第2話 地獄の日々

 大学の卒業式から数日が経ち、春の暖かな陽気が続いていた。伊藤淳史いとうあつしに似た首田は、大学生活を終えた実感がまだ湧かず、卒業証書を手にした後もその空虚感に包まれていた。しかし、これから始まる新しい生活に少しの期待とともに、一歩を踏み出す決意をしていた。


 彼は、大学で学んだ文学や哲学に対する興味を持ちながらも、就職先として選んだのは、西浦和にある地元の印刷屋だった。家族の勧めもあり、安定した職場を選ぶことにしたのだが、心の中では少し物足りなさを感じていた。クリエイティブな仕事をしたいという気持ちもあったが、現実はその選択肢が限られていると感じていた。


 首田はその日、入社初日を迎えた。緊張しながら西浦和駅から歩いて数分の場所にある印刷屋の工場に到着した。建物は古びていて、どこか懐かしさを感じさせる外観だ。彼が玄関のドアを開けると、印刷機の音や、機械の金属音が響く工場内の空気に包まれた。


「おお、君が新しい子か?」

『男の勲章』で有名な嶋大輔しまだいすけに似た一人の中年男性が笑顔で声をかけてきた。


 首田はびっくりして顔を上げ、その男性に軽く頭を下げた。「はい、首田と申します。今日からお世話になります」


「私は村田だ。君の上司になる。まあ、よろしく頼むよ」村田はその言葉に少しだけ威圧感を込めて、首田をじっと見つめた。


 首田は、その視線に圧迫感を感じながらも、精一杯の笑顔で答えた。「よろしくお願いします」


 村田は少し鼻で笑うと、すぐに仕事に戻った。首田はそのまま言われた通りに、机に向かって座り、最初の仕事を始めた。何かといえば、数枚の印刷物のチェックや整理をする作業だ。仕事自体は難しくなかったが、工場内での緊張感がずっと付きまとっていた。


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 数週間後、首田の仕事環境


 最初の数週間は、特に問題もなく過ぎていった。しかし、次第に首田は工場内で起こる小さな違和感に気づき始めた。村田が毎日のように彼に新しい指示を出し、何度も繰り返しチェックさせることが多くなった。最初は、仕事の流れを覚えるためだと思っていたが、どうもその頻度と厳しさが異常に感じられた。


「首田、お前、またこのページの色合いが違うじゃないか。どういうことだ?」村田の声がいつもより冷たく響く。


 首田は息を呑み、すぐにそのページを見直す。「申し訳ありません、再度確認してみます」


「再確認? もう一度やり直しだろ! ちゃんと見ろ、こんなミスを許すわけにはいかない!」

 村田が声を荒げる。


 首田は言い訳をすることなく、ただ黙って仕事に集中しようとする。しかし、村田の苛立ちに圧倒されるような感覚が続き、次第に首田の精神は疲弊していった。


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 パワハラの始まり


 時間が経つにつれて、村田の態度はますます厳しくなった。首田が一度ミスをすると、村田はすぐにそのことを全員の前で指摘し、叱責する。ある日、首田が間違えて印刷の順番を変更してしまったとき、村田は工場内の他のスタッフを呼び集め、彼に厳しく詰め寄った。


「見ろ、これが仕事だとでも思っているのか? こんなミスでお前の評価は一気に下がるぞ。みんなもお前ができないことを見ているんだぞ、わかっているのか?」


 周りのスタッフたちは黙って首田を見ているだけだった。誰も助けることなく、首田は村田の怒鳴り声を耐えるしかなかった。


 その後も、村田は小さなミスをことごとく大げさに取り上げ、首田に無理な仕事を押し付け続けた。毎日のように長時間働かされ、休憩時間さえもろくに取れない日が続いた。


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 心の変化


 首田はそのうち、仕事に対する意欲を失い始めた。村田のパワハラは、精神的に大きな負担となり、夜も寝つけなくなった。毎日工場に行くことが恐怖で、どんな小さなミスにもビクビクしてしまう自分がいた。


 ある晩、家で一人で食事をしながら、首田は自分がどうしてこんな状況に陥っているのか考えた。大学では自由に考え、議論し合い、学問の世界に身を置いていたはずなのに、今では工場の機械のように、ただ命令に従うだけの自分がいる。


「こんなはずじゃなかった…」


 その思いが胸の中で膨らみ、どこかで自分を押し殺しているような感覚に襲われた。


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 村田との決別


 ある日、耐えきれなくなった首田はついに村田に立ち向かう決意を固めた。


「村田さん、もう限界です。この仕事を続けるのは無理です」首田は静かな声で言った。


 村田は不快そうに首田を見つめた。「何を言っているんだ、お前は。まだ新人のくせに」


 首田は深く息を吸い込み、自分の意志を強く持った。「僕はこのままでいいと思っていません。もっと自分の道を進みたいんです」


 村田はしばらく黙っていたが、やがて冷笑を浮かべた。「そうか、お前がそんなふうに逃げるんだな。わかった、さっさと辞めろ」


 その瞬間、首田は心の中で何かが解放されたような気がした。彼は深呼吸をし、工場を去る決断をした。そして、村田の顔を二度と見ることなく、印刷屋を後にした。


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 その後、首田は新しい道を歩み始めた。失敗や挫折を経験しながらも、彼は自分の人生を取り戻すために歩み続けた。西浦和の印刷屋での経験は、彼にとって辛いものではあったが、それを乗り越える力を与えてくれた。


 どこか遠くで、村田がまだ同じ場所で怒鳴り続けているのを知っていても、首田はもうその場には戻ることはなかった。


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 首田が精神的に追い詰められた日々は、次第に耐えきれなくなり、ある晩、ついに限界が来た。村田のパワハラ、長時間の労働、そして絶え間ないプレッシャー。家に帰っても休まることなく、眠れぬ夜が続く中、首田は自分がどんどんと精神的に崩れていくのを感じていた。


 ある日、仕事の後にふとした瞬間に、足元がふらつき、目の前が暗くなった。そのまま倒れこみ、意識が遠のいていくのを感じた。


 目を覚ましたとき、首田は病院のベッドに横たわっていた。周りには白い壁、静かな空気、そして担当の医師が立っていた。ケンドーコバヤシに似ている。どうやら、過労と精神的な疲弊が原因で、倒れたらしい。


「あなた、かなり無理をしていたようですね」

 医師が穏やかな口調で言った。


 首田は黙って頷いた。何もかもが無意味に思え、ただ、無理をしていた自分が情けなかった。医師は続けて言った。


「今は休むことが最も大切です。入院して、しばらく安静にして治療を受ける必要があります」


 首田は何も言えなかった。自分を取り巻く世界があまりにも重すぎて、言葉を発することができなかった。ただ、次第に気づくのは、この病院で、ようやく少しだけ自分の心が落ち着いているということだけだった。


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 退院後、首田はしばらく自宅で療養を続けていたが、心の中で空虚感と無力感を感じ続けていた。そんなある日、何気なくテレビのチャンネルを変えていると、偶然に尾崎豊の特集が放送されていた。


 音楽が流れ、映像が切り替わるたびに、尾崎豊の顔とその歌声が画面に映し出される。彼の歌は、心の中で感じていた孤独や絶望感と奇妙に共鳴した。特に『15の夜』を聴いた瞬間、首田は涙がこみ上げてくるのを感じた。


 尾崎の歌詞は、まるで自分の心情そのものであり、彼の歌声が首田の心に深く染み込んでいった。音楽を通じて、首田は初めて自分と向き合い、言葉にできない感情を共有するような感覚を覚えた。


 それからというもの、尾崎豊のアルバムを聴き続けた。『銃声の証明』『17歳の地図』彼の歌は、首田の心を少しずつ解放し、閉ざされた感情の扉を開くきっかけとなった。


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 療養中、首田はふとしたことから『北斗の拳』に出会った。ある日の午後、ネットサーフィンをしていると、掲示板で「北斗の拳は心の支えになる」といった書き込みを目にした。それを見た瞬間、興味を引かれ、首田は自分のスマホで『北斗の拳』を検索し、そのストーリーを知ることになった。


『北斗の拳』とは、荒廃した未来世界を舞台に、主人公・ケンシロウが『北斗神拳』の使い手として悪党たちと戦う物語だった。そのストーリーの中で、ケンシロウが抱える孤独や痛み、そして弱者を守るために戦う姿勢に、首田は心を打たれた。


 特に「お前はもう死んでいる」というケンシロウの決め台詞には、彼の強さと、彼が守るべきものへの思いが込められているのが感じられた。ケンシロウは、物理的な力だけでなく、内面的な強さ、そして不屈の精神を象徴しているように思えた。


 首田は、「ケンシロウのように、強くなりたい」と願った。現実世界では自分が弱すぎて何もできないと思っていたが、『北斗の拳』の登場人物たちが抱える痛みや苦しみを知り、自分もまた、何かを守るために強くなれるのではないかという希望が少しずつ芽生えた。


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 尾崎豊の音楽を聴き、北斗の拳の物語に触れたことで、首田の心は少しずつ変わり始めた。以前のようにただ流されるだけの生活ではなく、自分がどう生きるべきかを真剣に考えるようになった。


 退院から数ヶ月後、首田は再び仕事を探し始めた。しかし、前のようにただ「安定」を求めて仕事をすることはなかった。彼は、自分の気持ちに素直に、そして強く生きるために、何か自分の道を切り開かなければならないと感じていた。


 尾崎豊の歌声や、北斗の拳の物語に励まされながら、首田はゆっくりと新たな一歩を踏み出した。






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