどうでもいいことを少しだけ考える。
男子学生はさらに言葉を続けた。
「でも……あると思えばきっとあるし、ないと思えばきっとないんじゃないかな」
「……何だか、玉虫色の答えだ」
少しの沈黙の後で私は不満げに言う。
すると男子学生は無表情ながらも、少しだけ口元に笑みを浮かべたようだった。そんな上手く感情を表に出せないようなところも、何だか彼に似ている気がする。
そんな口元を見ながら、そうなのかと私は思う。
あると思えば天国はきっとあるのか。
返答はもの凄く曖昧なものだったが、その不確かさが何故か少しだけ私を安心させてくれた。その決して定かではない言葉が、かえって私の思いを補完してくれる気がした。
「じゃあ、きっと天国はあるんだね。ならこの空の……」
呟くような言葉を私はそこで切って、再び頭上の青空に視線を向けた。最初は私を嘲笑っているかのように思えた空の青さが、今は優しく感じられるのが不思議だった。
私があると思うのなら天国はある……。
ならば、この空の向こうにそれがあるのだろうか。
この青い空と繋がっているのだろうか。
空を見上げる私を風が静かに吹き抜けていく。静かな風が髪の毛を優しく撫でている。
風は少しだけ暖かくて、その温もりが彼の記憶を私の中でそっと呼び起こしたのかもしれない。懐かしいあの優しさと手の温もりが戻ってきた気がした。
それは私の心を揺らすような風の温もりと、柔らかな風の音だった。
そんな風の音を聞きながら、私はそっと目を閉じた。頭上に広がる圧倒的な青い空が、そっと私を静かに包み込んでくれた気がする。
そこには穏やかなものが確かに存在していて、私はそれを感じることができた。
私はゆっくりと瞼を開く。
悲しいのだろうか。
その理由も分からないまま涙が頬を静かに伝っていく。
私は心からの祈りを込めて、青い空を抱きしめるように両手をゆっくりと伸ばしたのだった。
あなたが私にくれた世界。
りんりんりんと泣かなくなった世界。
ここで私は今、青い空を見上げています。
分かりますか?
私はここにいます。
とてもとっても心がまだ痛いのだけれど、私はきっと大丈夫です。
この空があなたの見上げている空と同じであることを願っています。
この空と繋がっていることを心から思い願っています。
どうか教えて下さい。
どうか私に伝えて下さい。
あなたの上に広がる空は青いですか?
続りんりんりんと世界が泣いている yaasan @yaasan
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