怪物の記憶

宝力黎

第1話 怪物の記憶

時に、記憶は嘘をつく

架空の過去に棲む架空の自分が不気味な怪物に見える (A・ドレイク)


 

 宇津千尋の通夜に駆け付けた〈あのクラス〉の子は私の他には居なかった。

「今日は本当にどうも…」

 と、外にまで出てきて千尋のお母さんが頭を下げた。整えてはいても髪にも顔にも疲れが色濃く浮かんでいた。

「いえ…」

 私も頭を下げた。


 

 特別に仲が良かったわけではなかったと思う。ただ、記憶の中の千尋は〈よく目が合う子〉という印象しかなく、彼女には他に楽しく〈つるんでいる〉グループがあったのではないかと記憶している。とにかく私はよく知らない。

 そんな千尋が死んだという報せを何処から受けたかというと、これは仲の良かった前田アカリからだ。

「ねえ、宇津千尋死んだんだってさ!」

「え?だれ?」

 最初、私は千尋の名も忘れていたほどだった。ただ、なんだろう、何処かがチクリと痛む。

「やだ!玲香、仲良かったんじゃないの?ほら、書道部だったか生け花部だったか私も忘れたけど、居たじゃない?なんかちょっと暗い感じのさぁ!」

 あぁ――と呟いた。そういえば居たのだ。そうだ、宇津千尋――。私は思い出した。

「死んだって…なんで?事故?なんでアカリ知ってんの?」

「遠藤」

 一言返ってきた。

「遠藤くん?もう別れたんじゃなかったっけ?」

「別れたわよぉ!あんなろくでなし!まあ、たまーになんか言ってくるんだけどさ、あいつが誰だかから聞いたって教えてきたの。うん、〈玲香、仲良かったよな?〉って」

 なぜアカリもアカリの元カレもそう思うのだろう。千尋とは話した記憶すら、そんなに無いのに。なにを勘違いしているんだろう。

「日が悪いんだか知らないけど、お通夜は明日なんだってさ。玲香、行くんでしょ?」

「なんで私が…」

「だってぇ」

 アカリは〈当り前じゃないの?〉と言わんばかりに言った。

「仲良かったじゃん!」


 何故支度をしているのだろう。何故心の何処かが苛立つのだろう。出かける間際――喪服を着てもまだ考えていた。

(千尋と私って、人から見たら仲良しに見えてたの?)

 急遽母から借りた地味なバッグにハンカチと、袱紗に忍ばせた香典を入れる。

(話した記憶も殆どないのに…)

 それでも通夜に行こうとしている、そんな自分もよく分からなかった。


 通夜や葬儀は祖父母と親戚で合計三度経験していたが、そのどれよりも参列者の数は少なかった。それでなくとも寂しい式なのに、より一層寂しさが際立って見えて、私は始終目を伏せていた。

 焼香の際に千尋のお母さんにありきたりな「この度はどうも…」という言葉を掛けた。お父さんはいないらしく、家族はお母さんただ一人の様で、憔悴しきった青白い顔で私が拝むのを見ていた。そして帰りだ――。


 私を追って外まで出てきた千尋のお母さんから声を掛けられたのだ。

「葛城玲香さん?」

「え?は、はい…あの…?」

 驚いた。フルネームで呼ばれるとは思ってもみなかったから。そもそもお母さんは焼香の前から私の事を他の人よりも見ていたような気がする。

「なんで私の名前を?」

 千尋の家は暗い路地の奥にある。門灯は薄暗く、葬儀業者が用意した明かりも予算の関係なのか小さなものだ。お母さんの顔が薄暗闇で更に青白く見えた。

「よく見ましたもの…」

「見た?」

「ええ、よく見ましたよ…。あなたのお名前も、写真も」

「え?あの…仰っていることがよく…」

「分からない?…そう…」

 千尋のお母さんは少し俯くとジッと考え込んだ。私は気まずくなり、早くその場を去りたかったのだが。

「忘れちゃった?」

 千尋の事だと思った。図星だったが、そうは言えない。

「あ…いえ…あの…」

「忘れるものなのね…自分は…」

 ギョッとした。お母さんはどうやら私を詰っているようだった。

「あの子、早くに父親を亡くしてたの。私は仕事で一緒に居る時間も多く取れない暮らしで。それでも年頃の娘だし、どんな事を考えているのかなぁ?なんて気持ちであの子が居ない時、悪いとは思ったんだけれどノートなんか開けて見たのね。そしたらそこに無数の〈葛城玲香〉という名前と一緒に…」

 ユックリ顔を上げたお母さんの目は生涯忘れられないと思った。

「〈死ね〉という文字が同じくらい沢山…」

 私は息を呑んで聞いていた。脂汗が背筋を伝う。喉も口の中もカラカラだった。

「問い詰めたのよ。何なの、これは?って…。やっと教えてくれたのは学校でのイジメの事…」

「お母さん、私イジメなんて!」

「していたのよ…自分は忘れたの?ううん、そんな筈ないわね?だって毎日毎日、みんなの前では凄く仲がいいように見せてその裏で酷い事をして、言って、それを延々と…」

「うそ!私イジメなんかしてません!そんな証拠、あるんですか!」

 叫び声が二人の他には誰も居ない路地に響いた。

「あの子、ある日怪我をして帰ってきたの。びっくりしたわ。泣きながらお腹に付いた切り傷に薬をつけていたの…。〈玲香に切られた〉って。でも、証拠が無いようにやる子なの、だからお母さん、学校には言わないでね、でないと私もっと酷い事される…って…。勿論黙ってなんていられるはずがないでしょう?学校に行ったわ…。でも、何かの間違いでしょうって言われたのよ。あの二人は大の仲良しですよ――って、誰も信じてくれなかったのよ。それからあの子は学校を休みがちになって、家からも出られなくなっていったわ。あの子ね、首を吊ったのよ。ええ、自分の部屋で。見つけたのは私。そのときね、あの子の机の上にはびっしりとあなたの名前の書かれたノートと、当時の写真が…。あの子、五年以上もあなたの名を――」

 お母さんを包む闇の中に不気味な気配を感じた。怪物だろうか。でも私を見るお母さんの目は、怒りの他に恐怖の暗い光を湛えている。目の前になにが居るというのだろう。

 私は何も言わず、頭を下げ、背中を向けた。私に表情は無かったと思う。後ろで叫ぶ声がする。でも大丈夫。記憶なんか――離れていけば闇がすべて包む。何も無かったかのように。大丈夫、怪物はやがて見えなくなるはずだ。

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怪物の記憶 宝力黎 @yamineko_kuro

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