第4話 天下布武への布石

 明くる朝、手下どもが戻ってきて、賑やかな朝飯を済ませると、俺は柴田勝家の屋敷へ向かった。


 配下の者を雇い入れた事情を話し、美月たちのために清洲の空き屋敷を一軒手配してもらったのだ。


「野盗どもを仲間に引き入れるとは、おぬしも変わり者じゃな」


「更生させてまっとうな道を歩ませれば、それだけ治安が良くなりますから」


「おぬしは武士よりも僧侶になるべきだったのではないか」


「お館様のための軍師です」


「そうであったな。わっはっは」


 そして、やつれた表情の秀吉と合流して、柴田勝家と共に城へ上がった。


 忍びの心結が侍女姿で城内に待ち構えていた。


「お市様に帰還をご報告いたしました。大変喜んでおられました」


「そうですか。それは何よりです」


「遠州屋の塩は昨日のうちにすでに岡崎へ向かって発送されました」


「ありがとうございます」


 必要な連絡事項を済ませてもまだ何か言いたそうな表情をしている。


「何かありましたか?」


「昨夜、もしあの女盗賊を抱いていたら、おまえの下半身は今頃ばらばらになっていたであろうな」


 なんだよ、いたのかよ。


「姫様を裏切るようなことがあれば私は躊躇しない」


「分かっています」


 すると、秀吉が俺を呼びだした。


「おい、おぬし、早くせい。お館様のお成りだ」


「はい、ただいま」


 侍女姿の心結はもう姿を消していた。


 家臣たちの居並ぶ大広間で俺と秀吉は二人、信長の前に進み出た。


「その方ども、こたびの戦、まことにご苦労であった」


「ははっ、お褒めにあずかり、この秀吉、まことにありがたき幸せにございます」


「光秀」と、扇子で俺を指す。「その方の話していた築城法が功を奏したそうだな」


「はい」と、俺は堂々と申し上げた。「事前に加工した資材を兵に運搬させ、それをそのまま組み上げる。これを名づけて『一夜城』と申します」


「うむ」と、信長は満足そうにうなずく。「さぞ、敵も驚いたであろうな」


「それでございましたら」と、秀吉が顔を突き出す。「あの武田の慌てよう。お館様にもお目にかけたいほど愉快な光景でございました」


「サルに馬鹿にされるとは、武田どもも相当頭にきたであろうな」


 信長に同調して家臣一同が快活に笑い声を上げる。


「このたびの功績により、サル、その方を引き続き城主とする。本日よりさっそく武田の動きを見張れ」


「なんと、このわたくしめが一城のあるじでございまするか」


「寧々殿も亭主が出世して喜ぶであろう」


「あ、いや、しかし、城へは拙者一人でございますか」


「なんじゃ、のろけか。愛しの女房を連れていきたいと申すか」


「いえ、ですが、その……」


「あい、分かった」と、信長が扇子で膝を打つ。「寧々殿も連れていけ。一城の主たる立派な姿を見せてやるが良い」


「ははあっ、ありがたき幸せ」と、言葉とは裏腹に表情は曇っている。


 本当は一人で羽を伸ばしたかったんだろうに。


 お館様の配慮とあれば辞退するわけにもいかないだろう。


「ところで光秀よ」と、信長が俺に話を変えた。「木材の買い占めについてはどうなっておる」


「はっ、そのことでございますが」


 俺は木材相場の高騰と今川への売却益、それを可能にした楽市楽座の成果を数字に基づいて申し上げた。


 経済に疎い家臣たちはあっけにとられた表情で数字の羅列を聞いているだけだったが、信長は一つ一つの数字にうなずきながら俺の報告に耳を傾けていた。


「すると、我が織田家の年収に相当する金額をわずか半年で手に入れたというわけだな」


「はい、常備兵を養うだけの費用をまかなえます」


「ふむ、それを可能にした楽市楽座とは、素晴らしいのう」


「それだけではございません」


 俺は木材相場で稼いだ資金を塩に振り向けていることを報告した。


「ふむ、塩か」と、信長は髭を撫でた。


「はい、塩止めでだぶついた塩をすべて買い付けました」


「して、それを今度はどうするつもりだ」


「はい。武田との交渉に使います」


「ほう」と、信長の目がきらめく。「敵から手に入れた塩で味方を増やそうというのか。利用できる物はなんでも使う。策士よのう」


「今川を懐柔しようとして参りましたが、やはり対決は免れないようでございます」


 俺は新たな構想を述べた。


「今川と対抗するために、武田と手を組みます」


 信長は固く腕組みをしながら脇息に体を預けた。


「たしかに塩止めで仲違いしているとはいえ、武田は今川や北条と縁戚関係にある。その話を受け入れるとは思えぬが」


「そこでお館様に了承していただきたい条件がございます」


「それが敵に塩を送ることなのか」


「それともう一つ」と、俺は心に秘めていた策を開示した。「実は……」


「なんと、そのような」


 さすが織田信長も絶句している。


 戦国の風雲児ですら困惑するような大胆な提案に、家臣団からもどよめきが上がる。


「明智殿、いくらなんでも、それは……」


 柴田勝家が口を挟む。


「さよう、そのような策、聞いたこともござらん」


 家老の林秀貞も頭をかくばかりだ。


「本気なのでございますか」と、智将村井貞勝も進み出た。「松平家が同意するとは思えませんが」


「それなら大丈夫です」と、俺は胸を張った。「すでに同意は取り付けてあります」


 松平家の当主は俺の言いなりになる影武者だ。


 酒井忠次や本多忠真にも話はつけてある。


「しかし」と、柴田勝家が天を仰ぐ。「三河の港湾使用権を武田に認めるなど、前代未聞ですぞ」


 そう、俺の秘策とは、内陸国の武田に海上通商の権利を保障するというものだ。


 海と接していない甲斐国かいのくには駿河や相模からの通商に頼らざるを得ない。


 だからこそ、今回のように塩止めといった制裁によって行動を制限されることになる。


 だが、松平家を通して海上通商を好きなようにおこなえるとなれば、今川や北条の顔色をうかがう必要はなくなるし、南蛮との貿易による利益も手にすることができる。


 農業を収入源とする戦国大名は、これまで隣国へ兵を出す程度の動員力しか持っていなかった。


 商業を活発にすることで強大な経済力を持ち、多数の常備兵を養える兵糧を確保できるようになり、隣国だけでなく、遠方への出兵が可能になる。


 これまでの武田家の侵略政策を根本から変える可能性を持つ秘策なのだ。


 そして、その強大な力を織田家の味方として利用する。


 その同盟が、天下布武への礎となるのだ。


 やや落ち着きを取り戻した家臣たちに、俺はさらにその先の構想を述べた。


「織田家の威光を天下に知らしめるには京への上洛を目指さなければなりません」


「ふむ、なるほど」と、信長も笑みを浮かべながら俺の話に耳を傾けている。


「それには今川だけでなく、立ち向かうべき敵がまだたくさんおります。美濃の斎藤、近江の六角、将軍家を牛耳る三好の動向も目を離せません。本願寺や比叡山などの寺社勢力も介入してくるでしょう。その際に、武田の目を東へ向けることができれば、織田家は後顧の憂いなく西に向かうことが可能です」


「なるほど、それは道理であるな」


「ただ、武田にも敵がおります。たとえば、越後の上杉とはもう何度も争いを続けておりますが、決着はついておりません。一方で、関東管領の名を継いだ上杉は常陸の名門佐竹とも接触を試み、北条への圧力を強めております。武田に対する包囲網は一枚岩ではなく、くさびを打ち込めば一気に瓦解するものと思われます」


「そこがおぬしの狙いなのだな」


 さすが信長、飲み込みが早い。


「今川領を武田に取らせ、北条の背後を押さえることができれば武田が関東の覇者となるでしょう。武田にとって十分にうまみのある取引と納得させられます」


「よかろう」と、信長は扇子で膝を叩いた。「そなたにすべて任せる。この話、必ずまとめてくるのだぞ」


「かしこまりました」


 と、そこへ小姓がやって来た。


「美濃より戻った前田利家殿がお目通りを願っておられまする」


 ――ん?


 利家は美濃に行っていたのか?


「よかろう」と、信長がうなずく。「通せ」


 小姓と入れ替わりに前田利家が参上する。


「お館様にはご機嫌麗しゅう」


「つまらぬ挨拶は抜きだ」と、信長が立ち上がる。「どうであった?」


「ははっ、口上を述べたところ、すべて拒否との返答でございました」


「そうか」と、つぶやきまた腰掛ける。「ならば是非もなし」


 一体何の話だというのだろうか。


「光秀よ、その方が三河へ赴いている間に、わしがただぼんやりとしておったとでも思うか」


 俺が首を振ると、信長は満足げにうなずいた。


「そうじゃ、美濃侵攻の段取りを付けておったのだ」


「では、斎藤家と交渉を?」


「義龍が道三殿を討ち取りおった。我妻の親父殿だ。弔い合戦をせねばなるまい」


 信長の妻濃姫は斎藤道三の娘であり、義龍は義兄にあたるが、親の仇にもなるというわけだ。


 大義名分としては申し分ない。


「しかしながら」と、前田利家が引き継ぐ。「こちらが提示した条件をすべて拒否し、斎藤家は徹底抗戦の姿勢を明らかにしたのでございます」


「それはこちらにとって、格好の口実。この戦が京へ上る第一歩となるであろう」


「実はお館様」と、前田利家が小姓に目で合図した。「美濃より、客人をお連れいたしました」


「ほう、どなただ?」


 小姓に導かれて姿を現したのは老僧であった。


「快川紹喜様にございます」と、前田利家が取り次いだ。


「ほう、高名な紹喜殿が」


 招き入れられた高僧は真っ直ぐに進み出て信長の前に座った。


「お初にお目にかかります」


「よくぞ尾張へお越しくださった」


「紹喜様は斎藤家から圧力を受けておりまして」と、前田利家が代わりに言上する。「拙者が尾張へとお越しいただくようにお願いいたしました」


「でかしたぞ、利家」


「は、はあ?」


 褒められて困惑する利家を横目に、信長は俺を扇子で指した。


「光秀よ。この幸運をどう思う」


 ――そうか。


 信長は俺の戦略などお見通しだったのだ。


 快川紹喜は史実でも甲斐国へ招かれ、恵林寺を武田家の菩提寺としている。


 織田軍による武田家滅亡の際には焼き討ちにあい、『心頭を滅却すれば火も自ら涼し』との言葉を残して焼死したと言われている高僧だ。


 武田との交渉を優位に進めるために、信長はそんな仏教界の大物を使者として同行させようというのだ。


『信長のアレ』でも、僧侶を伴った交渉は停戦でも捕虜返還でも百パーセント成功が保証されている。


 戦国の風雲児は俺以上の策士だ。


「お館様の先見の明には感服いたしました。紹喜様を甲斐へお連れすれば、武田も我々の話を聞かざるを得ないでしょう」


 俺を出し抜いた信長は満足げにうなずいている。


 今はそれでいい。


 信長は俺の戦略通りに勝ち上がり、俺は信長の手のひらで踊る。


 お互いがお互いを利用しあい、それぞれの思惑通りに下剋上の時代を成り上がる。


 俺の心の中に本能寺がある限り、そのどちらの野望もコインの裏表に過ぎないのだ。


「では、すぐに出立せよ」


「かしこまりました」


 信長は秀吉にも指示を下した。


「サルは城の装備を充実させ、三河北部から今川、武田双方への睨みをきかせるのだぞ」


「ははっ。命に代えてもお役目果たしまする」


「うむ。その言葉、忘れるでないぞ」


 評議は解散となり、俺はさっそく出立の準備に取りかかった。


 甲斐の虎と呼ばれる武田信玄との交渉だ。


 また一人、戦国の有名人に会えると思うと、俺の期待は高まる一方だった。


   ◇


 屋敷で旅の準備をしていると、俺宛に今川氏真からの書状が届けられた。


 内容は『隼ストライカー瞬』の続きが読みたいから早くよこせという催促だった。


 ――おいおい、本気かよ。


 このタイミングで?


 なにしろ、美月たち盗賊団を使って俺を捕らえさせたのだ。


『どの面下げて』という要求じゃないのか。


 俺は美月にも書状を見せた。


 一応文字は読めるらしく、目を通した美月は俺と同じように「どういうことなんだ」と、首をかしげていた。


 俺が聞きたいよ。


「俺を捕らえるように命じたのは間違いなく氏真だったのか?」


「間違いない。今川の若殿に屋敷に呼び出されて直接依頼を受けた」


「偽物の可能性は?」


「漫画とやらを見ながら蹴鞠の練習をしていた。宙返りをしながら的に当てていたぞ」


 じゃあ、間違いなく氏真か。


 なにしろ自慢じゃないが、令和の漫画をパクれるのは俺だけだし、それを読んでいるのも氏真だけだからな。


「依頼の内容は俺の暗殺だったのか?」


「殺せとは言われていない。ただ、捕らえろという依頼だった」


「捕らえた後はどうしろと?」


「それはまた指示があるはずだった」


 その前に俺が脱出してしまったわけか。


 しかし、どういうことなんだろうか。


 氏真の狙いはさっぱり分からない。


 あれだけの蹴鞠好きだから、サッカー漫画の続きを読みたいという要望も本当だろうし、一方で、俺の命を狙うのは、やはり今川にとって目障りだからなのだろうか。


 もしかすると、義元の意思で氏真が実行したのかもしれない。


 どちらにしろ、今後は直接氏真と交渉するのは避けた方がいいのだろう。


 とにかく情報が足りない。


 俺の脳内モニターで検索できることにもやはり限界はあるのだ。


 季節は冬だが、甲斐国へ早く到達して武田信玄との交渉をまとめなければならない。


 正月に、清洲城で祝いの膳をいただいてすぐに俺たちは出発した。


「紹喜様、正月早々ご足労願い、申し訳ございません」


「いやいや、世の太平のためとあれば、どこへでも参りましょうぞ」


「ありがとうございます」


「甲斐の武田殿とはかねてから書状を交わしておりますゆえ、きっと歓迎してくださることでしょう」


「それはとても心強いことでございます」


 快川紹喜はまもなく還暦というのに背筋もまっすぐ伸びて足腰も俺より強そうだった。


 早死にする人間ばかりの戦国時代では、還暦を迎えるというのは本当にめでたいことのようで、令和とは比べものにならないくらい高齢者は長老として尊敬されていた。


 まして、快川紹喜は著名な高僧だ。


 道行く人々がみなありがたがって手を合わせて俺たち一行を拝んでいた。


 長篠の砦で秀吉と寧々さんに正月のあいさつをし、いよいよ、伊那の山中へと分け入った。


 雪深い谷やあっという間に感覚をなくすほど冷たい川に行く手を阻まれながら、気力を振り絞って前へ前へと足を出す。


 脳内モニターにナビ画面が出るので、道に迷うことはなかったが、冬の昼は短く、しかも山中ではなおさら日差しは遮られ、一日に一里(四キロメートル)しか進めない日もあった。


 道中の寺に宿を借り、いろり端で夕飯をいただきながら俺は美月にたずねた。


「なあ、同じ盗賊同士として、他の地域の連中とのつながりはないのか」


「もちろんあるが」


「なら、この先の通行について、先回りして根回しをしておいてくれ」


「それはできない」


「なぜだ?」


「盗賊が武士の用心棒になってるなんて恥さらしだからな」


「まっとうな道を進もうとしていることを恥じることはないだろう」


「さよう」と、快川紹喜もうなずく。「世に曰く『過ちを改めむるにはばかることなかれ』じゃよ」


 老師の正論に対して苛立ったように美月が声を張り上げた。


「だからさ、そのまっとうな道っていうのがむずがゆいのよ」


「言い方の問題だろう。だったら、俺と同じ道を歩いているって事でいいではないか。今まさにこうして雪の中を歩いているんだし。もう仲間ではないか」


「やめろ、背中がムズムズする」


 肩をいからせながらスタスタと歩幅を広げて先に行ってしまう美月の背中を俺は微笑ましく眺めていた。


 途中の茶屋に立ち寄ったときだった。


「お侍様、お茶もございますが、最近評判の活劇飲料はいかがでしょうか」


「それはどのような物ですか」


「南蛮渡来の疲れが取れる飲み物です」


 怪しい飲み物に警戒心が沸き起こるが、とりあえず頼んでみた。


 湯飲みに注いで出されたのは見覚えのある冷たい飲み物だった。


 美月も気づいたらしい。


「おい、これ、あんたがあたしに飲ませてくれたやつじゃないのか」


 そう、それはジャガイモの毒で腹を壊した盗賊団のために俺が調合したスポーツドリンクだったのだ。


「店主、これはどこから仕入れた物ですか?」


 俺がたずねると、店主は揉み手をしながら教えてくれた。


「駄洒落ばっかり言ってるデイブなんとかっておかしな南蛮人が来ましてね」


 やっぱりあいつか。


 俺のレシピをパクりやがって。


 ま、俺も令和のスポーツドリンクをパクっているわけだから文句を言えた筋合いではないんだがな。


「その南蛮人が見本を配ってるって言うんで飲んでみたらおいしいから置いてみることにしたんですよ。なんでも、すばやく体に染みこむ『サスケ』とかって飲み物だそうで」


「何、サスケ!?」


 勝手に商品名まで付けるとは。


「今じゃあ、ここらの街道筋の茶屋の名物になってましてね。南蛮渡来の珍しい飲み物がこんな山奥で味わえて、しかも疲れが取れると旅人がみな喜んでおりますよ」


 まずいな。


 味ではなく、武田軍に情報が漏れることが、だ。


 疲労回復に効果があることは間違いないので、迅速な行軍が可能になる。


 今まで以上に『疾きこと風の如く』となったら手がつけられない。


「しかし、この飲み物は癖になりますな」と、快川紹喜師も上機嫌に飲み干した。「たしかに体に染み入るようで、疲れが取れまする。農作業にいそしむ民も喜ぶでしょうな」


 なるほど、そうか。


 そういう考えもあるか。


 俺は老師の見解に感服し、織田領内でも農民たちに普及させた方がいいのかもしれないと、方針転換を考えることにした。


 疲労回復に効果的で健康に作業できれば生活の質が改善する。


 令和の保健の授業で習ったような指導を俺がすることになるとは、つくづく学校の勉強は馬鹿にできないものだと思い知らされる。


 居眠りできる授業だと甘く見てあんまりまじめに取り組んでいなかったことを後悔してしまう。


 一方で、街道筋の関所で織田家の使いであること、快川紹喜師を伴っていることを告げると、武田家の対応はかなり丁重なものであった。


 すぐに早馬を甲府の信玄へ向けて出発させ、次の関所までの道案内や、宿泊の便宜を図ってくれたりもした。


 雪道の歩きにくさまではさすがに改善できなかったが、それ以外の困難を相手側が解消してくれたのは予想外の幸運だった。


 やはり高名な僧侶を外交官とするのは、この時代にはかなり有効な切り札なのだった。


 宿泊先の寺では、俺の随行員である美月の配下たちにまで酒が振る舞われたりもした。


 令和ではないので年齢を気にすることはないものの俺は飲まなかったが、男たちは体が温まる『薬』だと喜んでいた。


 美月の配下は、頬に傷のある権造、小男の小助、僧侶ではないが体が大きく髪を剃り上げた怪力の入道、簡単な読み書きのできる十蔵、忍びかというくらい足の速い吉三郎の五人だった。


 彼らはみな俺に対しては打ち解けることなく一定の距離を置いていたが、酒が入ったときだけは素顔を見せることがあった。


「俺たちは姐さんに従っているだけで、おまえさんに義理はないからな」


 権造に小助が続ける。


「ああ、あんたが姐さんを見捨てるようなことがあったら、俺たちがあんたを始末するさ」


 荒くれ者でも美月の言うことには絶対服従だし、用心棒としては役に立つ連中だから、俺は特に気後れすることもなく接していた。


 実際、道中にはもっとやっかいな野犬とか、野武士がいたし、そういった障害を排除する腕前はたいしたものだった。


 俺たち一行は半月後に諏訪盆地に入った。


 寒さは厳しかったが、それほど積雪はなく、平地で道も整備されていて歩きやすくなった。


 眺めのいい丘の上にある茶屋で休憩を取る。


「ほう、これが噂に聞く諏訪湖ですか」


 快川紹喜師が感嘆している。


「でっけえなあ」と、美月の手下たちも素直に驚いている。「凍ってやがるぜ」


 戦国時代は令和と逆に寒冷化の時代だからか、諏訪湖に氷が張り、亀裂が入って盛り上がる『御神渡り』現象がはっきりと分かる。


 寒くて震えてしまうが、壮大な眺めに観光気分でみなが見入っていた。


 観光気分で和んでいると、そこへ従者を伴った使者が馬で駆けつけた。


「快川紹喜師の一行とお見受けするが」


 使者は紹喜師と同年配の髪の薄い老人だった。


「いかにも、織田家家臣明智光秀と申します」


「そなたが」と、使者が馬を下りて頭を下げる。「武田家家臣山本勘助と申す」


 ――おお。


 智将として名高い山本勘助自らが駆けつけてくれるとは。


 感動のあまり俺は思わず、来年の川中島の戦いで戦死することを口走ってしまいそうになった。


 未来を知っているからと言って軽々しく言うべきではないし、易者と思われるにしても、自分の死を予言されては気分を悪くするだろう。


《山本勘助(晴幸):武田二十四将、五名臣の一人六十歳。統率84、武勇74、知略97、政治72》


 一五六一年の川中島の戦いで、山本勘助は上杉謙信がこもる妻女山を背後から奇襲し、平地へ逃れたところを攻撃する『啄木鳥きつつき戦法』を提案するが、霧で視界が遮られた不運や偶然が重なり、信玄本隊が上杉軍と正面から対峙することとなったのだ。


 これにより山本勘助は討ち死にし、謙信は信玄の本陣に突入し、一騎打ちがおこなわれたと言われるほどの激戦が繰り広げられたのだ。


「どうかしたかな」と、勘助が眉を寄せる。


「あ、いや、これはご無礼を」と、俺も頭を下げた。「わざわざのお出迎え、ありがとうございます」


「うむ、お館様がこちらへ出向いて紹喜師をお待ちしておるのだ」


「なんと、信玄公が自ら」


「案内いたすゆえ、ついて参られよ」


 なんだか、とんでもないことになってきたようだ。


 甲斐の虎と呼ばれた武田信玄自らが出馬してくることなど、通常ならあり得ないことだ。


 しかも、本拠地の甲府から諏訪まではかなりの距離だ。


 単なる織田家の使者としての扱いなら、こんなことはないだろうが、やはり、この時代の高僧の影響力は想像以上に大きいらしい。


 山本勘助と従者は俺たちを伴って諏訪盆地の街道を甲府に向かって進み、途中から脇の山へと入っていく。


「甲府に向かうのではないのですか」


「お館様は温泉でお待ちしておりまする。少々山へ入りますが、ご心配めされるな」


 武田の隠し湯と呼ばれる温泉が令和にも伝わっているほど信玄の温泉好きは有名だが、まさかこんなところで招待されるとは。


 ご丁寧に、山道の雪は払われ、勾配はあるがとても歩きやすい。


 真冬に汗をかいたところで、ちょうどいい具合に温泉に到着した。


 宿屋があるわけでもなく、簡易的な東屋のような建物が作られているだけだが、森の中に沸き立つ湯気はもうもうとはげしく、周囲に霧のように流れて幻想的な風景を醸し出していた。


 東屋にいる武田家の従者に山本勘助が我々の到着を告げると、信玄は湯に入っているらしい。


「明智殿、お館様は湯に入っておられるゆえ、是非ご一緒に」


「え、一緒に!?」


「遠慮めさるな。湯につかれば道中の疲れも吹き飛び、みな裸の付き合いで打ち解けるというものござる」


 裸という言葉に反応して、美月の手下たちが鼻を伸ばす。


「わ、私は脚だけつかればよい」と、美月が後ずさる。


 混浴が珍しくない時代にしろ、まわりが全員男だらけというのは気後れするものだろう。


「ご家来衆はあちらに別の湯が湧き出ておるゆえに、そちらでくつろがれるが良い」


「ご配慮ありがとうございます」と、俺は一応礼を言っておいた。


「姐さん、行きましょうぜ」と、権造が誘う。


「いやだから、私は警護の任務がある。ここで良い」


「なんすか、こんな優男に興味があるんですか」と、小助が子供のように口をとがらせる。


「馬鹿野郎、あたしは金をもらってるから従っているだけだ」


「俺たち目をつむってますから、姐さんも暖まりましょうぜ」と、大入道。


「信用できるか」


「ひどいなあ、俺たちそんな野郎どもじゃありませんぜ」と、十蔵が揉み手をする。


「鼻の下伸ばすな、気持ち悪い」


「おいおい、姐さんをからかうんじゃねえよ」と、吉三郎だけは仲間をたしなめる。


 そんな話をしているうちに、快川紹喜はするりと着物を脱ぎ捨て裸になっていた。


「いやあ、温泉というものはこの季節には一番の薬ですな」


 あまりにも堂々としているので言いにくいが、手ぬぐいで前を隠して欲しい。


 美月はいつの間にか逃げ出していた。


 山本勘助ももう褌一丁になっていた。


「明智殿、このような寒いところで話などしていると風邪をめされますぞ。湯へ参りましょうぞ」


「はい、ただ今」


 俺も覚悟を決めて着物を脱いだ。


 山本勘助が俺の上半身をじろじろと眺めている。


「おお、傷一つない滑らかな肌をしておるのう。明智殿は武将というよりはまるでお公家様の御曹司のようでござるな」


 褒められているにしても、舐めるように見つめられるのは落ち着かない。


 俺は褌を外して手ぬぐいで前を隠しながら温泉へ急いだ。


「明智殿、そのように急ぐと転びますぞ。玉のような肌に傷がつくといけませんぞ」


 余計なお世話だ。


 俺も美月と一緒に足湯だけにしておきたかったが、もう後戻りはできなかった。


 武田信玄との交渉を成立させるために俺はここまで来たんだ。


 武田との同盟が織田家の命運を握っている。


 たかが入浴といえども、これもまた、天下布武への布石なのだ。


 俺は文字通り手ぬぐい一枚の丸腰で甲斐の虎との対決に挑んだのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る