信長のアレを千回クリアした俺が戦国最強の軍師に転生して甲斐の虎に会いに行ったら、赤べこだったんだが(ていうか、男だらけの温泉回なんて誰得なんだよ)
犬上義彦
第1話 清洲城の日々
裏切りの軍師明智光秀として織田信長に仕えることになった俺はまず
俺の提言で足軽大将に昇進した木下藤吉郎は
「お館様からいただいた立派な名前だが、どうにも慣れぬのう」
腹をぼりぼりと引っかきながら秀吉がこぢんまりとした武家屋敷から顔を出す。
俺と秀吉は隣り合った屋敷をお館様から
「おぬしも明智光秀などとたいそうな名前になりおって。偉そうで似合わんぞ」
苦笑していると、屋敷の奥から出てきた
「余計なこと言わないの。サルが出世できたのも明智様のおかげでしょ」
主君信長の媒酌で晴れて二人が夫婦になれたのも俺の口添えなので、寧々さんは素直に感謝してくれている。
ただ、ちょっと困ったご近所さんでもある。
夜な夜な隣から仲睦まじい声が漏れてくるのは思春期男子としては非常に悩ましいのだが、もちろん黙っているしかない。
そういうときにお市様のことを思い浮かべそうになって、『いや、待て、俺はそんなふうにあの御方を穢したくはないんだ』と、強制的に精神修養をさせられるのもきつい。
体が興奮して静まらないときは屋敷を抜け出し、暗い城下で風に当たったりしてごまかしている。
その時に思ったのが、この時代に来てからとにかく夜が暗いのをなんとかできないかという問題だった。
月や星が出ている夜はむしろ意外なほど明るいが、新月や曇りの日は黒い布をかぶせられたみたいに真っ暗で目と鼻の先に誰かがいても分からない。
盗賊はそんな夜を狙うし、それに、一日のうち、昼間しか活動できないのはもったいない気がしたのだ。
桶狭間の戦いが夏至の時期で、それから少しずつ日は短くなり、もうすぐ稲刈りの季節だった。
秋分を迎える前にすでに夜は長く退屈で、令和に比べて昼は歩き通しだから疲れて眠れれば良いのだが、お隣さんが元気だと中途半端に目が冴えて困るのだ。
俺は使命感に燃えて信長に提言した。
「夜でも活動できるようにすれば、商人たちも今以上に稼げますし、治安も維持できます。それに、夜間に兵を動かせれば、
桶狭間の時は俺自身も真っ暗な道を苦労しながら進んだが、街道に明かりがあればもっと迅速に動員がかなうはずだ。
「なるほど、やってみるが良い」と、信長はすぐに理解し、資金を用意してくれた。
問題はそれをどう維持するのかだった。
俺は手始めに城下の商人たちに話を聞くことにした。
清洲城下には伊勢湾の海上交易を担う商人と、東海道の陸上輸送を請け負う馬借が集まっていて、そこからの上納金が織田家のかなりの収入を占めている。
織田家の躍進に商人の力が必要なのは史実でも明らかだ。
「これはこれは木下……あいや羽柴様、このたびのご出世、おめでとうございます」
伊勢屋
先代が引退して去年店を継いだばかりらしい。
聡明そうな切れ長の目でちらりと俺を見上げて軽く頭を下げる。
そんな若商人が慣れた手つきで秀吉の袖に何やら紙包みを入れる。
袖の下――
「うほん、これはいつもかたじけない」
なんだよ、こいつ、こんなところで小遣い稼ぎしてたのかよ。
こういうお金で女遊びしてたんだな。
本当にクズだな。
そんなクズ野郎に紹介してもらう俺の立場も考えてほしい。
「おう、伊勢屋。こいつは明智光秀。新しくお館様に召し抱えられた軍師だ」
「伊勢屋惣兵衛と申します。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
惣兵衛が近くの番頭に目配せして俺にもお金を渡そうとするので辞退すると、秀吉に脇腹を小突かれた。
「饅頭でもごちそうになったと思ってもらっておけ。いらぬのなら後でわしによこせ」
「寧々さんに言いつけますよ」と、返したら睨まれた。
まったく、堂々としたクズは本当に手に負えない。
奥の座敷に通され、俺が早速用件を切り出すと、惣兵衛が腕を組んでうなった。
「ふうむ、石灯籠ですか。石の枠の中に提灯を置く。そうすれば風でも消えないと」
「石灯籠の設置は織田家がおこないます。その維持管理を街の者たちに頼みたいのですが」
「雨や嵐の日はそもそも使えませんね。夜中に急に降ってきて紙が濡れたらすぐに破れて使い物にならないのでは」
「竹籠で補強するのはどうでしょうか。資材は織田家の負担で」
「できないことはないでしょうが。それによる利益はどれほどのものでしょうか。そもそも夜中に多少の明かりなどあっても役に立つとは思えませんよ」
俺は惣兵衛の言葉の裏に隠れた本音を感じ取っていた。
商人の動機は利益だ。
利益がないことには協力できないと言っているわけだ。
「街道筋にも同様な石灯籠を設置します。たとえば荷物の運搬が一日一往復だったのが二往復になるだけでも莫大な利益になりましょう」
「商売はそう単純ではありませんよ」
相手の抵抗は計算済みだ。
「その維持管理をおこなう契約に参加した商人には関所の通行税を免除するというのはどうでしょうか」
「ほう」と、惣兵衛の口元に笑みが浮かんだ。「明智様はお武家様とは目の付け所が違いますな」
関所の通行税は戦国大名の収入源だ。
だが、それは一方で商人たちの負担であり、経済発展の障害だ。
為政者は自分たちの利益を最大化することばかり考えていて、全体の利益をないがしろにしてしまいがちだ。
学校の歴史で学ぶ程度の知識でも、ヨーロッパの専制君主や織田信長に倒された旧来の支配者の失敗はどれも同じだ。
「待て待て」と、秀吉が横から口を挟む。「そのような約束、お館様がお認めになると思っておるのか」
「それは問題ないと思いますよ」
自信を持って答える俺を秀吉がうさんくさそうに眺める。
「何の根拠があるんだ。おぬし、後で責任問題になっても、わしは口添えなどしてやらんぞ。せっかく出世したのに、寧々殿のためにもこんなことで放逐(ほうちく)されてはかなわぬからな」
「ご迷惑はかけません。俺の責任で話を通しますから」
史実でも織田信長は関所を廃止して税を免除することで商業を発展させている。
俺はただそれを自分の考えのように先取りさせてもらっているだけだ。
惣兵衛が俺たちの顔を交互に見つめる。
「わたくしどもといたしましては、明智様のご提案が織田家のご意向というのであれば、馬借の連中にも話してみようと思いますが」
惣兵衛の申し出に、「まあ、仕方あるまい」と、秀吉も黙り込む。
「ありがとうございます」と、俺は頭を下げた。「お館様への説得は私が責任を持ちます」
惣兵衛も畳に手をつく。
「せっかくお越しいただいたついでに、こちらからもお願いがございます」
「なんでしょうか」
「このたび、織田家と三河の松平家の間で同盟が結ばれたそうでございますね」
「はい、敵の先鋒だった松平家がこれからは織田家の防壁となります」
「そこでなんですが」と、惣兵衛が力士のように膝をたたく。「私どもを松平家にご紹介いただけないでしょうか」
商人の狙いは正直で、行動にためらいがない。
新しい商機を見いだせば、躊躇なく手を伸ばす。
「東方への交易はこれまで松平家の水野様を通して三河商人への仲介をおこなう程度にとどまっておりました。しかしながら、今後は松平家と直接取引を行うことができれば、我々も儲かりますし、その分織田家への上納金も増えることでしょう」
こっそり賄賂をもらう秀吉にくらべたら、堂々と利益を主張する態度はむしろすがすがしい。
「分かりました。早速松平家へ書状を送りましょう」
織田家にとって悪い提案ではないので俺は受け入れた。
そもそも、今の松平家は俺たちが立てた影武者だから、話を通すのは簡単だ。
交渉のカードに役立つなら、使った方がいい。
「さすがは明智様。織田家の知恵袋でございますな」
「三河の通商権を得られれば、その先の駿河も視界に入りますね」
何気なく口にした俺の言葉に惣兵衛の肩がピクリと弾けた。
「駿河の交易はさらにその先の関東へと開けます」
相手も本音をさらけ出してきた。
三河は単なる足がかりだが、その第一歩が想像もつかないほどの莫大な利益につながっている。
「ですが」と、惣兵衛はゆるりと首を振った。「もちろん、織田家と今川家の関係上、私どもは三河の通商権が握れれば満足でございますよ」
――ん?
これは使えるかも。
相手はまだ俺の手の内を読み切っていないらしい。
「もし、今川家との通商が実現したら、どうでしょうか」
「どう……と、おっしゃると?」
惣兵衛は困惑した表情を隠さず前のめりに俺を見つめた。
「交渉の仲介をできるかもしれないと言ったら」
「まさか」と、背筋を伸ばして膝に手を置き直す。「敵対する今川家でございますよ」
俺は内心笑みを浮かべていた。
相手が驚くということは、その切り札に効果があるという
俺は懐から短刀を取り出した。
「私は個人的に今川家の当主氏真殿と面識があります。この短刀は今川家から拝領したものです」
実際に俺がもらったのは氏真の鞠で、この短刀は本多忠真から譲られたものだがそこまで手の内を明かす必要はない。
俺には『隼ストライカー瞬』という秘密兵器もある。
正式に織田家に仕えるようになってから、時間を見つけてはパクリ漫画を描きためてきたのだ。
もうほとんど高校選手権編が書き終わるところだ。
いつでも氏真に見せにいける。
「これはまさに今川家所用の
「もちろん、お館様の許可は得ますよ。ご心配はいりません」
「大丈夫なのか、おぬし」と、秀吉も渋い顔をしている。
経緯を知らぬわけでもあるまいし、ずる賢さと臆病さは紙一重だ。
ただ、秀吉は俺が信長に推薦した関係で、どうしても俺と一心同体に見られてしまうのも仕方のないところだ。
俺がしくじれば秀吉に迷惑がかかるし、その逆もまたしかりだ。
とはいえ、俺は別に不安になど思っていなかった。
信長はむしろ敵との交渉役に使える俺を今以上に重んじるだろう。
「寧々さんのためにも、迷惑はかけませんよ」
俺たちは惣兵衛に商人たちへの手配を頼んで城へ帰ってきた。
清洲城の御殿は改装され、広間が簡素な板敷きから畳の座敷に変わった。
俺と秀吉が縁側で信長を待っていると、柴田勝家がやってきた。
「おう、二人ともご苦労」
「これは柴田様」と、俺たちは二人並んで平伏した。
「堅苦しいことは抜きだ。早速だが明智殿に話がある」
「私ですか?」と、俺たちは柴田勝家と座敷へ入り、向かい合って座った。
「例のデイブという南蛮商人だがな」
――デイブ・スミッシー。
桶狭間に織田軍が奇襲をかけるという情報を今川に密告した張本人。
そのせいで今川義元を討ち漏らし、俺は裏切り者と疑われ、天下統一へのシナリオを変更しなければならなくなったのだ。
俺は柴田勝家に頼んで、得体の知れない南蛮人の行方を調べてもらっていた。
「どうも尾張の国内にはいないらしい」
曖昧な調査結果に落胆したが、表情には出さないでおく。
「最後に姿を見せたのは?」
「馬に乗った南蛮人が東海道を西へ向かったという目撃証言を得たが、それがデイブであるという確認は取れていない」
「そうですか」
「すまぬな。この程度のことしか分からず」
「いえ、ありがとうございます。尾張にいないことが分かっただけでも収穫でしょう」
「うむ。関所や港には手配書を回してあるので、今度来訪した際にはすぐに知らせが届くようになっておる」
「戻ってきますかのう」と、秀吉が上司の前にもかかわらず、両手を突き上げてあくびをする。「明智殿を陥れようとして逃げたのであれば、もしかすると、もう
「デイブの本国イギリスに帰ったと?」
俺のつぶやきに二人がため息交じりにうなずく。
――そうだろうか。
損得勘定で義理を曲げる狡猾な南蛮商人が尻尾を巻いて逃げるとは思えない。
思案しても仕方のないことだが、警戒を怠るべきではないだろう。
と、そこへ
「お館様のお成りでございます」
柴田勝家、羽柴秀吉、そして向かい側に俺が座り、織田信長を出迎える。
覚醒した真・織田信長は最近ますます筋骨隆々、立派な髭もつややかに、威厳に満ちた目でにらみをきかせながら座敷に現れた。
「お館様にはご機嫌麗しゅう」と、柴田勝家が挨拶を述べ、俺たち三人は平伏した。
「かまわん、
信長いつも単刀直入に話を進めたがる。
秀吉がまず伊勢屋との会合の内容を申し上げた。
「ほう、関銭の免除とな」
「は、拙者、そのような内容を勝手に約束してはならぬと明智殿に釘を刺したのですが」
秀吉は自分に火の粉が降りかからないように予防線を張っている。
「おもしろい。誰もやらぬことこそ、躍進の鍵。うまくいくというのなら、任せてみるが良い」
「よろしいのですか」と、虚を突かれたような秀吉が慌てて口を塞ぐ。
そういう確認の言葉も信長が嫌う無駄の一つだ。
「やってみなければ分からぬことをやらずに悩んだところで是非もなし」
合理主義の
だからこそ、俺みたいな未来人を信用してくれるわけだが、こんなにうまくいっていいのかと、その点だけは不安になる。
俺のおかげで出世したといっても秀吉はおもしろくないだろうし、古参の家臣たちには、出しゃばりの新参者は目障りだろう。
ただ、今のところは柴田勝家が俺の後ろ盾になってくれているのでなんとかなっている。
「お館様」と、縁側に侍女が姿を見せた。「お市様がお茶をお持ちいたしました」
「おう、それはすまぬな」
「兄上様には梨もお持ちしました」と、侍女を引き連れたお市様が座敷に入ってくる。
妹の姿を見た途端、厳めしさがあっさり失せ、まるで膝の上で猫でも撫でているかのように場が和やかさに包まれる。
「遠慮するな、皆も食え」
「ははっ。頂戴いたしまする」
俺たちは侍女に差し出された茶をすすり、茶菓子の饅頭を口に放り込んだ。
信長はお市様が差し出した梨をシャリシャリと音を立てながらひょいぱくひょいぱくと頬張っている。
「まあ、お兄様、そんなに口に入れたら喉に詰まりますよ」
ごもごもと汁を飛ばしながら何やら反論しているが、何を言っているのかはさっぱり分からない。
覚醒した真・織田信長も、妹の前ではうつけに戻る。
隙を見てチラとお市様が俺と視線を合わせてくださる。
あの牢屋での誓いの口づけ以来お市様との進展はないが、時々俺の屋敷に忍びの
季節の着物などを贈ってくださるのだが、関係が表沙汰になるのを恐れているのか、直接顔を合わせる機会はこうした信長との面会の時に限られている。
『お市様とのお約束は忘れたことはございませんとお伝えください』
心結は『なんでおまえごときが』と、俺のことを嫌っているらしく、『姫様はあくまでも大願成就のためにあなた様を頼っているのですから、
今、この座敷でも侍女の一人として控えているが、ずっと俺に蔑むような視線を送ってくる。
俺ごときがお市様と視線を交わすことすら気に食わないんだろう。
だが、俺の心にはつねにお市様との約束がある。
魔王の天下を転覆させるために俺は魔王を利用するのだ。
俺は茶菓子の礼をするように見せかけてお市様に軽く頭を下げた。
柴田勝家が信長と話を続けるということで、俺と秀吉は先に御殿を退出した。
「おぬし、今川との交渉についてお館様に申し上げなかったな」
「ああ、そうでしたね」と、俺はしらばっくれた。「それほど急ぐ話でもありませんから、また次の機会に」
「まあ、そうじゃな」と、秀吉がげっぷをする。「まずは松平との交渉をせねばならぬしのう」
「いそがしくなりますね」
「まったく、昼はお館様のため、夜は寧々殿にもご奉仕せねばならぬし、体が持たぬわい」
寧々さん以外にも進んでご奉仕するくせに……。
白い目で見下ろしていたら、秀吉が俺の脇腹を小突いた。
「おぬしにも
「結構です」
「なんじゃ、男がいいのか」
俺は苦笑を浮かべながら首を振る。
「心に決めた人がいますから」
――俺の心に本能寺。
俺はお市様のために生きているんだ。
二人で屋敷に戻ると、足音を聞きつけたのか、寧々さんが勢いよく戸を開けて顔を出した。
「サル、お帰り」
「おう、なんじゃ」
「精のつくウナギをもらったの」
含みのある笑みを浮かべる寧々さんの色気に当てられて俺はそっと自分の屋敷に入った。
一人きりでこんな時代にやってきたけど、寂しさを感じることはない。
俺の軍師人生は順調に進んでいた。
◇
伊勢屋惣兵衛との会合の数日後に俺は三河へ向かった。
織田家の人間としては俺一人だったが、影として心結が同行していた。
「わざわざありがとうございます」
「姫様のご命令でしかたなく随行するのだ。こっちを見るな」
護衛としては優秀なんだろうが、完全に一人の方が気楽だ。
岡崎までの道は脳内モニターにナビが表示されるし、一度行ったことがあるので風景に見覚えもある。
とはいえ、お市様が俺のために遣わしてくださったのだから、追い返すわけにもいかないし、もちろん、盗賊など、万一の場合には頼らざるをえない。
稲刈りの季節を迎え、通過した農村はどこも活気があった。
戦国時代の農村風景は想像していたよりも水田が少ない。
治水や灌漑技術が未発達で、洪水や干ばつ、冷害などに立ち向かえなければ生産力の向上は見込めないのだろう。
まだ俺の戦国生活は始まったばかりだが、課題が次々と見つかって休んでいる暇などなさそうだ。
夜明けと共に清洲を出発し、十一里(四十四キロメートル)の道を歩き通して夕暮れと同時に岡崎に到着した。
慣れというものは恐ろしいもので、俺はこのくらいの距離を歩くことを苦に思わなくなっていた。
もちろん疲れるが、考え事をしていると退屈しないし、体が動いていると頭が切り離されるせいか、思考が自由に膨らんでいくような気もする。
道端の木陰で休憩しながらそういった考えを帳面に記録しておくと、すぐに一冊使い切ってしまうほどだ。
令和の高校生としてはサボってばかりいたのにな。
もちろん、こんなことでへこたれていたら、忍びの心結に蔑んだ目で見られてしまう。
令和の非モテボッチ陰キャ男子にしてみれば、黒髪だけどギャルっぽい心結にそんな目で見られるのだけは避けたかった。
岡崎城で世良田村の影武者三人と重臣酒井忠次、本多忠真(ただざね)の二人に再会した。
「ご無沙汰しております」と、俺は自分から頭を下げた。「このたび、明智光秀と改名し、織田家の軍師として正式に仕えることになりました」
「ご立派になられたな」と、酒井忠次は和服姿の俺を笑顔で眺めている。
そういえば高校の制服姿しか知らないのか。
榊原康政の久作と、本多忠勝の六太郎はずいぶんと武士らしくなっていた。
「わしが鍛えておるからのう」
本多忠真が顎を上げて二人を交互に眺めると、恐縮して首をすくめるあたり、相当しごかれているんだろう。
一方で、松平信康として松平家の当主となった作兵衛はふてくされたような態度で床几に体を預けていた。
「殿様ってえのは、もっと贅沢できるもんだと思ってたんだけどな」
シナリオの狂った桶狭間の戦いで今川の代わりに崩壊した松平家は目下再建中で、贅沢どころか、家臣たちの日々の暮らしもままならないらしい。
「三河武士は質実剛健。ぶくぶく太るなどもってのほかですぞ」
本多忠真にたしなめられて信康はぼりぼりと頭をかいていた。
「実際、先の
桶狭間の戦いは経済基盤の弱い松平家にとってかなりの痛手となったわけだ。
「ようやく秋の収穫で一息つけますが」と、忠次がため息をつく。「次の麦の収穫まで持たせることを考えると頭の痛いこと」
経済の話が出たところで、俺は伊勢屋との契約について話を切り出した。
「通商の利益を握ることは、まさに松平家にとってもうまみのある話ではありませんか」
「ううむ、農業以外の収益があれば、たしかに助かりますな」
酒井忠次は前向きなようだったが、本多忠真は渋い顔を隠さない。
「伊勢湾の海上交易には、これまで水野家が噛んでおりましたが、これをどう思うでしょうかな」
影武者を立てた松平家がそう簡単に一枚岩になることなどないだろう。
特に今まで表に立っていた者としては、その権益を失うことには抵抗するだろう。
「ですが、そこをあえて推し進めることが今は必要かと存じます」
俺の強気な発言に忠次と忠真が首をかしげる。
「いや、しかし、それでは水野家が反発するでしょうな」
率直に異を唱えたのは酒井忠次だった。
「たしかにその通りですが、その水野家に去就を迫るのです」
「つまり、権益を放棄させ、殿への忠誠を誓わせる、と」
「はい」
一瞬の沈黙の後、次に口を開いたのは本多忠真だ。
「水野家が反旗を翻した場合はどうするのだ」
「織田家が支援します。水野家は三河の西部に拠点を持ち、尾張領内の商人とつながりを持っていました。今後、尾張の商人が松平家と新しく契約を結び直すのであれば、水野家の影響力は自ずから下がります。織田家が後ろ盾となれば水野家は松平家と挟み撃ちとなり、抵抗はできないでしょう」
「ううむ、そう単純に行くとは思えぬが」
忠真の懸念に酒井忠次が同調する。
「わしもそううまくいくとは思えませんな。万一、今川と組まれたら逆に松平が挟まれますぞ」
「それに対しても対策を考えてあります」
俺は今川家との通商構想を披露した。
伊勢湾商人たちに駿河への交易路を解放することで、互いに利益を得ようというのだ。
「しかし、織田と今川は敵対関係にあるわけですぞ」
二人が驚くのも無理もない。
だが、俺には勝算があった。
「武家同士の敵対と、商人の活動を切り離せば良いのです。むしろ、通商を密にすることで、
この時代の人々には理解できない考えだろう。
敵対する者同士が取引をおこなうなど、たしかに無謀に思える。
だが、両者が利益を分かち合えるのであれば、争う必要がなくなるのだ。
机上の空論と言われればそれまでだが、それを実現させてこその軍師だ。
「そんな提案を今川が飲むとは思えませんが」
想定通りの反発に、俺はたたみかけた。
「今川が渋っても、駿河の商人たちはどう思うでしょうか」
松平家の重臣二人がそろって息をのむ。
「儲けに聡い商人たちが、莫大な利益をもたらす交易を阻害する武家を支持するでしょうか。商人の力は侮れません。もし今川がこの話を突っぱねた場合は、足元が揺らぎだすのです」
伊勢湾を握る尾張の強みは、駿河よりも京に近いことだ。
商品の価値は都へ行くほど高くなるし、下り物も、地方へ行くほど購買力は弱くなる。
駿河の商人たちにしてみれば、伊勢湾商人との交易が活発になることに反対するいわれは全くない。
しかも、そこに武家の後ろ盾がつけば鬼に金棒だ。
「分かり申した」と、忠次が深くうなずいた。「これまで松平家は家臣たちもそれぞれの思惑で動いており、決して一枚岩ではございませんでした。それが長年の今川への服従であり、こたびの御家の危機にもつながっておったのでしょう。今ここで新たな道へと進むのであれば、そこを根本から立て直す必要があるのでしょうな。のう、本多殿」
話を振られた忠真も膝を打つ。
「わしも覚悟を決めましたぞ、酒井殿。後戻りはできませんからな」
そして、久作康政と、六太郎忠勝に睨みをきかせた。
「おまえらも、いざというときに備えてより一層稽古に励めよ」
はああと、二人の口から同時に情けないため息が出る。
どうやら中身はあまり変わっていないようだ。
と、その時だった。
俺の脳内モニターがアラートを発令した。
《甲斐の武田が兵を起こしました》
――ん?
俺はその情報をクリックして詳細を表示させた。
《武田の軍勢が川中島方面へ侵攻を開始。道中で収穫物を略奪しながら北上を続けています。耕地が狭く食糧の不足しがちな甲斐国では、毎年のように収穫時期になると他国への略奪行為をおこなってきましたが、昨年起きた永禄の飢饉の影響もあり、今回の軍事侵攻は大規模な作戦行動となっているようです》
――ひどいもんだ。
武田信玄は越後の上杉と対比される戦国時代を代表する名将だけど、実際には、家臣たちの略奪を黙認、いやむしろ奨励していたんだよな。
せっかく実った稲を収奪するだけでなく、村人をとらえて人買いに売ったりもしていたらしい。
そういった野蛮で迷惑なことを繰り返すから、周辺国の人々にはずいぶんと嫌われていたんだろう。
もちろんそれは武田だけの問題ではなく、多かれ少なかれ、
ただ、建前としても、織田と松平の両家はそういった略奪行為を禁止すべきだし、農業だけに頼らない収益源をどんどん開発していくべきだと俺は思っている。
農民や商人、時には僧侶など、身分を問わず味方を増やさないことには、天下統一など戯言に過ぎない。
「いかがなされた?」
酒井忠次が俺の顔をのぞき込んでいた。
「甲斐の武田が狼藉を働きに信濃北部へ侵攻したようです」
「またですか」と、あきれたようにため息をつく。「やつらは毎年それを狙っております。農民たちが苦労して期待していた収穫を根こそぎ横取りしていく。大国は驕り、弱者をくじく。非道な行いは必ず自らに仇をなすというのに」
「忠次殿の矜持、感服いたしました」
酒井忠次が家老でいる限り、松平家は安泰だろう。
作兵衛信康、久作康政、六太郎忠勝も本多忠真に鍛えられれば、そのうち影武者から本物へ覚醒するだろう。
翌朝、尾張へもどる前に俺は心結に今川氏真への書状を託(たく)し、届けてもらうことにした。
頼まれていた『隼ストライカー瞬』の漫画だ。
他にも、明智光秀に改名したことや、伊勢屋惣兵衛の仲介についても書き添えておいた。
脳内アシストの自動書記モードで、昔のくねくねした文字が勝手に書けるし、宛名書きなどの礼儀作法も教えてもらえるのはとても助かる。
「帰路は一人で平気か?」と、書状を懐にしまった心結が俺の目を見つめる。
無駄に背の高いひょろりとした男だと思われているのだろうか。
「危険を察知する能力は人よりあるから、危なそうなら逃げるよ」
俺の脳内にポップアップする情報モニターは野犬も察知してくれるのだ。
「おまえに何かあったら私が姫様に叱られるのだ。怪我一つするなよ」
最初に引き合わされたときは俺のことを『あなた様』と呼んでいたのに、最近は俺をヘタレ男子と見抜いたせいか、『おまえ』呼ばわりだ。
心配されているのか迷惑がられているのかよく分からない。
「大丈夫だ。今川への使い、頼みます」
頭を下げて起き直った時には、心結の姿は目の前から消えていた。
忍びらしいところを俺に見せつけようとしたんだろうか。
と、その瞬間、背後から羽交い締めにされたかと思うと、俺の首筋に冷たい鉄串のようなものが突きつけられた。
――うおっ、マジかよ。
「油断するな。隙だらけだぞ」
――なんだよ、心結か。
「わ、分かった。ご忠告感謝します」
どうやら突きつけていたのは簪だったらしく、心結は無防備に両腕を上げてさらりと髪を結い直す。
ずいぶん隙のある姿をさらけ出すものだと眺めていたら、表情を読まれてしまったらしい。
「私に何かできるなどと思い上がるなよ」
「そんな勇気はない」
「まったく、こんなひ弱な男のどこが……」
つぶやきの途中で今度こそ心結の姿は消えていた。
ふう。
俺ごときがお市様にふさわしくないのは、俺が一番よく自覚している。
立派な軍師になって堂々とお市様と添い遂げればいいんだ。
まあ、史実や未来の知識があれば戦国最強の軍師になるのはそれほど難しくはなさそうだけど、魅力的な男になるのはめちゃくちゃ大変そうだけどな。
ため息なんかついている場合ではないか。
どう転ぶかは分からないが、とりあえず戦略としての種は
相手の出方次第によってはシナリオを変えなければならないだろうが、それはまたその時だ。
むろん、離反した松平と引き抜いた織田に対する怨嗟は強いだろう。
だが、その上でもなお、交渉をおこなうのが軍師というものだ。
誰も想像しないシナリオを描く。
俺はそんな大役を覇王信長から任されたんだ。
高揚する気分を胸に抱き、俺は帰路についた。
秋らしい穏やかな気候で天気も良かったので、帰りは知多半島を横断して伊勢湾に出て港を視察することにした。
ちょうど伊勢湾西岸の津島港から入ってきた船が停泊していて、積み荷を下ろしているところだった。
津島港からの上納金は織田家の大きな収入源で、さらには堺など西方への窓口でもある。
この知多半島側の港を今川が狙っていたわけだが、このたびの桶狭間で織田家が完全に掌握したことになる。
よりいっそうの交易の拡大を図る手がかりをつかめないだろうかと、俺は港を散策していた。
港で一番大きな問屋をのぞいてみると、そこには伊勢屋
「おや、明智様」
「惣兵衛さんもこちらへ?」
「仲間内に例の話をしに参ったのですよ」と、店の主人を紹介してくれる。「こちらは織田家の明智様。この店の主の
能登屋は四十代後半くらいだろうか、この時代では隠居していてもおかしくない年頃だが、顔の艶もよく現役らしい。
お互いに頭を下げる。
「能登と言えば石川県……」と、言いかけて、この時代の人にしてみたら能登は能登だと思い直した。「ああ、ええと、北陸の輪島とか七尾、畠山(はたけやま)家の土地ですね」
「ほう」と、能登屋の目が輝く。「能登をご存じですか」
まあ、日本の都道府県は令和の学校で習うし、そもそも俺は『信長のアレ』のおかげで、旧国名もすべて把握している。
だが、自分の村から外に出ることすらないのが普通だったこの時代の人からすれば、日本地理が頭に入っている若者は珍しいのだろう。
「わたくしどもは畠山家臣の
脳内モニターに武将ウィンドウがポップアップした。
《温井景隆:統率49、武勇31、知略70、政治54》
『信長のアレ』では平凡な能力値だが、畠山に仕えつつも上杉と連携したり、なかなか一筋縄ではいかない武将だ。
「畠山家と温井家の関係もいろいろと複雑なようですね」
「戦国のならいでございますな」と、能登屋は快活に笑う。「そのため、わたくしどもでは、この土地に新たな拠点をつくっておる次第でして」
「なるほど、危険の分散ですか」
真顔に戻ってうなずく。
「伊勢屋さんのお話通り、とても頭の切れる方のようですな。今後とも、どうぞ能登屋をよろしゅうお願いいたします」
と、そこへ店にいたもう一人の商人が話に入ってきた。
「伊勢屋さん、能登屋さん、私も紹介してくださいな。ぼんやり茶など飲んでる場合やありまへんな」
能登屋と同じくらいの歳か、瞬きの多い目で顔を突っ込んでくる。
「おお、すみません」と、伊勢屋が俺を紹介してくれた。「明智様、こちらは京の商人、
揉み手をしながら小柄な体を折る。
「たまたま来ておりましたが、明智様にお目にかかれて嬉しゅうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「なにやら、お武家さんらしゅうございませんな」
まあ、元は令和の高校生だからな。
パワーアップキットのおかげで東大生なみの知力を授けられただけだし、脳内モニターに表示される方言自動翻訳のおかげで会話ができている。
とはいえ、メッキでも金色は金色だ。
俺は信長から関銭免除の許可を得たことを伊勢屋さんに伝えた。
「ほう、それはまた話が早い」
「さすがは織田のお殿様」と、能登屋も感心している。「ならばお約束通り我々も協力させてもらいましょうか」
皀莢屋がじろじろと俺の顔を値踏みするようにのぞき込む。
「明智様はお武家様にはもったいない御方でございますな。信用というものをよく心得ていらっしゃる。お武家様は目先の利益しか考えんものと思うておりました。お武家様の約束は破るためにあるようなもの。食うか食われるか。取った取られた。馬鹿正直では生き残れませんからな。盗人と変わりおまへんな」
と、そこで自分の言葉に額をたたいて混ぜっかえす。
「おっと、お武家様を前にして、これは大変失礼なことを申し上げましたな」
あえてそういう物言いで俺の出方を試しているらしい。
「いえ、私も、隣の国の収穫物を奪って儲けた気になる大名は逆に損をしていると思います。これからは価値を提供し、味方を増やしていくやり方でやっていくべきだと考えています。商人の皆さんにご協力をいただくこのたびの計画はその第一歩です」
ほう、と三人が同時に息をのむ。
皀莢屋がニヤリと笑みを浮かべた。
「夢を語る。結構。
「はい、
「気に入りました」と、皀莢屋が首を突き出すように頭を下げる。「私は明智さんに賭けますわ」
俺も頭を下げると、起き直った皀莢屋が俺に体を寄せてきた。
「明智様に、一つええ話お耳に入れておきましょか」
――ん?
「今川と北条が塩止めをするっちゅう噂ですわ」
海沿いの地域の大名が販売を禁止するというのだ。
塩が取れない内陸の武田にとっては死活問題だ。
しかも、今川と北条は武田と三国同盟を結んでいるのだ。
「それはつまり……」
「そこからはお武家さんの話。私らは知りまへん」
急に話をはぐらかすが、皀莢屋の言いたいのは、近いうちに同盟が崩れ、
この動きにどう対応するか。
武田、今川、北条だけでなく、上杉や関東の諸大名も動き出すだろう。
またシナリオを書き換えなければならないか。
くさびを打ち込むのか、それとも、
皀莢屋はそれをじっくり見極めさせてもらうと宣言しているのだ。
「いい情報、ありがとうございます」
「お役に立てましたかな」
「今度お目にかかったときはおもしろい話をお聞かせできるかと思います」
「私ら
のけぞるようにして快活に笑う皀莢屋の横で、伊勢屋と能登屋は困惑しながら愛想笑いを浮かべていた。
◇
夜遅く清洲に戻った俺は、お隣さんの元気な営みに辟易しながら月明かりの下で足を
痛みがあるわけではないが、放置しておくとさすがに翌朝に響く。
入念に揉みほぐしていると、月明かりが陰った。
顔を上げると、目の前に忍びの
「ああ、ご苦労様。今川はどうでしたか?」
「お預かりしたものは氏真公に無事にお渡しいたしました」
よそよそしい敬語がお互いぎこちない。
「ありがとうございます」
「大変喜んでおられました」
令和で大人気のサッカー漫画『隼ストライカー瞬』をそのまま書き写したパクりだからな。
「その場でお読みになり、続きが気になるとおっしゃっておられました」
そりゃそうだろうな。
高校選手権編の続きを描きためておかないといけないな。
「書状については何か?」
「返信は後日とのことでした」
想定していた通りでべつに落胆はしない。
通商のことなどはすぐには決められないだろう。
皀莢屋の噂通り、塩止めも絡んでくるとなるとなおさらだ。
ふと顔を上げると、心結がなぜか妙にもじもじと頬を赤らめていた。
いつも強気なギャルっぽい『くノ一』なのに似合わないと思ったら、お隣さんから漏れてくる声が気になるらしい。
そういえば、俺が帰ってきてからだいぶたつのに、まだやってるのかよ。
――ったく、サルめ。
ていうか、寧々さんがすごいのか?
と、心結が曲げわっぱというのか円筒形の弁当箱を俺に突き出した。
「こっ、これはお市様からおまえに差し入れだ」
いきなり口調が変わって困惑するが、蓋を開けると、ご飯にゴボウや椎茸の煮物と、小魚を山椒で甘辛く煮た佃煮のようなものが添えられていて、香りに食欲が刺激されて、わんぱく小僧のようにおなかが鳴ってしまった。
「これをお市様が手ずから?」
「姫様が料理などするわけなかろう。つべこべ言わずにさっさと食え。見届けないと私は帰れないのだ」
まあ、身分社会では高貴な人が自分で料理をするなんてことはしないんだろう。
でもまあ、俺のために手配してくださったのだから、ありがたくいただくこととしよう。
にらみつけられながら早速煮物に箸をつける。
「ああ、これはうまいですね」
実は俺は椎茸が苦手だったのだが、この時代に来てあまり食材に選択肢がなかったせいで、今では椎茸を味わって食べられるようになっていた。
なにしろ、米か麦以外のおかずの選択肢が極端に少ないのだ。
他にも、令和では年寄り臭いと思っていたワラビやゼンマイといった山菜もごちそうだし、ドジョウなんかもちょっと臭みはあるけど、味噌汁に入れてあると喜んでしまう体質になった。
食べ物が口に合うと、なんだか生きていける気がするから不思議なものだ。
「心結さんは何か食べましたか。俺より歩いて疲れたでしょう」
「私のことなど気にするな。忍びには忍びのやり方がある」
「一口味見してみませんか」
「いらん」と、強めに断られた。「忍びが贅沢を覚えると良いことはない。その場にある物を何でも食べられてこそ、おつとめが果たせるのだ」
「今川まで使いに行ってもらったお礼です」
俺はご飯と小魚を一口分つまんで差し出した。
強がっているのか顔を背ける。
箸が震えて落ちそうになる。
「ほら、落ちる、早く」
小魚がご飯から崩れそうになった瞬間、心結がパクリとくわえた。
「姫様のお食事を粗末にするわけにはいかぬから、しかたなくだぞ」
「おいしいでしょう」
「当たり前だ。何をおまえごときが自慢げにしているのだ」
「もう一口どうですか」
「ダメだ。お市様はおまえの感想を聞きたがっている」
ああ、そうか。
俺はふと、もらった果物があったのを思いだした。
「そういえば、アケビがありますけど、代わりにどうですか?」
「いらん。道中散々食べた」
強い口調で会話が途切れると、お隣からのなまめかしい声が聞こえてくる。
あまりにも心結が居心地悪そうにしているので俺は残りの飯をかき込んだ。
「とてもおいしくてあっという間に完食でした」
「それは何よりだ。では、これにて」
弁当箱を俺からひったくると、心結は闇の中に消えてしまった。
お市様付きだから腕のいい忍びなんだろうけど、もう少し愛想良くしてもらえないものだろうか。
それはまあ、俺が軍師として立派になるしかないんだろうな。
歩いた疲れと、腹が満たされた心地よさで急に瞼が重くなる。
隣からはまだ元気な声が漏れてきていたけど、横になった途端俺は眠りに落ちていた。
◇
それから数日後、清洲城下の神社でお祭りがおこなわれた。
俺も寧々さん夫婦、そして同様に夫婦となった前田利家とまつさんに誘われて出かけてみた。
まつさんはもう妊娠しているらしい。
まだおなかの見た目に変化はないが、つわりがあるそうだ。
令和のお祭りと違って、焼きそばやお好み焼きといったソースなどの強い臭いのある食べ物がなくて、ゆっくり歩いている分には平気とのことだった。
寧々さんは秀吉に団子をねだり、利家は飴を両頬に含んでまつさんにつつかせて遊んでいる。
日頃、殺し合いの場に出ている二人にしてみれば、緊張のほぐれるこういった機会は貴重なんだろう。
仲睦まじいのは良きことかな。
昔のお祭りは庶民が日頃ためこんだ鬱憤を発散させる場で乱交が当たり前と聞いていたとおり、暗がりからいつも秀吉夫妻の家から聞こえてくる声が流れてくる。
邪魔するどころか、俺もあたしも混ぜろといった若い衆もいるし、いい歳したおっさんおばさんも人目もはばからず体をまさぐり合っていたり、目のやり場にも困るし、耳を塞ぎたくなる。
太鼓と笛の音楽に合わせて踊る人もいて、秀吉がその輪に飛び込んでサル踊りを披露し、みんなを巻き込んで盛り上がる。
「又左も踊れ」と、手招きされて利家も加わるが、リズム感がずれていて、それがまたみなの笑いを誘う。
トンテンカラリンピーヒャラリ……。
踊る人の渦を眺めていると、だんだん頭がぼんやりしてきて、目の前の光景が夢か幻のように流れていく。
トントン。
――ん?
後ろから背中をつつかれて振り向くと、白狐のお面をかぶった町娘がいた。
迷子かな、と思ったけど体つきが大人だった。
ふわりと漂う香りが俺の心をざわつかせた。
――お市様!?
庶民の格好で、髪も無造作に後ろでポニーテールみたいに縛っただけだから分からなかったけど、間違いなくお市様だ。
周囲に目を配りながら踊りを眺める人混みからそっと外れる。
かといって、暗がりはいろいろな意味で危ないから俺は白狐の手を引いて鳥居の脇に連れていった。
彼女の方から指を絡めてくる。
俺はその手をしっかりと握り返した。
おそらく
周囲の人たちも、まさかお城のお姫様がお忍びでこんなところに来ているとは思わないだろう。
「おいち……」
名前を呼ぼうとしたら、人差し指で口を塞がれてしまった。
今宵はあくまでも、祭り太鼓に呼ばれた白狐ということらしい。
何を話したら良いのかまるで思いつかない。
自分の心臓の鼓動がやたらとうるさくて、のぼせたように顔から汗がしたたり落ちる。
じっと見つめ合っていると、お市様が俺の胸に飛び込んできた。
反射的に腕を背中に回して抱き留めてしまったが、心臓が破裂しそうだし、なんか吐き気までこみ上げてきてしまう。
いや、もちろん、嫌なわけがない。
ただ、令和の非モテボッチ陰キャ男子にはあまりにも刺激的すぎて限界を超えてしまったのだ。
固まったまま何もできない自分が情けなくなる。
いいのか。
これでいいのか。
このままでいいのか。
答えを求めていたわけではない。
だけど、お囃子もざわめきも次第に遠くなっていき、お市様と二人だけの世界に溶け合っていくような気がした。
俺はそっと背中に回していた右腕を上げてお市様の髪の房に触れた。
お面の下で、笑みがこぼれたような気がした。
見えないし、声が聞こえたわけでもないのに、幻ではなく俺にはそれが分かった。
ちゃんと伝わるんだ。
これでいいんだ。
俺は静かに髪に指を絡め、ほどき、さらりと撫でた。
白狐が俺の胸に頬を押しつけてくる。
左手で抱きしめるお市様の体の形がくっきりと思い浮かぶ。
その柔らかさにくすぐられた男の本能が自己手中を始めそうになって、俺は一歩退いた。
白狐が首をかしげながら俺を見上げる。
不安がらせないように俺は白狐のお面に口づけた。
いいんだ。
今はこれでいいんだ。
お面の下でお市様が微笑んでくれている。
それが分かるだけでいいんだ。
俺は手を引いて屋台を見て歩いた。
リンゴを売っている屋台がある。
品種改良の進んだ令和の果実と違って、かなり小さい。
俺はそれを二つ買って、飴屋へ持っていった。
「ほい、何にします?」
「これに串を刺して飴を絡めてもらえませんか」
俺の頼みに最初は眉間にしわを寄せていた店主も、俺の指示通りにリンゴ飴が完成してみると、「こいつはすげえや」と興奮していた。
実が小さいのも、かえって持ちやすくてちょうど良い感じだった。
俺はお市様の手に串を握らせ、二人見つめ合って乾杯のようにリンゴ飴を触れ合わせた。
鳴るはずもない澄んだ音が聞こえたような気がした。
同じ物を作ってくれと飴屋に人が集まってきたので屋台を離れ、踊りの輪の方にもどる。
どこへ消えたのやら秀吉も利家の姿もなく、俺とお市様は指を絡めて手を握り合いながらしばらく祭り囃子に耳を傾け、飴をなめていた。
半分ずらしたお面の舌から、かわいらしい舌がペロリと顔を出している。
――もうバレてるんだけどな。
かといって、公衆の面前で高貴な素顔を晒すわけにはいかないのだろう。
酸味の強いリンゴを食べ終えたところで、白狐が足元を気にし始めた。
鼻緒にかけた足の指から血がにじんでいる。
「すりむけちゃったんですか」
お面をかぶり直した白狐がこくりとうなずく。
俺は背中を向けてしゃがんだ。
「乗ってください」
なのに、お市様は俺にもたれかかってこない。
振り向き見上げると、胸の前で手をもみ合わせながらためらっていた。
「遠慮しないで」
ほら、と促すと、草履から足を抜き、俺の背中に体を預けてくれた。
俺は草履を拾い上げながら背中で手を組んで立ち上がる。
賑わう境内を横切り、鳥居をくぐってお城へ向かう。
今夜ばかりは家の軒先に提灯の明かりが掲げられて街が明るい。
背中にお市様の重みを感じる。
組んで支えている手の指がだんだんしびれてくる。
女の人がこんなに重いなんて知らなかったけど、美人だって風船みたいに軽いわけないんだから、しっかりと支えてやらなくちゃな。
それだけ俺に預けられた背中に感じる重さとぬくもりに、俺は勝手に二人の絆を感じていた。
と、不意に俺の頭にお面が乗せられた。
外しちゃって大丈夫なのかと思ったら、耳に息を吹きかけられた。
――うおっ。
思わず首をすくめて体勢を崩しそうになる。
そんな俺の様子が気に入ったのか、それから何度か耳をくすぐられた。
だんだん慣れてきて反応が鈍くなって飽きたのか、そんなイタズラもなくなった頃、背中が軽くなった気がした。
――ん?
どうやら揺さぶられているうちに、眠ってしまったらしい。
大人なんだか、子供なんだか分からないけど、そんなところがとても愛おしい。
――俺はこの人を魔王から守らなくてはならないだ。
清洲城の裏門まで来たら、いつのまにか隣に心結が並んで歩いていた。
「どこから入るんだ?」
「門番は買収して手の内の者に変えてある。おまえはここまでだ」
立ち止まって、寝ぼけ眼のお市様を下ろす。
「わたくし、いつのまに……」
お市様を下ろしたら汗びっしょりだった。
特に、密着していた背中にぐっちょり着物が張りついて気持ちが悪い。
「まあ、汗が」
懐から手ぬぐいを取り出したお市様が俺の顔に額からしたたり落ちる汗を拭いてくださる。
顔面がものすごくいい香りに包まれる。
優しい手つきでまるでくすぐられているみたいだ。
こんなことまでしてもらって余計に汗が出る。
渋い表情の心結が耳打ちする。
「姫様、急ぎませんと」
「では」と、お市様が手ぬぐいを俺の手に握らせる。「これをお持ちになって」
「ありがとうございます」
「飴のように甘い夢を見ていた気がします」と、お市様が俺を見つめて微笑む。
こんなお姫様とお祭りデートしたなんて、俺の方が夢を見ているみたいだ。
――そういえば。
頭にかぶったお面を外してお市様の顔にかける。
「正体、隠してませんよ」
お面の口を両手で隠したお市様が、「あらまあ」と背中を向ける。
「早く行け」と、心結には肩を度突かれた。
――おおう。
転びそうになったのをこらえて振り向くと、堀の橋を渡るお市様の白い手が振られていた。
その姿が闇に紛れて見えなくなるまで俺は手ぬぐいを振っていた。
後日――。
城下のお祭りで評判となったリンゴ飴が甘い物好きの信長に献上された際に、由来を聞かれた飴屋は神社の白狐の置き土産と答えたそうだ。
さすがの魔王も、その白狐の正体までは見抜けなかったらしい。
秋の深まりと共に、尾張周辺の情勢は急激に変化していた。
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