第18話 カリー

 宇露のもとから帰ると、月花の月の宮に客人――雨流の姿があった。落ち着きなく椅子に座って人差し指でつくえを叩き、月花が入ってくるや雨流はぱっと顔を明るくした。


「げ。皇帝陛下、いらしていたのですか」


 恭しく拱手礼をして、月花は下座に座った。雨流は菊花茶を飲んでいる。とても優雅とはいいがたく、焦りを胃の腑に落とすように、菊花茶の味など味わう様子もない。菊花は香りがよく、独特の苦みがあって美味しいのだよな。視線に気づき、雨流が傍付きの内官に目線を送り、内官の指示で華女官が月花にも菊花茶を出した。雨流に対し、華女官の所作は優美で、菊花茶のうまみを最大限に引き出す淹れ方をしている。さすがは女官だ。月花は待ちきれんばかりに身を乗り出す。華女官が穏やかに笑った。


「ありがとうございます」

「なに。それで、毒の件はどうなった?」


 雨流が内官に右手を上げると、内官、女官たちは月花の月の宮から出ていく。人払いをして二人きりになって、さて雨流ははあと息を吐き出した。目の下にクマができていて、年齢よりも老けて見えた。


「毎日毎日。疲れるばかりで楽しみもない。ソナタのカリーが食べたい」

「で、ですが私には毒の正体を明かす必要が」

「そうだな。だが、言っただろう。俺の舌は、ソナタと同じ。後宮の料理は味が濃くてならん」


 確かにこの皇帝ならば、味の濃いものよりも、今飲んでいるような菊花茶のほうが好みだろう。だからと言って、月花が作るわけにもいくまい。一介の皇后が料理など。月花は苦笑を返すことしかできなかった。雨流が眉間を揉んで、伸びをする。今度は幼く見えて、どの皇帝が本当なのか、月花にも計りかねた。


「そういえば、先帝のお身体の調子がよくない。ソナタに見てもらおうと思ってきた」

「見る?」

「そう、五行とやらを」


 ああ、と頷いて、雨流は月花の前に紙を差し出した。そこに書かれていたのは先帝の生年月日で、癸巳の年(一七五三年)、丙辰の月(五月)、壬申の日(八日)、丁未の刻。


癸水    巳火金

丙火    辰土木水

壬水    申金水

丁火丁火  未土金火


 これらを数えていくと、先帝もまた、火が過多である。しかし、水に根があるため火は抑えられる。問題は、木、土、金の均衡がとれていないことだ。これらを補うのなら、酸味、甘み、辛味で、羽国の酢の物などがちょうどよいのではないかと進言する。


「丸いネギ(玉ねぎ)を薄く切って、三杯酢で和えるのです。酢、砂糖、塩ですね。玉ねぎは辛味になりますし。または、こちらも羽国の料理ですが、らっきょうの酢漬けなどがよいと思います」

「なるほど、ソナタは西域のカリー以外にも料理の心得があると」

「いや。まあ。世界各国の料理はたいがいは」


 ほう、とうなって、雨流が菊花茶を飲み干した。もっと味わって飲めばいいのに。月花もまた、菊花茶に口をつけた。苦みと酸味とほのかな甘み。菊は、羽国のてんぷらにしてもおいしいのだよな。こんな時まで料理のことを考える自分に苦笑して、月花は雨流の方を見た。そのとき、視線がかちりとかみ合って、妙に気恥しい雰囲気になる。雨流が咳払いをして、


「ソナタ、カリー以外にどのような美味い料理を見てきた?」

「え、えーと。そうですね。羽国の出汁の文化はとても良いものです。魚を干して乾焙した、とても固い食べ物なのですが」

「固いのか? どうやって食す?」

「はい。それを削って薄くして、お湯で煮だして出汁を取るのです。しかもそれが、ものの数刻でできてしまうのです」

「なんと。白湯(ぱいたん)は何時間も煮出す必要があるだろう? それを、羽国の出汁は、数刻で?」

「はい。それから、西洋にはソウスなるものが存在します。それらは香味野菜や仔牛の骨からとった出汁で作られ、様々な調整を経てソウスとなるのです」

「奥深いな」

「はい。あと、モルゴの乳酸飲料と同じようなものが、ギーリシにあります。よーぐるとと申します。白い半液体の食べ物です」

「なるほど。エイジアだけではなく、西洋にも乳酸を使った料理があるのだな」


 嬉しそうにする雨流を見ていると、どうにも話が止まらない。月花はあれやこれやと話に花を咲かせ、気づけば夕食の時間である。くう、と月花の腹が鳴ったところで、雨流が笑いを漏らした。時計を見れば戌の刻(十九時~二十一時)。もう二刻(四時間)も話し込んでいたようだ。しまった、と言いたげな月花に、「よい」と雨流が穏やかに笑った。穏やかに、そう、穏やかに。

 皇帝は冷徹なのだと噂されていたのだが、どうやらそれは、単なるうわさに過ぎなかったようだ。月花の前では、雨流はよく笑い、よくしゃべる。

めば完成だ。くつくつ煮込んだ野菜がトロトロにとろけて、ココナッツの甘い香りと、青唐辛子のピリッとした強烈な辛味が癖になる一品だ。


「おお、このようにして作られるのか」

「はい。陛下もお召し上がりになりますか?」

「もちろん。そのためにソナタを訪ねたのだからな」


 内官と女官たちは、まるでゲテモノを見るような目でカリーを見ていたが、雨流が大きな口で美味そうにカリーを食すさまを見て、みんなして腹の虫を鳴かせた。月花はふっと噴き出して、


「そうだ、ソナタ、今日の厨房の料理はもう終わる時刻ゆえ、久しぶりに料理でもして息抜きをしてはどうだ?」

「え、いいのですか?」

「よい。そのために香辛料を――」

「え?」

「いや、なんでもない」


 コホンと咳払いして、雨流は席を立った。外では、内官や女官たちが、時を忘れるほどに話し込む皇帝陛下と皇后に、あたたかな笑みを浮かべている。このことが翌日には後宮中に知れ渡って、どうやら月花皇后は皇帝陛下のご寵愛を早くも独占していると噂されることになる。

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