第9話 池田家の家老

 池田利隆いけだとしたかは家老職の伊織の元を訪ねた。


 姫路城内である。


「じい、は怖いのじゃ」


「若、どうされたのですか」


「昨日、小坂部が参った」


「なんと、もう参って来たと」


「余も父上の様に食い殺されるのであろうか」


「そのようなことは……」


恭順きょうじゅんにして居れば、契約は継続けいぞくするというて居った」


「なんと図々しい」


 伊織は腹が立ってきた。


 その契約を知って居るのは、一部の人間だけである。


 いわゆる最高幹部のみなのである。


 こんな話しが世間に漏れでもすれば、この池田家の名はすたるであろう。


 妖怪に脅されて、領地の民や下級の藩士を食い殺す事を知っていて黙認もくにんしているのだ。


「じい、余はどうすれば良いのじゃ」


「はぁ……その……」


「父上やじいの申す通りに対応したが、あれが毎夜訪ねて来るかと考えると…余は恐ろしゅうて、恐ろしゅうて、頭がどうにかなってしまいそうなのじゃ」


「しかし、若」


「あのように恐ろしい思いを毎日せねばならぬというなら、余は家督かとくなど継ぎとうない」


「何を申されるのか、まだ殿の葬儀そうぎも終わって居ないのですぞ」


「嫌じゃ、嫌じゃ、それに余はこれ以上家臣や民が食い殺されるのは、我慢がまんが出来ぬのじゃ」


「わ、若、その様なことを大きな声で。 あれに聴かれでもしたらただ事では済みませぬぞ」


 利隆は慌てて口をつぐんだ。


「それに若、まだ幕府に届を出しても居らぬ内から、もし騒動でも起こそうものなら我が池田家はお取り潰しになりましょうぞ」


 とうとう利隆は下を向いて黙り込んでしまった。


「若、今はお家の為にも辛抱の時で御座いますぞ、殿が殺された今、じいもこのままで良いとは考えて居りませぬゆえ」


「ほ、本当か、じい、何か良い方法があると申すのか」


「はい、このじいに少し思案して居ることが御座いますゆえ、今は殿の葬儀を無事に済ませることの方が大事で御座いますぞ」


「わかった、じい、余は辛抱する」


「はい、後のことはこのじいに任せておいてくだされ」


 利隆が少し安心して退散たいさんするのを見送った後、伊織は腕を組み思案した。


 片桐伊織かたぎりいおり、我が片桐家は先々代の恒興つねおきの代より代々家老職かろうしょくおおせつかって居る。


 この先も池田藩の家老職は約束されて居る。


 片桐家は誇りある家柄なのだ。


 それを自分の代で終わらせる訳には、絶対にいけない。


 池田の家がお取り潰しに成ろうものなら、我が片桐家も路頭に迷ってしまうのだ。


 そんな事になれば、ご先祖様に申し訳ない。


 しかし利隆のあの様子では長くは持つまい。


 前主である輝政のように割り切った考えの持ち主ならば、このような心配などせずに済んだのに…


 始めからこのようでは先が思いやられる。


 良い案などあるはずもないのだが、ああでも言っておかねば、いつまでも解放してくれないだろう。


 今は輝政の葬儀の手配でそれどころではないのだ。


 この片桐伊織、小坂部姫なるもののけの事は全て承知して居る。


 初めて輝政に打ち明けられた時は、天地がひっくり返る程にびっくり仰天したものだ。


 その驚きは、もしや輝政の気が狂うたのではないかと言う懸念に変わった。


 だがそれは本当であった。


 二、三度この眼で実際に目撃するまでは、その様な物がこの世に本当に存在するものなのかと、疑って居たのだ。


 契約の話しも輝政から聴いて居る。


 始めは、そのような大事な事を勝手に決めた輝政には正直腹を立てたものだ。


 しかしよくよく考えてみると、それは黙認する以外には方法が無いのである。


 それに黙認さえしていれば、この姫路の城は守られる事になり、この先の池田家も安泰と言うもの。


 さすれば我が片桐家も安泰と言うことに成るのだ。


 そんな事よりも、今は利隆が家督を相続出来るかどうかが何よりも大事なのだ。


 その為に榊原康政さかきばらやすまさの娘を徳川秀忠とくがわひでただの養女として、それを利隆の正室に迎えると言う離れ技を遣ってのけたのは、この片桐伊織による下拵えの苦労があってこそなのだと今でも自負している。


 その際に、将軍家から松平まつだいらの性まで頂くと言う大きなお土産まで付いて来たのだ。


 このまま当たり前に行けば、利隆の家督相続は安房なのだが…


 最近の徳川幕府の行動と言えば、何かに付けては難癖を付けて、諸大名達をお取り潰しにして来て居るのだ。


 輝政の死は病死と言うことにして、徳川幕府には今朝、届けの使者を送ったばかりだ。


 付き合いのある大名たちにも輝政の死を知らせないとならない。


 輝政程に名のある大名だ、その葬儀は盛大な物にしなければ他家に恰好がつかないだろう。


 その日取りさえまだ決まって居ないのだ。


 伊織が考えなければならない事は、それこそ山住みなのだ。


 それなのに、利隆の小心には困ったものである。


 小心の癖に、一人前に正義感を持ち合わせて居る…


 とりあえず葬儀が終わるまでは、利隆の方をごまかす事は出来るであろう。


 しかしあの妖怪、どうにか出来のであろうか。


 先程利隆に伝えたことは口から出たでまかせで、本当は良い案など何もないのだ。


 我が藩に居る手練れの剣士共を集めて退治させてみてはどうか。


 しかし、もしそれが失敗に終ればいったいどのような目に遭わされるのだろうか。


 それに今の池田家にはそれ程の剣士は居らぬのだ。


 比叡山ひえいざん高僧こうそうにあってもあの有様であったではないか。


 伊織は一部始終、息を潜め隣の部屋から盗み観ていたのだ。


 一撃の蹴りで阿闍梨あじゃりはこと切れた。


 その後、輝政は食い殺されたのだ。


 多少の手練れでは、とても敵うまい。


 機会は一度しかないのだ、失敗すれば池田家は終わりであろう。


 報復に移った時のもののけ想像してみる。


 伊織は思わず身震いしてしまった。


 きっと、我が身もただでは済むまい。


 退治を試みるのであれば、天下に名のあるような剣術家で無ければ、とてもではないが敵うまい。


 伊織は心に思う剣の使い手を、指折り数えてみた。


 まずは柳生宗矩、これの無刀取りなる技は天下無二と聞く、しかし宗矩は将軍家に近すぎる。


 この騒動を、将軍家に知られるのは不味いのだ。


 あくまでも隠密裏に事を進めなければならないのだ。


 それを考えると、次に思い浮かぶ小野次郎衛門も同様だ。


 宗矩と共に将軍家兵法指南役なのだ。


 伊東一刀斎いとういっとうさいなどは生きて居るかも定かでは無い。


 宮本武蔵、丸目蔵人まるめくらんど、柳生兵庫助。


 これらは武者修行として放浪の旅をして居ると聴く、何処に居るやら消息が分からない。


 それにやはり柳生は駄目じゃ。


 丸目蔵人など、ツテがない。


 う〜ん、どうしたものか、剣の使い手の線はやはり無理なのか。


 伊織はふと思いついた、佐々木小次郎はどうであろうか。


 伊織はなかなかに剣術通なのだが、まだこの時、巌流島での決闘を知らない。


 細川家の家老職である、長岡殿ながおかどのとは昵懇じっこんの仲である。


 ここのところ政務が忙しく、しばらく文のやり取りはしておらぬが、儂が頼めば隠密裏おんみつりに事を運んでくれるだろう。


 佐々木小次郎は細川家小倉藩ほそかわけこくらはんの剣術指南である。


 これは良い考えである。


 佐々木小次郎であるならば、きっとあの妖怪を討ち果たしてくれようぞ。


 小次郎の燕返つばめがえしなる技は日の本一と聞く。


 良き考えじゃ、良き考えじゃ、伊織は自分の考えに有頂天になった。


 しかし……


 いくら昵懇の仲とはいえ、他家の揉め事の為に、細川家にとって大事な剣術指南役を貸してくれるであろうか。


 他藩の騒動に他藩から藩士を使わせてもろうたなど、そんな話しは聴いたことがない。


 そもそも、この様な奇怪な話し、信じてもらえるだろうか。


 ついさっきまで有頂天であった伊織であったが、今度は落胆してしまった。


 文だけでは駄目であろう、でも実際に遭うて、膝を突き合わせ話しをしてみればどうであろうか。


 長岡殿とて儂の話しを信じるであろうし、力を貸してくれるはずじゃ。


 その為には儂の方から小倉へ足を運ばねばならぬだろうのう。


 しかし葬儀が終わらないと伊織の身体は開かないのである。


 ん、葬儀!


 そうじゃ、葬儀じゃ、輝政の葬儀の折に細川家の名代として長岡殿に来てもらえば良いではないか。


 この時期に小倉より細川様が姫路までわざわざ足を運ばれるはずもない、必ず名代をおたてになるはずじゃ。


 そして長岡殿はそれに相応しい家老の身。


 今度こそ自分の考えに合点がいって、伊織はまた有頂天になった。


 そうと決まれば早速長岡殿に文を書こう。


 折入って相談したき義があるゆえ、輝政の葬儀のおりには、名代として来られる様に取り計らって欲しいと伝える事にする。


 長岡殿ならきっと上手く事を運んでくれるはずじゃ。


 行ける、この策で必ず行ける筈じゃ。


 伊織はまだ見ぬ佐々木小次郎に思いを寄せた。


「これで小坂部も終いじゃ」


 伊織は思わず口ずさんでしまい、慌てて口を噤んだ。


 辺りは静まり返って居た。

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