第21話 丹薬
先帝の住まう皇宮に、アジの南蛮漬けを持って参上する。隣には雨流もいて、月花はさて、この先帝のご病気をどう切り出そうかと迷っていた。今日も、見たところによれば手足の震えがあるし、どうにも悪化しているような気さえした。
「父上。わたしの皇后が父上のために料理を作りました」
「す、す、酸い……わ、わた、わたしは酸いものは好かぬ」
アジの南蛮漬けを前に出すと、その匂いだけで先帝は嫌悪を示した。しかし、それは月花も想定内だ。五行の均衡が悪い人間ほど、足りない五行を嫌う傾向にある。ならば、食べやすいように工夫すればいい。
「騙されたと思って、お召し上がりください」
雨流がにこやかに促すと、先帝は箸を持ち、アジの南蛮漬けを口に入れた。香ばしいアジは骨まで柔らかく、アジの油と揚げ油で甘酢がまろやかになっている。甘酢は酸味が強くて好かなかったが、丸いネギやアジを一緒に食べることで、酸味もこのように食べやすくなるのかと先帝はすべてを平らげた。一口、また一口とアジを口に運び、その一挙一動を月花は固唾をのんで見守っていた。すべて平らげて、先帝は嬉しそうに破顔する。月花の目をまっすぐに見て、
「美味で、で、あった」
「ところで、先帝」
嬉しくて飛び上がりたいほどだった。しかし腐っても皇后だ、月花は恭しくこうべを垂れたままに、
「最近のお食事内容をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「わ、わたし、の、食事。は、は。雨流に聞くがよい」
「御意」
「そ、そなたの、りょうり、う、うまかった、」
以前よりももっと、言葉がつかえて出てこないようだった。月花と雨流は椅子を立ち上がり、先帝の部屋を後にする。扉が開くと、月花と雨流が先帝の宮を出るのと入れ替わりで、大学士らしき人物が先帝のもとに参内する。
「先帝。今日も丹薬をお持ちしました」
丹薬、との言葉を聞いて、月花が振り返る。後ろ姿しか見えないが、あの漢服は大学士のものだった。
「月花?」
「あ。陛下。先ほど入っていったものは?」
「大学士の架 美連(か みれん)殿だ」
「架 美連」
この国では、親の名前の一字を取って、子供の名前を付ける。例えば、月花は母親の花を受け継いだし、雨流は先帝の雨の字を受け継いでいる。
架美連。聞き覚えのある音に、月花は月の宮につくまでその名前を繰り返していた。
月花の料理は、世界各国のあらゆる料理が再現されている。
スブタ、スシ、ボルチチ、ハンバーガー、フライドチキン、ハクマイ、メン。
月花の店を訪れたものは、そのどれを食べても舌鼓を打ち、店を出る頃には月花の料理の虜になっている。常連客も多い。その中でも月花が力を入れていたのが、カリーだ。
なのに、月花は雨流の妃としてこの王宮に移り住んだ。急な料理屋の閉店に、常連客には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「え、これ全部食べるんですか? 先ほど朝食を食べたばかりですよ?」
王宮での食事は、基本的に料理人たちに任されている。この国一番の料理人に作らせた宴席料理は、一日に五回提供される。月花は先ほど、先帝への料理を自分が提供したばかりだというのに、厨房に帰るや料理人たちがあわただしく料理を作るさまを見て、目を真ん丸にしたのである。
貴族の間で、美食の需要が高まっている。西洋の料理の影響だった。しかし、人間が一日に食べられるご飯の量は限りがある。反して、貴族たちの道楽は、美食をたしなむこと。
だから貴族たちは、食べた料理を吐き出しては食べ、吐き出しては食べ。そういうことが、貴族たちの間では『普通』だった。これらはやはり、西洋の文化を模倣したものだった。だとしたら、先帝に先ほど献上した、アジの南蛮漬けの意味がなくなる。食べ物は、消化吸収されなければなんの意味もなさない。吐き出されたら、月花の努力は無駄になる。そもそも月花の月の宮でも、そろそろ皇后らしい食事をと、華女官に羽を渡されたのが発端である。
「この羽を喉奥に入れて、先ほど食べたものを吐き出してください」
「え、ちょっと待ってください。吐く? 食べ物を?」
なんて罰当たりな。月花は大いに拒んだ。
鈴が困惑する。美食は貴族の最上級のたしなみだ。だから、月花の行動が理解できない。月花がこの宮に着てなじむまでは、食事は一日に二回か三回しか供されなかった。それを、今日からは五回に増やすのだという。雨流もこんな食生活を送っているのだろうか。まるで信じられない。せっかく食べたものを吐き出すなんてこと、できるはずがない。一生懸命作ってもらった料理を吐き出すなんて。
「陛下も、こういった食生活を?」
「はい。陛下も同様です」
月花は思案する。雨流が月花の小料理屋に通ってなお、冷徹な皇帝と噂されるのは、やはり食生活に問題があるからだろう。月花の料理を食べても、吐き出したら意味がない。後宮とは恐ろしい場所だと、月花は再認識する。
月花がこの王宮で生きていくためには、まずこの食生活を改善する必要がありそうだ。
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