第2話 楽市楽座

 織田信長の天下統一に必要なものは武力であり、その基盤となるのは経済力だ。


 そして、戦国時代の経済と言えば、農業だ。


 尾張国は暴れ川が洪水を起こすために、低地に田んぼは作れず、台地の畑で麦を生産していた。


 俺は神奈川県の三浦半島出身だから、水田が少なく農業と言えばキャベツ畑と思っていたから違和感がなかったけど、主食が米の現代とはまったく違う農村風景だ。


 令和の学校では地理の時間に、村ごと堤防で囲ってしまう輪中について習うが、それも江戸時代からで、残念ながら戦国時代の土木技術では自然に抗うことはできなかった。


 その他の治水方法も、小規模な川の場合はなんとかなっても、木曽三川という圧倒的な大河の力の前では、子供の作った砂浜の城よりも脆く流されてしまうのだった。


 未来で先取りした知識はあっても、だからといってそれを都合良く過去の時代に実現できるとは限らない。


 それが現実だ。


 その代わり俺は実行可能な技術の導入に努めていた。


 たとえば、農具だ。


 櫛の歯のような千歯きで効率的に脱穀をおこない、フォークのように枝分かれした備中鍬びっちゅうぐわで地面に深く突き刺して耕せることを示した。


 ただ、そういった『発明品』も、意外なことに農民からは不評だった。


 織田家の軍師ということで村の長老が俺の話を聞いてくれるものの、武士が農村のことに口を出すのは筋違いということらしい。


「明智様のおっしゃることはごもっともでございますが、こういうのは困ります」


「どうしてですか。仕事が楽になるんですよ」


「脱穀は夫を亡くした女の仕事で、それがいらなくなれば女たちの生活が成り立ちません」


 母親の収入がなくなれば、当然子供も食えなくなる。


「それに、この鍬もたしかに使いやすくていいんですが、そもそもわしらには高くて買えませんし、もったいなくて使えませんよ」


 鉄製農具を作るコストが見合わなければ、普及するはずがない。


 令和の時代でも、最高スペックのゲーミングパソコンは一般家庭用にくらべたら信じられないくらい高価だもんな。


 ただ、それも年月がたって普及すれば、価格も下がってくるものだ。


『高いから使えない』から、『便利さを知ってもらって普及させる』という流れを作ることが大事なんだろう。


 俺は信長に進言して、モデルとして選んだ農村に備中鍬と千歯扱きを下げ渡してもらった。


 そして、未亡人には、代わりに織田家から機織りの仕事を発注してもらうようにした。


 織り上がった布はすべて織田家が買い上げるという契約を結ぶのだ。


 現地から上がってくる『使えない理由』を一つ一つ解決していくことで、安心して使ってもらい、効率的な経営で収穫量を増やしていければその評判が自然と広まっていくというわけだ。


 買い上げた布の使い道は、商人に売り渡すだけでなく、織田家が雇う常駐軍の制服として加工することにした。


 以前、俺が着ていた令和の高校制服に興味を持った河尻秀隆が、それを元に洋服を再現し、織田信長に献上したのだ。


「殿、ご覧ください。南蛮の服を仕立てることに成功いたしました」


 新しい物好きの信長は自分で着物を脱ぎ捨てると、ワイシャツとズボンをさっそく身にまとい、御殿の広間を大股で歩き回る。


 第二ボタンまではだけさせ、ズボンのポケットに手を突っ込んで、昭和のヤンキーみたいな歩き方だが、本人はご満悦だ。


「ふむ、これは動きやすくていいのう。河尻、良くやった」


「ははっ。ありがたき幸せ」


「おい、光秀」と、俺に顎を向ける。「元はその方の服であろう。どうじゃ」


「はい、なかなかの出来映えかと」


 素材は綿百パーセントでやや厚めの生地で、ボタンは木製だが、俺が着ても違和感がないくらいの再現力だった。


「これを農村で織らせた布地で生産させれば、織田家独自の装束として評判になりましょう」


 明治時代の徴兵令で編成された軍隊の制服みたいで、赤備えのように目立つだろう。


「よし、採用だ」


 即断即決の信長は河尻に命じ、清洲城下に仕立て工房を設立させることになった。


「雑兵たちにも衣服を与えれば、喜んで織田家に馳せ参じましょう。これからは戦のたびに招集するのではなく、つねに織田家のために働く兵士を常駐させておく。それが天下統一への基盤となることと存じます」


「うむ、光秀、その方の思うようにするがいい」


 許可を得て、早速河尻のおっさんが作った軍服を秀吉や前田利家にも着させてみた。


「これはいいのう」と、秀吉がくるりとターンしてみせる。「わしも南蛮の服を着れば男前に見えるであろう」


「サルにも衣装ね」と、寧々さんが笑っている。


「俺のはなにやら短くないか」


 二メートル近い大男の前田利家にはシャツの袖もズボンの裾も短すぎてコントの衣装みたいだった。


「又左よ、後で布を足してもらえ」


「いや、でも、そもそもきつくて動きにくいんだが」


 ぴっちり固まってしまって、なんだか昭和の超合金ロボットみたいだ。


 サイズ展開も考えてくれるように、河尻のおっさんに頼んでおこう。


 ただ、この南蛮風衣装のおかげで、織田家に仕えたいという若者が清洲に集まってくるようになったのは事実だった。


 問題は、その兵士たちの給料を支払うための経済発展を急がなければならないことだった。


 たとえば、令和のお金で仮に一人一ヶ月二十万円の給料を保証するとしたら、一万人の常備軍で毎月二十億円のお金が必要になる。


 年間だと二百四十億円だ。


 これはすでに織田家に仕える武将たちへの知行とはまたべつに用意しなければならない金額だ。


 織田家の勘定を担当する家臣たちに試算してもらったところ、一五六〇年段階での織田家の年間収入は令和の価値で三百億円ほどで、二百四十億円を負担する余裕などない。


 要するに、今の税収を二倍に増やさなければ天下統一の第一歩を踏み出すことはできないのだ。


 もちろん、単純にその負担を農民や商人に強いれば一揆が起こってしまうし、かといって、これまでのように戦のたびに兵士を動員するやり方では、今川に対抗できる戦力すら集められない。


 農具の効率化や新田開発で農業生産を増やし、楽市楽座で商工業を発展させる。


 農機具を作る職人が集まれば農村が発展し、さらに需要が増えればその儲けを当て込んで商工業者が尾張国を目指してやって来るだろう。


 そもそも、まだこの時代の人たちにとって、買い物は日常ではない。


 市は月に数度の定期市だけで常設店舗などなく、お金でやりとりするよりも物々交換の方が一般的には信用されている。


 数を数えるという令和の子供ですら当たり前のことができない大人だってたくさんいる。


 令和の学校で習うように――『信長のアレ』きっかけで、俺は歴史だけはまじめに勉強していた――お金自体を中国の明から輸入していたくらいだ。


 逆に言えば、そんなまっさらで未熟な社会に高度な商業の仕組みを取り入れられれば、相当なアドバンテージになるに違いない。


 ライバルのいない土地に出店するコンビニやファミレス、大型ショッピングモールを想像してみればいい。


 一歩先んじるだけでも、周辺の強大な戦国大名をまとめて吹き飛ばせるほどの莫大な軍資金を得られるだろう。


 問題は、商人ですら、経済学を理解できないことだった。


 とはいえ、新しいやり方には必ず抵抗勢力が現れることくらいは、この時代に少しは慣れた俺には想定の範囲内だ。


 元々楽市楽座自体、織田信長の発明ではない。


 史実では、今川や六角などの大名の城下ですでに行われていた制度を織田家も後から取り入れたに過ぎないのだ。


 ただ、一五六〇年の時点ではまだ斬新な取り組みだったから、軍師である俺の発案として先取りして成功すれば『明智光秀』の手柄となって名声も高まるはずだ。


 ここは遠慮せず強引に押していかなければならない。


 俺は頻繁に伊勢屋や能登屋と会合を持つようになった。


「ほう、常夜灯の次は、座の特権を廃止ですか」


 案の定、楽市楽座の理念を説明しても、伊勢谷の声は重く沈んでいる。


 能登屋は率直に頭をかく。


「それは無理でございましょう。商人の反発は相当なものでございますよ」


 ただ俺は商人との交渉のコツをつかんでいたから焦らなかった。


「これまでの特権を上回る見返りがあれば納得するのではありませんか」


「たとえば、どのような」と、能登屋が半信半疑ながらも食いつく。


「織田家は今、機織りの仕事を農村に発注しています。そのお役目の担い手として、既存の商人たちを指名するのはどうでしょうか」


 新規事業者を受け入れる一方で、従来の座の組合員は御用商人として利益を分かち合うのだ。


 だが、両者ともに表情は渋い。


 特に能登屋にとっては期待外れだったようだ。


「それだけでは見合いませんな」と、正直な反応を見せる。


「他にも、これから新しくおこなう事業に優先的に参加してもらえるように取り計らいます」


「具体的には」


「天下統一に乗り出した織田家が広げた勢力範囲が商圏となります」


「天下統一!」と、伊勢屋が絶句した。


 能登屋が首の後ろを撫でる。


「これはまた大それたことでございますな」


「狭い尾張一国の商売にしがみつくか。もとすべてを手中にするか。少ない利益を奪い合うのではなく、むしろ積極的に大きな売り上げを狙いに行く。京商人や南蛮商人を今以上に呼び込みましょう。織田家につくのであれば、物流を自由にし、山賊や海賊の取り締まりをおこなって商業活動を保護いたします」


「しかし、その場合、織田家の取り分はどうなるのですか」


「百の一割は十ですが、万の場合は一分いちぶでも百になります。商業が盛んになれば運上金の割合を下げても織田家の税収は増えます。しかも、商人の取り分は最初の九十に対し、九千九百。みなさんにとってはどちらが儲かる話ですか」


 単純な算数の計算ほど説得力は大きい。


 伊勢屋はうなっているが、能登屋は前向きな姿勢を示し始めていた。


「計算通りに行くかはさておき、我ら商人はもともと機を見て賭に出なければ儲けられません。織田家がつまずけば尾張の商人もつぶれます。ならば、ここはお殿様をかついだ方がいいのかも知れませんな」


 能登屋に促されて伊勢屋も渋々ながら俺の話を受け入れてくれた。


「分かりました。織田家が約束を守るのであれば、我々も協力いたしましょう」


「ありがとうございます」と、俺は二人に頭を下げた。


「しかしなんですな」と、能登屋が曖昧な笑みを浮かべる。「明智様はお武家様とはまったく考え方が違いますな。こんなに計算のできるお武家様はおりませんよ」


 義務教育レベルの計算だけど、学校なんてないこの時代の人にしてみたら軍師にふさわしい天才に見えるのかもしれない。


 俺にとっては都合のいい誤解だ。


 伊勢屋が腕をさすりながら自分に言い聞かせるようにうなずいている。


「明智様の話は夢があって、刺激になると、皀莢さいかち屋さんがおっしゃってましたが、まったく、その通りですな」


「能登の畠山家や温井家ともお取引をさせてもらってきましたが」と、能登屋もしみじみと語る。「儲けを奪うことばかりで、我々の利益などまったく考慮してくださらなかったですからな。私は織田家につきますよ。明智様、信じてよろしいのですな」


「はい。もちろんです」と、俺は二人を交互に見つめた。「お二方の儲けが織田家の収入になり、織田家の発展がお二方の繁栄です」


 あまりにも話が大きすぎて漠然としていても、前向きに受け入れてもらえて、これで次の段階に進むことができる。


「そこでさっそくなのですが」と、俺は話を切り出した。「買い占めていただきたい物があるのです」


「皀莢屋さんの言っていた塩でございますか」


「いえ、違います」


 俺は近い将来の作戦行動に必要な資材を商人に発注した。


   ◇


 戦国時代は歴史的に見ると寒冷期で秋から冬への移り変わりが早く、尾張国は雪は降らないが冷え込みがきつかった。


 基本的に部屋全体を温めるような暖房器具はない。


 火鉢は手先しか暖まらないし、炭や薪を手に入れるのだって意外と苦労する。


 平地の木々は村の連中がとっくに切り倒して使ってるし、山も令和と違って禿げ山だ。


 川に流れてきた木を拾って乾かして使ったりもする。


 昔話で山に柴刈りに行くおじいさんがいるけど、たかが木の枝が商品として成り立つってことなのだ。


 暖房がないのなら厚着をすれば良いのだが、織田家で採用されたシャツにズボンの高校風夏服に、綿を入れた『どてら』という着物を羽織ると、炬燵で勉強する浪人生みたいでなんか落ち着かないので、俺は詰め襟学生服とコートを衣装担当の河尻のおっさんに発注していた。


「こんな感じですよ」とイメージを描いて試作品を作ってもらったりして、デザイナー気分で楽しかったし、試着した秀吉が中学校に入学したばかりの少年みたいに袖がだぶついていて、寧々さんも大笑いしていた。


「しかし、これは戦場で怪我をしなくて済むのう」


 裏地もついた厚手の生地はたしかに丈夫で秀吉は相当気に入ったようだった。


 令和でも、制服は三年間毎日着るわけだけど、全然ボロくならないもんな。


 制服屋さんの技術がすごいんだろうけど、ありがたく真似をさせてもらおう。


 俺は乗馬の練習も始めていた。


 脚で稼ぐ『足軽』ではなく、殿様にお目通りがかなう上級武士として、さすがに徒歩だけでは格好がつかなかった。


 身軽で運動神経抜群の秀吉はすぐに乗りこなしていたけど、俺はどうも馬と呼吸が合わなくてなかなか上達しなかった。


「馬になめられておるぞ、おぬし」


 まったく秀吉の言うとおりだった。


 苦手意識が出てしまうと腰が引けて、一度落馬してからは、ますます怖くなってしまっていた。


 とは言っても、やらないことにはできるようにならないので、同世代の馬番に頼んで綱を引いてもらいながら、なんとか毎日少しずつ練習を続けていた。


 朝、薄氷が張るようになった頃、俺は秀吉と共に慣れない馬で三河へ向かった。


 岡崎城から使者が来て呼ばれたのだ。


「酒井殿、本多殿、お久しぶりでございます」


 城内御殿で再会した二人の表情は暗かった。


「今川の軍勢が国境くにざかいあたりで狼藉ろうぜきを働いておりましてな」


 酒井忠次によれば、せっかく収穫して松平家に納めるはずだった農村の米を奪っていくのだという。


 これは今川家としての公式な軍事行動ではなく、末端の家臣団が無断でおこなっている小競り合いで、目的を果たすとさっさと引き上げてしまうために、取り締まりが難しいのだそうだ。


「困ったことに、略奪された土地では、敵ではなく守ってくれなかった自国の大名への不満が高まるのです」


 松平家のせいではないのだが、農民たちはそれでは納得しないのだろう。


 上に立つ者が守らないのなら、いっそのこと他国の兵と組んでしまうことすら考えるかも知れないわけだ。


 主従関係にあるわけではないのだから、何の義理もないという理屈だ。


 実際のところ、三河と遠江の間に分かりやすく線が引かれているわけでもないし、国境の村が離反すれば、一気に雪崩を起こす危険性もあるのだ。


 本多忠真がため息をつく。


「すでにいくつかの村で一揆が芽生えていると聞き及んでおります」


「なるほど」と、腕を組んで俺はたずねた。「六太郎忠勝はどうしていますか?」


「もう、『平八に二つ足りぬ』とは言わせぬと、毎日鍛練を重ねて、最近はわしも負かされるようになってきております」


「そんなにも上達していますか」


 俺の乗馬が下手なのは黙っていよう。


 言わなくても見りゃ分かるだろうし。


「六太郎は今榊原康政と組ませて一揆勢の物見に行かせております」


 影武者二人が本物として活躍し始めている。


 ただ一人、松平信康――世良田村の作兵衛――だけは本物になりきれていないようだった。


「ここは是非、殿自らのご出馬を」と、酒井忠次が進み出るが、作兵衛信康は顎の無精髭を引っかくばかりでそっぽを向いている、


「俺に文句言われても困るぜ。米がねえなら麦でも雑穀でも食えよ」


 マリーアントワネットみたいなことを言っているけど、殿様になって贅沢を覚えたのか丸々と太って肌も艶がいい。


「そんなに太ったら、鎧も入らないんじゃないのか」


 俺の嫌味にもまるで動じない。


「俺はいくさになんか行きたくねえよ。久作と六太郎に行かせりゃいいんだ」


 三人の中では『アニキ』と呼ばれていたから殿様の影武者にしてやったわけだけど、六太郎の方がふさわしかったのかな。


 今さら遅いけど、なんとかしないとな。


「作兵衛が何もしないと岡崎に連れてきた連中だって、今川に奪われるかも知れないんだぞ」


 信長に許されて尾張から移住してきた連中は今川との最前線にいるのだ。


「おまえのおっかさんが今川の連中に苦しめられるのをおまえは放っておくのか」


「そんときは行くけどよ。まだそこまでは来てないんだろ」


 と、そのときだった。


「大変だ!」と、物見に行っていた六太郎忠勝と久作康政が駆け込んできた。


「何事か」と、本多忠真が縁側に出た。


「敵は今川じゃない」と、榊原久作康政が叫ぶ。「武田です」


 ――なんだって!?


「それはまことか」と、酒井忠次も前のめりに膝を立てる。


「間違いありません」と、本多六太郎忠勝が声を張り上げた。「武田菱の家紋と、読めないっすけど、漢字がいっぱい書いてある旗印を見ました」


《疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山》――風林火山――の旗だ。


「三河と遠江の国境で村を襲っていたのは今川ではなく、武田でした。今川方もこちらが狼藉をおこなっていると思い込んでいたらしく、今川家臣朝比奈殿に使者を送って話し合いを持ちましたところ、お互いに誤解を解くことができました」


「そうか、そうであったか」


「今川方は同盟を破られたと武田側に抗議していますが、甲斐の兵は略奪を止める気配はありません」


 正式な旗印を掲げているということは、単なる略奪でなく、武田家が認めている軍事行動だということになる。


 信濃方面への出兵だと思っていたのが、大きな誤算だった。


 塩止めの噂の火元はこれだったらしい。


 今この段階で武田に攻め込まれたら弱体化した松平家などひとたまりもない。


 ――いや、だからこそ攻め込んできたのだ。


 武田信玄なら、桶狭間の結果を耳にして黙っているはずがない。


 弱った者は叩き潰す。


 それが戦国の定めだ。


 なのに、影武者作兵衛には危機感がない。


 史実では三方原の合戦で大敗した徳川家康は浜松城に逃げ込んだ際に脱糞していたそうで、それを絵に描かせて後の戒めにしていたというが、影武者作兵衛信康は太った自分の姿を見つめ直すつもりなどさらさらないようだ。


「おい、作兵衛」


 今まで黙っていた秀吉が口を開いた。


「おぬし、この前までは農民なんかやってられるかと家の仕事もせんで遊んでおったろう。『俺も殿様に生まれてれば良かったのにな』なんて言ってたではないか。それが実際に殿様になったら、ただ楽をするだけなのか」


「だって、そうだろ。殿様ってえのは、うまいもんくって、きれいなお姫様とイチャイチャしてりゃいいんじゃんかよ」


「その代わり、領民どもの安全を守らなければ別の殿様にすげ替えられるだけだ。桶狭間でおまえが松平元康にやったようにな」


 影武者信康はわざとらしく脇息に肘をついて秀吉をにらみつけた。


「じゃあ、そうしろよ。俺はもういいよ。いつでもやめてやるよ」


「やめることは許されぬ。武士の最期は死と決まっておる」


 秀吉は立ち上がって刀を抜いた。


 足軽大将になった時に信長から授けられた立派なこしらえの刀だ。


「お館様にいただいたこの刀。切れ味を試すにはちょうどいい」


「羽柴殿」と、酒井忠勝が刀に手をかけ膝を立てる。「お待ちくだされ」


「こんな輩に忠義立てすることはあるまい。どうせ影武者だ。代わりならいくらでもおるであろう」


 そして、作兵衛信康の胸に刀を突きつけた。


「世良田村で見出した時から、こいつはつまらん男だった。わしは小僧の頃に家を飛び出し、放浪の末に織田家に拾われた。それ以来、ただの雑兵から出世して、いずれは一国一城の主になるとつねに夢を見てきた。そのためならなんでもしてきた。汚いこともずるいことも人をだますことも」


 あげくに、自分の性癖を満たすために寧々さんを寝取らせようとしてたんだからな。


 そんな駄目男が偉そうに語る姿も滑稽ではあったが、秀吉の目つきは鋭かった。


 だが、どんな言葉も影武者信康には響かないらしく、ふてぶてしい表情のまま虚空を見上げていた。


 と、その時だった。


 縁側に飛び出た秀吉は、中庭に控えていた榊原久作康政の胸ぐらをつかんで引っ張り上げると首筋に刀を当てた。


「おぬしがやめるというなら、まずはおぬしの代わりにこいつらを殺す。影武者にさせたわしにも責任があるからな」


「あ……あにき」と、久作の声が震えている。


 いくら影武者として生まれ変わったつもりでも、性根は変わらないのだ。


 窮地に陥れば馬脚を現す。


 久作の足元で本多六太郎忠勝は刀に手をかけ、秀吉を見上げている。


「おぬしは少しは見所があるようだな」と、六太郎に視線を向けると、いきなり顔面を蹴りつけた。


 砂利の上に転がる六太郎に向かって久作を投げつけ、刀を鞘に収めたかと思うと、二人の上にまたがった秀吉は容赦なく殴りかかった。


 拳から血がにじみ出てもかわまず二人の顔面を殴りつけ、悲鳴を上げる隙もなくぐったりとなってしまう。


 それでも秀吉は手を止めない。


「こんなことでいくさで生き残れると思うのか。武田だろうと今川だろうと、勝たねば飯も食えんし女も抱けぬ。そんなへっぴり腰で敵など倒せると思うのか」


「あ、あにき」


「た、たすけてくれよ」


 弟分たちの哀れな声もかすれて聞こえなくなってしまった。


 秀吉は立ち上がり、ぐったりとした二人を足蹴にすると、再び刀を抜いて躊躇なく久作の腕に突き刺した。


「うぐぉっ、いってえよぉクソ」


 久作を蹴飛ばし放置した秀吉は、鮮血のこびりついた刀を握りしめたまま縁側から上がってくると、影武者信康に切っ先を突きつけた。


 血の臭いに鼻をひくつかせ、腰を抜かした信康の股間から湯気が立った。


「漏らしおったか」


 秀吉は畳にできた小便の水たまりに刀を突き立てると、影武者信康の首根っこをつかみ小便沼に引き倒す。


 顔面を押しつけられ、自ら出した沼に溺れそうになった作兵衛は手足をばたつかせながら顔を上げた。


 そこには刀の刃が迫っていた。


 今度は尻から悪臭が漂い始めた。


 史実を再現しなくてもいいのに脱糞したらしい。


 秀吉は惨めな姿をさらす作兵衛を蹴飛ばし、縁側から転がり落とすと、畳から刀を抜いて三人に突きつけた。


「立て、おぬしら」


 うめくばかりで誰も立ち上がれない。


 刺された腕を押さえながら久作康政が泣き言をわめく。


「ちきしょう、なんてことしやがるんだよ」


「筋は外してある。そんなもんかすり傷だ」


 まったく意に介さない秀吉は今度は俺に迫ってきた。


「わしは尾張に戻って武田の襲来をお館様にご報告する。おぬしはこいつらを押し立てていくさに出ろ。おぬしもこいつらと一蓮托生だ」


 ――仕方がない。


 影武者を提案したのは俺だ。


 これくらいのことをなんとかできなければ、この先の野望など実現できない。


 すべてはお市様のため。


 俺の心にはつねに本能寺があるんだ。


「一つだけ、頼みがあります」


「なんじゃ」と、秀吉は三人に向かって唾を吐き捨ててから俺をにらみつけた。


「お館様は三河に援軍を派遣すると思います。その際に、伊勢屋さんに調達をお願いしていた物資を輸送していただきたいのです」


 俺はその方法を秀吉に伝授した。


「ほう、なるほど、それはおもしろい」


「あと、資材の調達はそのまま続けるようにお伝えください」


「あい分かった。こいつらのしつけ、しっかりやっておくのだぞ」


「それは酒井殿と本多殿がうまくやってくれますよ」


「わしはおぬしの話に乗った。足軽大将になったくらいでくたばるつもりはないからな」


「寧々さんのためにも、全力を尽くしますよ」


「全力を尽くしても搾り取られるからのう」と、いきなりサルがのろけ話を始める。「いくら体があっても持たぬわい」


 はいはい、そうですか。


 俺にはまだ縁のない話だけど、いつかはお市様と……。


 だが、今は浮かれている場合ではない。


 目の前に迫る強敵に立ち向かわなければならないのだ。


 秀吉が去った岡崎城で、俺は酒井忠次、本多忠真と共に松平の家臣団を前に軍議を始めた。


   ◇


 俺は伊勢屋と能登屋に木材の買い占めを依頼していた。


 木曽川流域の産地から三河や遠江まで広範囲に買い付けをしてもらった。


 当然商人の間で噂が広まり、価格が上昇し始める。


 それでも構わず買い付けを続けるように頼んでいたのだ。


 木材の価格は以前の二倍以上になり、品薄で建築用の良材はすでに手に入らなくなっていた。


 これには二つの目的があった。


 まずは、相場を混乱させること。


 織田家が材木を買い占めることで注目が集まる。


 商人たちが尾張にやってきて楽市楽座の制度を知れば、計算の速い連中はすぐに意図を理解するだろう。


 商人からは搾り取ることしか考えていない他の地域で商売をするより、尾張で織田家と組んだ方が確実に儲かるという噂が広まれば、ますます経済格差が広がっていく。


 相場が混乱すればするほど織田家に有利になるのだ。


 始めてからわずかな期間だったが、楽市楽座の効果は思った以上に大きかった。


 そして、もう一つの目的は、もちろん合戦資材の確保だ。


 実は、今回の武田の侵攻は、俺にとっては好都合だった。


 というのも、遠江の材木問屋まで巻き込んだことは、当然今川の怒りを買っていた。


 当主の氏真は『隼ストライカー瞬』の続編を贈ってご機嫌を取ってあるが、桶狭間で生き残った義元は再び尾張攻略の準備を進めようとしているとの情報をつかんでいた。


 しかし、その際、木材の高騰が足かせとなって行動を妨げることに成功したのだ。


 軍需物資を運ぶ荷車や陣地を構築するためには当然材木がいる。


 だが、それが以前のように手に入らないというのであれば、作戦行動は起こせない。


 しかも、第三者である武田の侵攻で、織田家への矛先が勝手にそちらに逸れたのだ。


 最前線になる松平の連中にとっては災難だが、織田家にとっては天の恵みだった。


 影武者当主作兵衛信康には脅しをかけたが、俺と秀吉には勝算があったのだ。


 買い占めた木材はただ眠らせておいても意味がない。


 俺は秀吉と相談して、『墨俣一夜城』の予行練習をおこなっていた。


 史実では、川の上流で切り出した材木をいかだにして下流へ流し、それをそのまま城の建設に利用したと言われている。


 しかし、実際にやってみると、そう簡単にはいかないことが分かったのだ。


 まず、筏を流すための熟練した職人を集めるのが難しかった。


 木材を扱う業者も当然同業者組合の『座』で団結していて、よその連中との取引には慎重だし、そこに属する職人達はいくら金を積んだからと言ってすぐに用件を聞き入れてくれるわけではない。


 しかも、筏を組んで流してみても、結局、下流で受け取った材木を城の建築に使うには、相当な人員が必要であることが分かった。


 以前、嵐で崩れた清洲城の城壁をまだ藤吉郎と名乗っていた秀吉に修理させたことがある。


 細かく区分けした部分に人夫を配分して完成を競わせることで、短期間での工事が完了したのだが、同じことを城全体でやろうとすると、逆に人だらけで、資材の引き上げや加工場所がなくなるのだった。


 理論と実践の食い違いを目の当たりにして、俺はやり方を根本から変えなければならないことを悟った。


 俺と秀吉は、その改良版を今回の対武田合戦で投入しようとしていた。


 五日後、俺が岡崎城で作戦を練っている間に、秀吉が指揮する織田家からの援軍が二千人到着した。


 これも着手していた『常備軍』の効果だった。


 戦国時代の雑兵は戦が起きるたびに呼び出される召集兵だが、給料を払って織田家専属の傭兵としてつねに城下に住まわせる制度を始めたのだ。


 だから、今回の動員もすぐに対応できたのだ。


 俺の脳内モニターでおこなった『信長のアレ』によるシミュレーションでは、武田の軍勢は一万人程度だが、二千人でも精鋭であれば、松平の兵と合わせて充分対抗できるはずだった。


 厭戦気分の漂っていた岡崎城は織田家の援軍を見て士気ががらりと変わった。


「信康様、これで我らも武田と戦えますな」


 酒井忠次が続々入城してくる兵士たちを眺めて満足そうにうなずいている。


「仕方がない。やるしかねえか」


 弱気だった影武者作兵衛も松平家当主としての覚悟を決めたようだった。


 久作康政や六太郎忠勝も武者震いを止められずにお互いの肩を小突き合っている。


 本多忠真が織田軍の装備を指して俺にたずねた。


「あの背中に背負っている板は何でござるか?」


 織田家の兵士たちはみな令和のホームセンターで売られているような細長い板を背負って来たのだ。


「あれは事前に加工しておいた資材です」


「盾にしては少々柱に近いようにも思えますな」


「はい。盾としても使える資材をそのまま城壁として砦を建築するのです」


 支柱を使って地面に固定して使う『垣盾』と呼ばれる防具を、そのまま建築資材に使おうというのだ。


「ほう、なるほど」と、本多忠真が拳を打ち合わせる。「現地で加工することなく、並べるだけで素早く築城できるというわけですな」


 そのために伊勢屋に材木を買い集めてもらい、楽市楽座で呼び集めた製材職人を使って大量に加工させたのだ。


 大きさを規格化することで、そのまま築城に利用できるのも俺の工夫だった。


 事が起きてから対応するのではなく、日頃から備えておけば即応できる。


『疾きこと風の如く』は武田の旗印だが、それを上回る速度で兵を展開できれば勝機は必ずあるはずだ。


 と、その時だった。


 俺の脳内にアラートがポップアップした。


《今川と北条が武田に対する塩止めを宣言しました》


 おお、ついに来たか。


 商人たちの噂に上がっていた話が現実のものとなった。


 武田に国境くにざかいを荒らされた両家が制裁に踏み切ったのだ。


 これは俺たちにとって追い風だ。


 図らずも、織田松平連合軍、今川、北条の三つの勢力が同時に武田に立ち向かうのだ。


 戦力の分散が起きれば当然有利だし、武田の兵が疲弊すれば甲斐の国力の低下は免れない。


 この戦いに勝てば、数年は武田の軍事行動を止められるだろう。


 俺は秀吉を呼び、酒井忠次や本多忠真に状況を説明した。


「ということは、願ってもない好機が訪れたということでございますな」と、酒井忠次が膝をたたく。「敵だった今川が一時的であれ味方になるとは」


「ここで武田を追い払えば松平の名も上がりましょうぞ」と、本多忠真もニヤリと笑みを浮かべていた。


「よし、では、飯を食ったら、早速兵どもを前線に向かわせよう」


 勢いよく立ち上がった秀吉は、作兵衛たちの頭を次々にはたいて回った。


「おい、おまえら、やる気になったか」


 腕を刺された恨みを持つ久作も、ぎこちない笑みを浮かべながら立ち上がって秀吉をにらみつけた。


「ああ、やってやるよ。おまえよりも出世して、今度は俺がおまえを蹴飛ばしてやるさ」


「ふん、威勢がいいな」と、秀吉も笑う。「戦場(いくさば)ではびびって漏らすなよ」


「うるせえよ」と、三人がそろって言い返す。


 酒井忠次が松平家の軍勢に告げた。


「天は我らに味方している。この商機を逃さずに、松平の名を天下に知らしめようではないか。みなの者、出陣じゃ!」


「おーう!」


 三河北方へ向かって松平の軍勢が出発し、秀吉の指揮で織田家の精鋭も移動を開始した。


 こちらは前線に砦を構築する役割を担っている。


「事前に練習したことを現地で再現できるか。それが今回の作戦の要です」


「分かっておる」と、秀吉も胸を張る。「一日で城を築いて武田どもの鼻を明かしてやるのが楽しみじゃ」


 織田家の軍勢が築いた城へ武田の目が向いている隙に、松平の兵が横から奇襲をかける。


 それが今回の作戦だ。


 うまくいけば、今川の兵も挟撃に加勢してくれるかもしれない。


 事前に敵に情報が漏れることを警戒して今川への正式な要請はまだおこなってはいない。


 だが、武田の動きを伝えれば、自然にそういう流れができあがっていくはずだ。


 そして、俺は次の一手を繰り出すために、織田軍から離れて一人、遠江に向かった。


 今川義元のお膝元で、織田家に有利な交渉をおこなうためだ。


 これが成功しなければ、今までの努力が水泡に帰してしまう。


 戦国最強の軍師としての試練は、肉体のぶつかり合う戦場ではなく、頭脳で勝負する情報戦にあるのだ。


「警護はお任せを」


 ――うおっ。


 いつの間にかすぐ後ろに心結が控えていた。


 質素な着物に町娘ふうに髪をまとめた姿は城下町の風景に溶け込んでいた。


「それはかたじけない」


「お市様から、一人にするなとのご命令ですので」


 それは、俺に危害が加えられることを心配しているのか、それとも、俺が外で別の女に手を出すのを心配しているのか、どっちの意味なんだろうか。


「その時はおまえの粗末なものを切り落としてやる」


 ああ、そうですか。


 そんな心配はいらないんだけどな。


 なにしろ俺は、令和なら非モテボッチ陰キャ男子だったんだから。


 戦国一の美女を裏切るなんて、そんな贅沢な考え、頭の片隅にもあるわけがない。


 その代わり、俺の心にはつねに本能寺がある。


 お市様のために、その日に向かって、一歩一歩進み続けているだからな。


「何をニヤついている」と、背後から心結にとがめられる。


 ――こいつ、なんで後ろから俺の表情が分かるんだ?


「いや、べつに」


 まったく油断のならない忍びだよ。


 それだけ頼りになるのはありがたいんだけどな。


 こいつと打ち解けるにはまだまだ時間がかかりそうだ。


「そのようなときが来ることなどあり得ぬから、余計な心配はするな」


 心を読み取られているようじゃ、軍師としてもまだまだらしい。


 かろうじてため息をこらえつつ、俺は東海道を東へ歩き続けた。


   ◇


 俺が遠江へ向かっている間、脳内モニターに織田松平連合軍の中継映像が刻々と映し出されていた。


 岡崎から東海道を進んで浜名湖手前で北上し、長篠ながしの周辺に到着した秀吉隊は持参した資材で砦の構築を始めた。


 これは一五七五年の長篠の戦いで武田の騎馬隊を防ぐために馬防柵を築いたとされる史実を先取りした作戦だ。


 武田軍は信濃国しなののくに諏訪すわから塩の道と呼ばれた秋葉街道を南下し、遠江の国境くにざかいを荒らしつつ三河へと軍を転進していた。


 皮肉にも、この塩の道を南下して侵入したことが『塩止め』を引き起こしたのだ。


 武田軍は突如現れた織田軍が目の前でいきなり砦を築いてしまったことに驚嘆していた。


 武田の軍勢を率いる武将は馬場信房と飯富昌景だ。


 脳内にステイタスがポップアップする。


《馬場信房:武田四天王:統率86、武勇77、知略76、政治77》


《飯富昌景:武田四天王:のちに飯富虎昌の謀反により山県昌景と改名、赤備えを引き継ぐ:統率88、武勇94、知略69、政治63》


 この二人はもちろん『信長のアレ』で敵に回すと、赤道直下に引っ張り出した氷山のごとく味方が溶けていくやっかいな猛将だ。


 だが、この二人でさえも、織田軍の一夜城構築を予想できなかったのだから、作戦は成功だ。


 武田の雑兵たちは魔術を見せつけられたかのように明らかに動揺し、戦意を喪失している。


 井桁に組んだ木材で建てた仮櫓から秀吉が物見に来た敵に向かってはやし立てている。


「やい、武田ども、驚いたか。木下藤吉郎改め、織田家の足軽大将羽柴秀吉ここにありだ。かかってこられるものならかかってこい!」


 木の上ではしゃぐサルにしか見えないが、それがかえって武田の武将たちに歯噛みをさせていた。


 砦からは散発的に鉄砲も発射され、武田兵の動きを牽制している。


 ちなみに、史実における十五年後の長篠の戦いで、織田の三段構えの鉄砲隊に対し、武田の騎馬隊が旧式の戦い方を挑んで敗戦したようなことが言われるが、すでに一五六〇年の段階で関東にもかなりの量の鉄砲が出回っていた記録が残っていて、武田の雑兵だって鉄砲を扱っていた。


 結局のところ、経済力を背景とした物量の差と、地の利を生かした作戦が勝敗を決めたとみるべきで、それはたいていの合戦と変わらない要因ということになる。


 勝因を誇張し敗者を無知無能と貶めがちな背景として、身分の低い歴史記録者が雇い主である殿様を必要以上に賞賛しがちな時代背景を考慮する必要があるのだろう。


 と、そこで画面が松平家の動向に切り替わった。


 北上し長篠へ直行した織田軍に対し、松平の軍勢はいったん遠江国境へ進み、そこで兵を止めた酒井忠次は今川勢が守る二俣城へ本多忠勝と榊原康政を使者として送った。


 共同で武田に立ち向かうために一時的に手を結ぶための交渉だが、当然ここでは桶狭間後の両家の断交が問題となる。


 なにしろ今川の傘下にあった松平が織田についたのだ。


 今川義元もこれをすんなりと認めるはずがない。


 下手すれば話も聞かずに死者を切り捨てるかもしれない。


 そんな火中の栗を拾いに行かせるのは影武者上がりの二人には気の毒だが、この役目も果たせないようでは、戦場での活躍など期待できないだろう。


 度胸をつけさせるために、俺が酒井忠次に提案しておいたのだ。


 もちろん、勝算がなかったら、そんな無茶はさせられない。


 そこで軍師としての俺の出番だ。


 将は戦場に立ち、軍師は影として支える。


 浜名湖を渡って曳馬ひくま城と呼ばれていた浜松城へやってきた俺は、城下の商人たちに面会を申し込み、単刀直入に商談を切り出した。


「織田家の所有する木材を今川家に販売したいので、お取り次ぎをお願いします」


「な、なんですと」


 商人たちが驚くのも無理はない。


 敵対する織田家が、木材の枯渇で悩んでいる今川にその木材を譲り渡すというのだ。


 しかも、自分たちからその取引を持ち出すことに、遠江の商人たちが警戒心を抱くのも当然のことだった。


 おまけに、すでに織田家の買い占めにより木材価格の相場は三倍以上も高騰しているのだ。


「いったい、そのお取引の条件はどのようなものでございますか」


 そろばんを手にする商人たちに、俺は具体的な数字を告げた。


 買い占め前の相場に対し、約二倍程度の金額だ。


「は、はあ、さようで……」


 一瞬あっけにとられたような表情を見せた商人たちだが、思ったよりも弱気な価格に、さらに警戒心を強めたようだった。


 ――いいぞ、思惑通りだ。


 提示した金額に偽りはない。


 三倍に高騰した現状に対し、当初の二倍の価格。


 受け入れられれば、間違いなくその値段で譲り渡すつもりだし、後から揉めて信用を失うのは商取引では下策だ。


 だが、もちろん、裏もある。


 俺は、もう一つの取引を持ち出した。


「みなさん、塩は余っていませんか?」


 その一言で浜松商人たちは黙り込んだ。


 今川と北条が武田に対し『塩止め』を宣言したことで、行き場を失った塩がだぶつき始めているのだった。


 相場は風よりも俊敏に動く。


 殿様の決定に文句を言うことはできないが、一方でまた、これまで滞りなくおこなわれてきた取引が停止されれば商人たちが不満を抱くのは当然の筋だった。


 今川と北条の方針決定はすでに京都の商人たちにも伝わっていて、一部地域だけの暴落では済まなくなっているのだ。


 塩を抱え込んだ商人はこのままだと破産してしまう。


「皆さんの塩を、織田家が買い取りましょう」


 疑り深い目で俺をなめ回していた商人たちの表情が一気に晴れやかになった。


「なんと、塩を引き取っていただけるのですか」


「現在の相場に多少の色もつけましょう。初めての取引に対する信用割増分ということで」


 相手に話を受け入れてもらうための手数料として考えれば、多少の割り増しでもこちらに損はないという計算だ。


 そもそも木材相場で資金を二倍以上に増やし、半値以下になった塩を買うのだから、腹の奥では笑いが止まらないのだ。


 それでも俺は遠江商人にとって渡りに船の救世主なのだ。


 浜松の商人たちを取りまとめる長老格の遠州屋彦左衛門が丸い頭を俺に下げた。


「明智様はお武家様にしては、我々以上に商売上手でございますな。しかも、商人の信用にまで配慮いただけるとは、話が早い」


 他の連中も皆一斉に安堵の息を漏らす。


「遠州屋さんから義元公に木材調達について目処めどがついたとお伝えください」


「かしこまりました。すぐに手配いたします」


 緊張が解けたのか、遠慮のない笑みを浮かべた遠州屋が一言つけ加えた。


「もちろん、織田家のご厚意であることは充分に強調させていただきます」


 やはり商人は飲み込みが早い。


 これで一時的な協調作戦が成立するだろう。


 さすがの武田も、織田、松平、そして今川の三者を一度に相手にするほど愚かではないし、おそらく今川の動きを察知した北条も作戦行動に移るだろうから、実際の戦闘が始まる前に撤収が始まるに違いない。


 まったく損失を出さずに、織田家の威光を誇示できるというわけだ。


 戦場に赴くことなく、軍師としての俺の仕事はこれで終わりだ。


 俺は浜松商人に楽市楽座の情報を伝え、帰路についた。


 このたびの商取引で新しい経済の仕組み、そしてその威力を理解した商人たちはみな織田家のために働こうとするだろう。


 噂はさらに噂を呼び、日本中の商人が織田信長の名を知るだろう。


 戦わずして、すでに勝利をつかむ。


 孫子の時代から変わらぬ兵法のかなめを俺が実現する。


 半兵衛よりも官兵衛よりも先に俺が戦国最強の軍師になってやる。


 東海道を西へ向かう俺の背後に心結みゆが付き従っている。


「思惑通りに話が進んで浮かれておるようだな」


 べつに鼻歌を歌っているわけでもないのに、やはり見抜かれているらしい。


「まあ、うまくいきすぎかもしれないですがね。こういうときがあってもいいではないですか」


 どっちが主従だか分からないが、武術では圧倒的に格下だという自覚があるせいか、どうも敬語で話してしまう。


「少しは謙虚になった方がいい」


「べつに調子に乗っているわけではありませんが」


「だからだ」


 ――ん?


 どういうことだ?


「気づいていないようだが、さっきからずっと、おまえをつけている連中がいる」


 なんだって?


「この先、往来の途切れたところで襲うつもりだろう」


「途中の茶屋で休憩して、やり過ごすか。相手を把握できるだろうし」


「そう甘くはない。すでに行く手にも刺客が待ち構えているだろう」


 ――なんてことだ。


「いざというときは、わたくしが命に替えても明智様をお守りいたしますゆえ、とにかく遠くへお逃げください」


 見下げられていた相手に、急に敬語で言われるとかえって恐怖が倍増する。


 忍びの心結も覚悟を決めているとは、つまり、そういう事態だ。


 絶体絶命の危機。


 令和の引きこもりひ弱男子にこの場を切り抜ける秘策などあるわけがなかった。


 こればっかりは『信長のアレ』のシミュレーションなど何の役にも立たない。


 どうする、俺?


 お市様との約束を果たすことなく、ここでゲームオーバーを迎えるのか。


 こんなときに真っ先に思い浮かんだのは、かっこつけてないで、さっさとやっておけばよかったなというサルにも笑われそうな思春期男子の後悔だった。


 ひゅうと北風が首筋を撫でていく。


 亀のように首を縮めた俺は思わず笑い出していた。


 ――あきらめてたまるかよ。


 俺、この場を切り抜けて生きて帰れたら、お市様に告白するんだ。


 どうだ、盛大にフラグを立ててやったぜ。


 さあ、来い。


 どんな敵でもこの俺が打ち負かしてやるさ。


 だが、威勢良く掲げた旗も、次の瞬間、あっさりと押し倒されていたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る