入鹿転生記　~天明4年にタイムリープした俺は江戸幕府のフィクサーになる~　意知遭難篇

@oshizu0609

　5月12日、この日は弓削（ゆげ）入鹿（いるか）にとっては母方（ははかた）の祖父（そふ）の命日（めいにち）に当（あ）たる。

　墓所（ぼしょ）は東京（とうきょう）メトロ日比谷線（ひびやせん）東銀座駅（ひがしぎんざえき）から徒歩（とほ）5分程（ふんほど）の距離（きょり）にある中央区（ちゅうおうく）は築地（つきじ）の寺（てら）にあり、そこに入鹿（いるか）の母方（ははかた）の祖父（そふ）、豊田（とよだ）茂（しげる）が眠（ねむ）っていた。

　母（はは）の旧姓（きゅうせい）が豊田（とよだ）で、豊田家（とよだけ）累代（るいだい）の墓（はか）がそこにはあった。

　ちなみにその豊田家（とよだけ）だが、血筋（ちすじ）を辿（たど）ると何でもさる大名家（だいみょうけ）に仕（つか）えていた家臣（かしん）につながる家柄（いえがら）とのことで、入鹿（いるか）は母（はは）から自慢（じまん）気（げ）にそう語（かた）られることが屡（しばしば）であった。

　入鹿（いるか）はその祖父（そふ）―、母（はは）の実父（じっぷ）の命日（めいにち）には墓参（ぼさん）を欠（か）かさなかった。

　否（いや）、命日（めいにち）だけではない。月命日（つきめいにち）もそうであった。

　それは入鹿（いるか）がそれだけ信仰心（しんこうしん）に富（と）んでいたから、では間違（まちが）ってもない。

　入鹿（いるか）が母方（ははかた）の先祖（せんぞ）の墓参（ぼさん）を欠（か）かさないのは偏（ひとえ）にお気楽（きらく）なニート生活（せいかつ）をエンジョイする為（ため）であった。

　入鹿（いるか）は大学（だいがく）、それも所謂（いわゆる）、「Fラン」とも称（しょう）される三流（さんりゅう）私大（しだい）を7年もかけて卒業（そつぎょう）してこのかた、ニート生活（せいかつ）に突入（とつにゅう）していた。

　それに対（たい）して両親（りょうしん）はと言うと、無論（むろん）、「働（はたら）け」、「働（はたら）け」の大合唱（だいがっしょう）であった。

　とりわけ専業（せんぎょう）主婦（しゅふ）、つまりは入鹿（いるか）と同（おな）じく一日中（いちにちじゅう）、家（いえ）にいる母（はは）が圧力（あつりょく）をかけてくる。

　だがそんな母（はは）も自分（じぶん）の先祖（せんぞ）の墓参（ぼさん）ともなると話（はなし）は別（べつ）らしく、この時（とき）ばかりは出来損（できそこ）ないの倅（せがれ）に圧力（あつりょく）をかけることもなく、それどころか小遣（こづかい）銭（せん）まで弾（はず）んでくれて、気持（きも）ち良（よ）く送出（おくりだ）してくれるのだ。

　それ故（ゆえ）、入鹿（いるか）は命日（めいにち）は元（もと）より月命日（つきめいにち）の墓参（ぼさん）も欠（か）かさず、その外（ほか）にも折（おり）を見（み）ては墓参（ぼさん）を欠（か）かさずで、最近（さいきん）では一月（ひとつき）の内（うち）、4分の1近（ちか）く、つまりは毎週（まいしゅう）、墓参（ぼさん）に充（あ）てていた。

　その甲斐（かい）あってか母（はは）からの「働（はたら）け」圧力（あつりょく）も最近（さいきん）では随分（ずいぶん）と薄（うす）らいだ。

　さて入鹿（いるか）は母（はは）からいつもの様（よう）に交通費（こうつうひ）に花代（はなだい）、〆（しめ）て5000円をせしめると、鬱陶（うっとう）しいマスクをつけて家を出た。

　東銀座駅（ひがしぎんざえき）のすぐ傍（そば）にある花屋（はなや）で墓参（はかまい）り用（よう）の花（はな）を1対、1650円で購入（こうにゅう）した。内訳（うちわけ）は本体（ほんだい）価格1500円に消費税（しょうひぜい）が150円、〆（しめ）て1650円である。

　花（はな）には軽減税率（けいげんぜいりつ）が適用（てきよう）されず10%の消費税（しょうひぜい）が適用（てきよう）される。ザイム真理教（しんりきょう）の御布施（おふせ）のシステムには入鹿（いるか）は毎度（まいど）、イライラさせられた。

　ちなみに2200円の花（はな）もあったが、|少しでもお釣（つ）りをせしめたい入鹿（いるか）としては花代（はなだい）はなるべく低（ひく）く抑（おさ）えたかったのであえて1650円の花（はな）を選（えら）んだ。

　墓参（はかまい）り用（よう）の花代（はなだい）をケチるとは罰当（ばちあ）たりの誹（そし）りは到底（とうてい）、免（まぬが）れ得（え）ないだろうが、入鹿（いるか）としては金（かね）の方（ほう）に目（め）が眩（くら）んだ。

　なぜ金（かね）が必要（ひつよう）かというと古本屋（ふるほんや）で好（す）きな本（ほん）を買（か）う為（ため）であった。それなら働（はたら）いて稼（かせ）げば良（い）いだけの話（はなし）であろうが、ニートの入鹿（いるか）にそれは望（のぞ）むべくもない。喩（たと）えるならば、八百屋（やおや）で魚（さかな）をくれというに等（ひと）しい。

　さて入鹿（いるか）はレシートを受取（うけと）るのを忘（わす）れなかった。墓参（ぼさん）の証拠（しょうこ）の一（ひと）つであるからだ。

　証拠（しょうこ）と言えばもう一（ひと）つ、写真（しゃしん）を撮（と）るのも忘（わす）れてはならない。墓（はか）を清（きよ）めて花（はな）を供（そな）えると、それを写真（しゃしん）におさめるのだ。

　といって入鹿（いるか）が持（も）っているのは今（いま）はすっかり通話不能（つうわふのう）のガラケーであった。

　いい加減（かげん）、スマホを持（も）てと、これまた母（はは）からの圧力（あつりょく）があったが、しかし入鹿（いるか）はスマホを持（も）つ必要性（ひつようせい）をどこにも見出（みいだ）せず、「働（はたら）け」圧力（あつりょく）と共（とも）に、その圧力（あつりょく）も柳（やなぎ）に風（かぜ）と受流（うけなが）し、相変（あいか）わらずガラケーを持（も）ち続（つづ）けていた。

　通話（つうわ）こそ不可能（ふかのう）だが、それでも充電（じゅうでん）さえ欠（か）かさなければ撮影（さつえい）や録画（ろくが）、録音（ろくおん）機能（きのう）も生（い）きていたからだ。

　墓参（ぼさん）の証拠（しょうこ）写真（しゃしん）をおさめるにはそれ故（ゆえ）、ガラケーでも十分（じゅうぶん）であった。

　さて、花（はな）を両手（りょうて）で抱（かか）えて信号（しんごう）待（ま）ちをしていた入鹿（いるか）はやがて信号（しんごう）が青（あお）へと変（か）わったので、横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）り始（はじ）めた。

　その際（さい）、いつもは必（かなら）ずと言って良（よ）い程（ほど）に左右（さゆう）を確認（かくにん）してから横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）る入鹿（いるか）であったが、今日（きょう）に限（かぎ）ってそれを省略（しょうりゃく）したのは入鹿（いるか）にとってはさしずめ一生（いっしょう）の不覚（ふかく）といったところか。

　油断（ゆだん）、とそう言換（いいか）えても良（よ）いかも知（し）れない。

　これまでもずっと左右（さゆう）を確認（かくにん）してから横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）り続（つづ）けて来（き）た入鹿（いるか）であったが、その度（たび）に今日（きょう）もまた自分（じぶん）の行動（こうどう）が無駄（むだ）であったと、そう思（おも）い知（し）らされる結果（けっか）に終（お）わること度々（たびたび）であった。

　だから今日（きょう）もまたきっとそうに違（ちが）いない、ならもう信号（しんごう）が青（あお）に変（か）わったことだし、横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）り始（はじ）めたところで、俺（おれ）の元（もと）に突（つ）っ込（こ）んでくる様（よう）な不埒（ふらち）な運転手（ドライバー）などいないだろうぜ…、入鹿（いるか）はそんな何（なん）の根拠（こんきょ）もない確信（かくしん）を抱（だ）いて、いつもの殊勝（しゅしょう）な習慣（しゅうかん）を省略（しょうりゃく）して横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）り始（はじ）めたのであった。

　だがそれがどうやら失敗（しっぱい）だったと、入鹿（いるか）がそう気付（きづ）かされるのにそれ程（ほど）の時間（じかん）は要（よう）さなかった。

　それは入鹿（いるか）が横断（おうだん）歩道（ほどう）を真（ま）ん中（なか）まで渡（わた）り終（お）えた時（とき）であった。

　最近（さいきん）の自動車（じどうしゃ）というのはどうしてこうも音（おと）がしないものなのか、入鹿（いるか）はバンパーに腰（こし）を叩（たた）きつけられるまで自分（じぶん）の身（み）に危険（きけん）が迫（せま）っていることなど露（つゆ）ほども気付（きづ）かずに、のほほんと横断（おうだん）歩道（ほどう）を渡（わた）っていた。そして自動車（じどうしゃ）が目前（もくぜん）まで迫（せま）ってきたところで入鹿（いるか）は漸（ようや）く、

(ぶつかる)

　そう気付（きづ）いた時（とき）にはしかし、もう遅（おそ）かった。

　やはり僅（わず）かばかりの金（かね）をケチるとロクなことはない、入鹿（いるか）は今（いま）となっては遅（おそ）過（す）ぎる反省（はんせい）をしつつ、まるで映画（えいが）のワンシーンの様（よう）に花束（はなたば）が宙（ちゅう）に舞（ま）い散（ち）る光景（こうけい）を目（め）にしたのを最後（さいご）に意識（いしき）を失（うしな）った。

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　天明4(1784)年3月24日、この日（ひ）は本丸（ほんまる）若年寄（わかどしより）、田沼（たぬま）山城守（やましろのかみ）意知（おきとも）にとっては主君（しゅくん）・徳川家基（とくがわいえもと）の命日（めいにち）に当（あ）たる。

　否（いや）、正確（せいかく）には意知（おきとも）の主君（しゅくん）は十代将軍（しょうぐん）・徳川家治（とくがわいえはる）ただ一人（いちにん）である。

　だが意知（おきとも）の心（こころ）の中（なか）では未（いま）だ、夭逝（ようせい）した次期（じき）将軍（しょうぐん）・徳川家基（とくがわいえもと）こそが主君（しゅくん）であり続（つづ）けた。

　今日（きょう）はその徳川家基（とくがわいえもと）の月命日（つきめいにち）に当（あ）たり、出来（でき）れば意知（おきとも）が家基（いえもと）が眠（ねむ）る東叡山（とうえいさん）は孝恭院殿（こうきょういんでん）霊廟（れいびょう）へと代参（だいさん）―、将軍（しょうぐん）に代（か）わって詣（もう）でたかったが、今日（きょう）は相役（あいやく）、同僚（どうりょう）の若年寄（わかどしより）である米倉（よねくら）丹後守（たんごのかみ）昌晴（まさはる）が代参（だいさん）の当番（とうばん）であった。

　それ故（ゆえ）、来月（らいげつ）の月命日（つきめいにち）には何（なん）としてでも意知（おきとも）が代参（だいさん）したいところであった。

　その米倉昌晴（よねくらまさはる）も昼（ひる）―、昼九つ(正午頃)を四半（しはん）刻（とき）(約30分)も過（す）ぎた今時分（いまじぶん）には既（すで）に代参（だいさん）を終（お）えており、ここ、若年寄（わかどしより）の執務室（しつむしつ）である次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）にその姿（すがた）があった。

　そして昼（ひる）の九つ半(午後1時頃)、即（すなわ）ち、午（うま）の下刻（げこく）を過（す）ぎると意知（おきとも）たち若年寄（わかどしより）は皆（みな）、立上（たちあ）がり、次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）を出（で）た。ロッカールームとも言うべき若年寄（わかどしより）専用（せんよう）の下（しも）部屋（べや）にて昼飯（ひるめし）を食（た）べる為（ため）であった。

　それなら昼休（ひるやす）みの始（はじ）まる昼九つ(正午頃)と同時（どうじ）に若年寄（わかどしより）専用（せんよう）の下（しも）部屋（べや）へと向（む）かえば良（よ）さそうなもの、しかしそれは出来（でき）ない相談（そうだん）というものであった。

　それと言うのも昼九つには老中（ろうじゅう）が表向（おもてむき）の各（かく）部屋（へや）を見廻（みまわ）る「廻（まわ）り」なる行事（イベント）が行（おこな）われるからだ。

　老中（ろうじゅう）と言えば若年寄（わかどしより）の直属（ちょくぞく）の上司（じょうし）の様（よう）な存在（そんざい）で、その老中（ろうじゅう）による「廻（まわ）り」が行（おこな）われている最中（さなか）に、部下（ぶか）の立場（たちば）である若年寄（わかどしより）が昼飯（ひるめし）へと下（しも）部屋（べや）に足（あし）を運（はこ）ぶのは憚（はばか）られる。何（なに）しろ老中（ろうじゅう）はこの「廻（まわ）り」を終（お）えてから昼飯（ひるめし）になるからだ。上司（じょうし）がまだ昼飯（ひるめし）にありつけない前（まえ）から部下（ぶか）が昼飯（ひるめし）をとるわけにはゆかない。

　斯（か）かる次第（しだい）で若年寄（わかどしより）は老中（ろうじゅう）が「廻（まわ）り」を終（お）えてその執務室（しつむしつ）である上（うえ）御（ご）用（よう）部屋（べや）へと戻（もど）って来（く）るのを待（ま）って昼飯（ひるめし）の為（ため）に席（せき）を立（た）つ。

　若年寄（わかどしより）の執務室（しつむしつ）である次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）と老中（ろうじゅう）のそれである上（うえ）御（ご）用（よう）部屋（べや）は廊下（ろうか）を挟（はさ）んだ真向（まむ）かいにあり、それ故（ゆえ）、「廻（まわ）り」を終（お）えた老中（ろうじゅう）が上（うえ）御（ご）用（よう）部屋（べや）へと戻（もど）って来（く）る様（さま）は若年寄（わかどしより）の執務室（しつむしつ）である次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）から良（よ）く見届（みとど）けられ、それが昼（ひる）の九つ半(午後1時頃)過（す）ぎ、即（すなわ）ち午（うま）の下刻（げこく）であった。つまり老中（ろうじゅう）は「廻（まわ）り」に半刻（はんとき）(約1時間)かける。

　その老中（ろうじゅう）は「廻（まわ）り」を終（お）えたならば上（うえ）御（ご）用（よう）部屋（べや）にて昼飯（ひるめし）となり、一方（いっぽう）、若年寄（わかどしより）は態々（わざわざ）、下（しも）部屋（べや）へと足（あし）を運（はこ）ばねばならないのは偏（ひとえ）に、老中（ろうじゅう）の執務室（しつむしつ）である上（うえ）御（ご）用（よう）部屋（べや）に較（くら）べて若年寄（わかどしより）のそれである次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）はその広（ひろ）さが半分程（はんぶんほど）しかなく、若年寄（わかどしより）には執務（しつむ）をするのに必要（ひつよう）なスペースしか与（あた）えられておらず、とてもゆったりと昼飯（ひるめし）をとれるものではなく、そこで若年寄（わかどしより）は昼飯（ひるめし）の為（ため）に下（しも）部屋（べや）へと足（あし）を運（はこ）ぶことになる。

　老中（ろうじゅう）や、或（ある）いはその外（ほか）の主（おも）だった諸役人（しょやくにん）にしてもそうだが、若年寄（わかどしより）もまた、各自（かくじ）、下（しも）部屋（べや）が与（あた）えられており、そこでならゆったりと昼飯（ひるめし）をとることが出来（でき）る。

　さてその若年寄（わかどしより）だが今（いま）は意知（おきとも）や米倉昌晴（よねくらまさはる）の外（ほか）に酒井（さかい）石見守（いわみのかみ）忠休（ただよし）、太田（おおた）備後守（びんごのかみ）資愛（すけよし）、そして加納（かのう）遠江守（とおとうみのかみ）久堅（ひさかた）がおり、合（あ）わせて5人の若年寄（わかどしより）がいた。

　しかしその内（うち）、加納（かのう）久堅（ひさかた）は高齢（こうれい）ということもあり病気（びょうき）がちで、今月（こんげつ）は月番（つきばん）であるにもかかわらず、今日（きょう）は病欠（びょうけつ）、それ故（ゆえ）、次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）には久堅（ひさかた）を除（のぞ）く4人の若年寄（わかどしより）の姿（すがた）があった。

　こうして意知（おきとも）たち4人の若年寄（わかどしより）が席（せき）を立（た）つと、昼飯（ひるめし）の為（ため）に下（しも）部屋（べや）へと先陣（せんじん）を切（き）ったのは酒井（さかい）忠休（ただよし）であった。これは忠休（ただよし）が若年寄（わかどしより）の中（なか）でも筆頭（ひっとう）であり、財政担当（ざいせいたんとう）の勝手（かって）掛（がかり）をも兼（か）ねていたからだ。

　その忠休（ただよし）に続（つづ）くのが次席（じせき）の太田（おおた）資愛（すけよし）であり、その資愛（すけよし）の後（あと）に米倉昌晴（よねくらまさはる）が続（つづ）き、意知（おきとも）が殿（しんがり）を務（つと）める格好（かっこう）となる。

　天明4(1784)年の今（いま）、意知（おきとも）は若年寄（わかどしより）の中（なか）でも一番（いちばん）の若手（わかて）、さしずめ「ルーキー」であった。何（なに）しろ去年（きょねん）の天明3(1783)年11月に若年寄（わかどしより）に任（にん）じられたばかりで、それ故（ゆえ）、移動（いどう）の際（さい）には「ルーキー」の意知（おきとも）が殿（しんがり）を務（つと）めるのは当然（とうぜん）であった。

　だが今日（きょう）に限（かぎ）って酒井（さかい）忠休（ただよし）は意知（おきとも）に「先陣（せんじん）」を譲（ゆず）ったのだ。

「たまさかには山城殿（やましろどの）が先陣（せんじん）を切（き）られるが良（よ）かろう…」

　忠休（ただよし）は柔和（にゅうわ）な笑（え）みを浮（う）かべて意知（おきとも）にそう勧（すす）めたのであった。

　忠休（ただよし）はいつもは何（なに）かと意知（おきとも）への当（あ）たりが強（つよ）く、それが今（いま）はそれが嘘（うそ）であるかの様（よう）な穏（おだ）やかさで、それが意知（おきとも）には何（なん）とも不気味（ぶきみ）であった。

　しかし意知（おきとも）の立場（たちば）としては「大先輩（だいせんぱい）」たる忠休（ただよし）からの折角（せっかく）の厚意（こうい）とあっては、これを断（ことわ）る訳（わけ）にもゆかず、素直（すなお）に忠休（ただよし）のその厚意（こうい）に従（したが）うことにした。

　こうして今日（きょう）は意知（おきとも）が「先陣（せんじん）」を切（き）って下（しも）部屋（べや）へと向（む）かうことになった。

　次（つぎ）御（ご）用（よう）部屋（べや）から下（しも）部屋（べや）までの道中（どうちゅう）だが、まず時斗之間（とけいのま）から時斗之間（とけいのま）次（つぎ）とも称（しょう）される新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）へと進（すす）む。

　この新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）は老中（ろうじゅう）による「廻（まわ）り」のコース上（じょう）にあり、その際（さい）には同朋頭（どうぼうがしら）と数寄屋（すきや）頭（がしら）の姿（すがた）があったが、若年寄（わかどしより）一行（いっこう）が新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）を通（とお）る今（いま）、同朋（どうぼう）頭（がしら）と数寄屋（すきや）頭（がしら）の姿（すがた）はもうなかった。それは同朋（どうぼう）頭（がしら）と数寄屋（すきや）頭（がしら）は老中（ろうじゅう）の昼飯（ひるめし）の給仕（きゅうじ）を担（にな）わねばならず、若年寄（わかどしより）一行（いっこう）を出迎（でむか）える訳（わけ）にはゆかないからだ。

　こうして意知（おきとも）たち若年寄（わかどしより）一行（いっこう）は今（いま）は無人（むじん）の新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）を進（すす）んだ。

　尤（もっと）も、新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）に接（せっ）する新番所（しんばんしょ）には5人の新番（しんばん）士（し）が詰（つ）めており、若年寄（わかどしより）一行（いっこう）が直（す）ぐ目（め）の前（まえ）の廊下（ろうか）、新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）を通（とお）る段（だん）には平伏（へいふく）こそしなかったものの、それでも深々（ふかぶか）と叩頭（こうとう）してこれを出迎（でむか）えた。

　新番（しんばん）士（し）は武官（ぶかん）であり、殿中（でんちゅう）警備（けいび）を担（にな）うその役目（やくめ）柄（がら）、太刀（たち）を帯（お）びることが許（ゆる）されており、今（いま）はその太刀（たち）を右（みぎ）に置（お）いて若年寄（わかどしより）一行（いっこう）を出迎（でむか）えた。その中（なか）には佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）政言（まさこと）の姿（すがた）があった。佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）もまた、右（みぎ）に太刀（たち）を置（お）いていたが、心（こころ）の中（なか）では左（ひだり）に置（お）いていた。つまりは殺意（さつい）を帯（お）びていた。

　事実（じじつ）、佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）の殺意（さつい）は間（ま）もなく発露（はつろ）されることになる。

　それは若年寄（わかどしより）一行（いっこう）が新番所前（しんばんしょまえ）廊下（ろうか）から中之間（なかのま）、更（さら）に桔梗之間（ききょうのま）へと差掛（さしかかった）時（とき）であった。

　いつもならばここから焼火之間（たきびのま）へと進（すす）むところだが、しかし今日（きょう）、それも今（いま）この瞬間（しゅんかん）、若年寄（わかどしより）一行（いっこう）は桔梗之間（ききょうのま）から焼火之間（たきびのま）へと進（すす）むことは出来（でき）なかった。

　若年寄（わかどしより）一行（いっこう）の「先陣（せんじん）」を務（つと）める意知（おきとも）が中之間（なかのま）から桔梗之間（ききょうのま）へと足（あし）を踏（ふ）み入（い）れたその時（とき）であった。

　佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）は素早（すばや）く太刀（たち）を取（と）ると立上（たちあが）り、それと同時（どうじ）に鞘（さや）を払（はら）うと意知（おきとも）に斬（き）りかかったのだ。

　佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）の突発的行動（とっぱつてきこうどう）に4人の相役（あいやく）―、佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）と共（とも）に新番所（しんばんしょ）にて控（ひか）えていた同僚（どうりょう）である4人の新番（しんばん）士（し）はただ呆気（あっけ）に取（と）られるばかりで取押（とりお）さえようともしなかった。

　それは意知（おきとも）の「仲間（なかま）」とも言うべき酒井（さかい）忠休（ただよし）たちにしても同様（どうよう）であり、あまつさえ忠休（ただよし）たちは直（す）ぐ目（め）の前（まえ）にて意知（おきとも）が佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）に襲（おそ）われるのを目（ま）の当（あ）たりにしながら、これを見殺（みごろ）しにする格好（かっこう）でその場（ば）から逃出（にげだ）したのだ。

　酒井（さかい）忠休（ただよし）と太田（おおた）資愛（すけよし）、そして米倉昌晴（よねくらまさはる）の3人の若年寄（わかどしより）は桔梗之間（ききょうのま）にて佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）に襲（おそ）われる意知（おきとも）を置去（おきざ）りにして中之間（なかのま）より奥右筆（おくゆうひつ）部屋（べや）へと逃込（にげこ）んだのだ。それは正（まさ）しく、

「脱兎（だっと）の如（ごと）く」

　そのものであり、武士（ぶし）にあるまじき柔弱（にゅうじゃく）さであった。

　否（いや）、桔梗之間（ききょうのま）にはまだ目附（めつけ）がおり、それも4人もいた。

　その中（なか）の1人、安藤（あんどう）郷右衛門（ごうえもん）惟要（これとし）だけは意知（おきとも）を助（たす）けようとしたのだが、しかしそれを何（なん）と2人の目附（めつけ）、即（すなわ）ち井上（いのうえ）圖書頭（ずしょのかみ）正在（まさあり）と末吉（すえよし）善左衛門（ぜんざえもん）利隆（としたか）が意知（おきとも）を助（たす）けようとする安藤（あんどう）郷右衛門（ごうえもん）を羽交締（はがいじ）めにしてこれを妨（さまた）げたのだ。ちなみに今一人（いまひとり）、目附（めつけ）の柳生（やぎゅう）主膳正（しゅぜんのかみ）久通（ひさみち）は井上正在（いのうえまさあり）や末吉（すえよし）善左衛門（ぜんざえもん）の様（よう）に、安藤（あんどう）郷右衛門（ごうえもん）を妨（さまた）げることはしなかったものの、さりとて積極的（せっきょくてき）に意知（おきとも）を助（たす）けようともせず、つまりは外（ほか）の4人の新番（しんばん）士（し）と同（おな）じくただ呆気（あっけ）に取（と）られるばかりであった。

　この間（かん）、意知（おきとも）は左肩（ひだりかた）を斬（き）られつつも、鞘（さや）で応戦（おうせん）した。意知（おきとも）もまた佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）と同（おな）じく鞘（さや）を払（はら）って応戦（おうせん）すればその瞬間（しゅんかん）、

「喧嘩（けんか）」

　そう認定（にんてい）されるからだ。殿中（でんちゅう）での喧嘩（けんか）は両成敗（りょうせいばい）が大原則（だいげんそく）、これを避（さ）けるには鞘（さや）にて応戦（おうせん）するより外（ほか）になく、意知（おきとも）は左肩（ひだりかた）から出血（しゅっけつ）させつつ、何（なん）とか鞘（さや）にて応戦（おうせん）、佐野（さの）善左衛門（ぜんざえもん）の攻撃（こうげき）をかわしつつ、桔梗之間（ききょうのま）より中之間（なかのま）へと後退（こうたい）した。

　その時（とき）、中之間（なかのま）には大目付（おおめつけ）の松平（まつだいら）對馬守（つしまのかみ）忠郷（たださと）と久松（ひさまつ）筑前守（ちくぜんのかみ）定愷（さだたか）、牧野（まきの）大隅守（おおすみのかみ）成賢（しげかた）を筆頭（ひっとう）に南（みなみ）町奉行（まちぶぎょう）の山村（やまむら）信濃守（しなののかみ）良旺（たかあきら）や公事（くじ）方（がた）勘定（かんじょう）奉行（ぶぎょう）の桑原（くわばら）伊豫守（いよのかみ）盛員（もりかず）や同（おな）じく公事（くじ）方（がた）勘定（かんじょう）奉行（ぶぎょう）の久世（くぜ）丹後守（たんごのかみ）廣民（ひろたみ）、以下（いか）、作事（さくじ）奉行（ぶぎょう）や普請（ふしん）奉行（ぶぎょう）らがいたにもかかわらず、やはり誰（だれ）も意知（おきとも）を助（たす）け様（よう）とはしなかった。

　それどころか大目付（おおめつけ）の松平（まつだいら）忠郷（たださと）と目附（めつけ）の松平（まつだいら）田宮（たみや）恒隆（つねたか）は外（ほか）の者（もの）に意知（おきとも）を助（たす）けさせまいと、まるで事件現場（じけんげんば）における規制（きせい）線（せん）の如（ごと）く両手（りょうて）を広（ひろ）げて外（ほか）の、大目付（おおめつけ）や町奉行（まちぶぎょう）、勘定（かんじょう）奉行（ぶぎょう）の前（まえ）に立塞（たちふさ）がったのだ。