第19話 動揺
噂話はさておいて、月花は久しぶりに厨房にたっていた。包丁の懐かしい握り心地。手のタコが当たることさえいとおしい。雨流とともに厨房に入って、料理人たちは既に片づけを終えて一人もいなかった。しかし、女官たちは今もせわしなく後宮内を動き回り、掃除だの洗濯だのにいそしんでいる。鈴が食材を見てくううとお腹を鳴らした。
「え、すごい。こんなに上等な香辛料、私でも手に入りませんでしたよ」
「だろう? 後宮はなんでも出に入るからな」
「そうですね。私なんて、香辛料は粉の物しか。粒(ホールスパイス)なんて高価で高価で」
嬉しそうに、ひとつひとつの粒を手で触り、においをかいで脳に記憶していく。そして、一粒一粒口に入れてかみしめる。クミンの種は、ほろ苦さと独特の香りがする。カルダモンは、かんきつを絞った時のようなさわやかな香り。コリアンダーはパクチーの種の為、苦みと香りが強い。うこんは、着色のために使うが、これも一種の苦みがある。黒胡椒はなじみのある食材だが、粒だと辛味と香りが桁違いだ。丁子は香ばしい香りがして、レモングラスはレモンのような香りが、唐辛子の粉は辛味の中にほのかな甘みがある。バジルは清涼感の中に甘みがあり、コブミカンのさわやかな香り。どれも、月花が仕入れていたものとは、まるで香りの質が違った。月花は一通り材料を見繕うと、今夜は簡単に緑のカレーにすることにした。
「やはり、グリーンカレーの肝は新鮮なバジルとコブミカン。これ、本当に手に入れるの苦労するんですよ」
「この葉っぱをか?」
「葉っぱって。そうです、このコブミカンの葉は、タイーでは重要な香辛料なんですよ」
茄子、ピーマン、キノコは一口大に切っておく。
香辛料(クミン、レモングラス、青唐辛子、バジル、コリアンダー)と玉ねぎ、パクチー、カピ(アミの塩から)、青唐辛子を乳鉢で細かくつぶしておく。
鉄鍋にココナッツミルクの固形部分を入れて先ほど乳鉢で擦ったものを入れてよく火を通す。一口大に切った鶏肉を加えて火を通したら、ココナッツミルクの液体部分を入れて、最初に切った野菜を入れる。塩と砂糖で味を調え、そのまま煮込む。
「皆さんの分も作りましたので、召し上がってください」
「やったあ! 私月花さまのカリー食べてみたかったんです」
食いついたのは鈴である。陶器の器にカリーをよそって、匙で口に運んで咀嚼する。目が見開かれ、うっとりと頬を抑えるさまを見て、ほかの内官女官たちも鈴に続いた。我先にと器に盛り付けて、内官も女官も、最初の一口は恐る恐るだった。誰しも、初めての味とは恐怖と期待があるもので、月花はそれらを固唾をのんで見守っていた。
「香辛料の香りと、ここなつの甘み、深い味わいですな」
「はい。一口目は少し驚くのですが、二口目、三口目へと進むにつれて、病みつきになる」
カリーは香辛料の香りが強く、ココナッツミルクも初見では抵抗もあるだろう。しかし、さすがは後宮と言ったところか、香辛料の味に抵抗を示すものは少なかった。普段から外交で様々な国の料理を目にし、時に食してきたのだろう。国外の食にも理解を示し、皆が一様に「うまい、うまい」とカリーを食す。月花は満面の笑みを浮かべた。料理人にとって、この上ない譽だ。こんな風に、料理で誰かを驚かせ、笑顔にできるのは、月花にとってなににも代えがたい時間だった。早く小料理屋に戻りたい、そんな寂しさを雨流が感じ取ったのか、雨流は月花の頭をぽんぽんと撫でた。「すまない」月花はフルフルと首を横に振って、雨流に笑みを向けた。それがなぜだか、痛々しい。
「ああ、本当に楽しかったです」
カリーを食べ終えて、雨流が月花を月の宮に送ると言ってきかなかった。月花はそんな恐れ多いこと、と断ったのだが、雨流は言い出したら聞かない性分だった。雨流は月花に甘い。それはこの月の宮の女官、内官、下女たちは誰もが知るところで、気づいてないのは月花だけなのである。月花の歩幅に合わせて雨流がゆっくり歩くことも、わざと遠回りして月の宮に向かうことも、知らぬのは月花のみである。
月の宮が近くなって、雨流が月花の手をそっと取った。
「ソナタ、明日は先帝の食事を作ってくれぬか?」
「いいですけど。……陛下って何気にお暇なんですか?」
「だ、誰が暇だと!?」
「だって、今日も長いことお話に付き合ってくださいましたし、明日も先帝のお料理に付き合ってくださるのでしょう? 政務は宰相たちに任せきりみたいですね」
そんなことを言われて、しかし雨流は言い返すことができなかった。人がわざわざ時間を作って会いに来てやっているものを。しかし、それを口にすれば恩着せがましく、また、言い訳のようではばかられた。なにより、雨流自身、知らずのうちに月花のことばかり考えていて、どうやって会いに行こうかと口実を探す日々が続いていた。
雨流はこのどうしようもなく鈍い皇后に振り回されている。わかっている、月花にとって雨流はただの皇帝でも、雨流にとって月花は、初めての人なのだ。
「ソナタの料理は、まことにうまいゆえに、頼みたかった」
「そりゃあ、曲がりなりにも料理人ですよ」
「それに、お人よしだ」
「それは……けなしてます?」
「いいや。感謝してる」
月の宮まで来て、女官が部屋の扉を開けた。ぎいと扉が開き、雨流が握った月花の手を引き寄せた。そして。
女官たちが雨流と月花から顔をそらした。目元を手で覆うのは、女官や内官の習わしだ。決してそれを、直視してはならない。
「ん、な!?」
「ゆっくり休むがよい」
額に触れた雨流の唇の感触が生々しく、月花はこの人騒がせな皇帝の真意が、わからなくなった。月花の額に残るあたたかな感触のせいで、月花は夜もまともに眠れなかった。あの皇帝は、少し戯れが過ぎる。いくら月花が皇后とはいえ、このようなことを。
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