第3話
その夜、十時十分前に家を出ると、脇についていたジジィのスキをついてをダダッと走りだした。夜勤の話が出た時から計画を練っていたのだ。エリは十時まで店のシフトだからジジィならやりやすいという目論見だった。「あ、こらぁ」という声を背にマンションまで全速力で走った。英一にまだカギは返してなかった。歩道から玄関の自動ドアを抜け、操作盤にカギを差し込んで二番目の自動ドアを開ける。そのままエレベーターに乗って、ここまでくればもう安心だと全身の力を抜いた。悪夢の日々が甦る。やっとこれから落ち着いて引き籠ることができるのだ。今後はあのコンビニへは近寄れないからちょっと遠いがナンデモマートへ行く必要がある。でもそんなことここ十日ほどの苦痛に比べればなんでもない。
エレベーターを降りて部屋の前に着く。思わず涙ぐんでしまいそうになるくらい、その部屋のドアが神々しく見えた。カギで開けようとしたが英一を驚かせようとインターホンを押した。出ない。もう一度押すが変化なし。ドアを叩いてみた。「英一兄貴ぃ」すると開錠する音がして薄くドアが開いた。
「ああ、よかった、いないのかと思った」と言う圭太に冷たいことばが返ってきた。
「おまえ何しにきたんだ」
軽いショックを受けながら「なにって、逃げ出してきたんだ、あそこでは安心して引き籠ってられないんだよ」
「おまえなぁ」とドアの向こうで英一は言った。「逃げ出すなんて岡田さんに失礼だろ、いつまでも引き籠ってられないんだから、あそこで頑張れよ」
奥から声が聞こえてきた。「英一、誰なの」女の声だ。
英一は微妙に表情を引きつらせて「だから、頑張れよ」
圭太はさらにショックを受けながらそういうことかと納得した。「彼女はつくらない主義じゃなかったの」
「そんなことがある訳ねぇだろ」バレちまったものはしょうがねぇと邪険なことばが返ってくる。「それよりカギ返せ、あそこで頑張るのが圭太のためだよ」
カギを返すとガチャリとドアの音が冷たく響き、圭太はしばらくその場で佇んだ。
深々とため息をつき、虚脱感で歩くのもやっとな感じでエレベーターで一階まで下り、マンションを出た。コンビニに着いたのは当然十時を過ぎていた。今夜は田村というおっさんだとエリから聞いていたが、その男は圭太を見るなり眉をひそめた。エリもまだバックヤードにいたが圭太の姿を見ると一発殴ってさっさと帰っていった。
「圭太君はどういうつもりでいるんですか、仕事をなんだと思っているんですか」
田村が話かける。「すいません、ぼくは引き籠りなんです、ここで仕事するのが辛いもんですから」
「そんなこと」と田村は声も鋭く言い放った。「わたしは認めません、いいですか、わたしといっしょのナイトの時は私の指示に従ってもらいます、一刻の時間の猶予もないと思ってください、これはわたしが作った明日の朝六時までの作業表です」
渡された紙にはレジの接客の合間にやる作業が時間を追って書いてある。レジ横のホットストックのガラスケースの清掃、汚れた油の入れ替え、油の入っていた電気鍋の清掃に揚げ物を入れる網やトングの清掃、換気扇の清掃、コーヒーマシンの清掃、床の清掃、トイレの清掃、駐車場の清掃等から棚に並ぶ商品の賞味期限のチェック、棚の補充、レジのお金のチェック、使用されたクーポンや公共料金の控えのチェック、切手やはがきの郵便の残高チェック、夜中によく持ち込まれるメルカリや宅配物の受付、等々。おまけに三時を過ぎるころから発注された冷凍物やパン、日配関係が配送されてくる。そのチェックと棚への品出しも加わってくる。その際商品は芸術的に縦横一センチの差もなく並べることと書いてある。定規で計って検査するからそのつもりでとつけ足してある。もう気が狂わんばかりの細かさである。
「いいですね、気合入れて、さあ突撃ぃぃぃっ」田村は声を張り上げ圭太に指示する。もたもたしていると激が飛ぶ。こっそりバックヤードでうずくまっていると台車が飛んでくる。そのたびに「ひゃあああ」と叫びながら走り回る。激が飛ばされるたびに「ぼくは引き籠りなんだぞぉ」と叫ぶ。
「うるさい、さっさと仕事せぇ」
「引き籠り引き籠り引き籠り」と呟き、懸命に対抗する。
だが「行けぇ」「突撃ぃ」「もたもたするなぁ」「突っ込めぇ」の矢継ぎ早の怒号にはかなわない。その強力な稲妻のごとくつき刺さる言葉に押されて、圭太は店内を走り回るしかなかった。
夜が明け、六時になった。圭太はくたくたになった身体を引きずり、伊藤さんや木村さんにバトンタッチすると、とっとと裏の家に戻り、ベッドに飛び込んだ。飯も食わずにこんこんと眠りこけた。目が覚めたのは夜の九時前で、虚ろな頭に浮かんだのは「行きたくない」のことばだった。
すぐに叫んだ。「行きたくなぁい」もうこの世の終わりとばかりに「行きたくない行きたくない」と叫び続けたが「やかましいっ」とジジィから一括された。もう抵抗する力も何もなかった。仕方なく起きて着替え、うなだれ、だらだらとコンビニへ行くと今夜のナイトの村田さんが待っていた。
「ほほぉ、君が引き籠りの圭太君かぁ、いいやないかぁ、おれ好きだぞそんなの」と開口一番「なぁに、仕事なんてそこそこやっときゃいいんだ、ひと晩楽しもうぜ」と言いだし「さぁ、なにしようかなぁ」といいながらバックヤードへ行き、椅子に座ってアンパンを食いだした。おまえも食えよと投げてよこす。机の上には期限切れの弁当やおにぎりも積まれており、パソコンの防犯カメラの画面を切りかえ、スマホにつないでネットフリックスを映し出した。「これこれ、おもしろいんだなぁ、やっぱり画面が大きい方がいいもんな」と言う。
客がいる。「村田さん、お客さんが」と言うと「なにぃ、客だと、そんなの追い返せ」のひと言で振り向きもしない。仕方ないので圭太が接客する。本当はカウンターの下に座り込んで手だけ出したいところだが、そんなことしている場合ではない。
バックヤードから「わぁはっはっはっはっ」と笑い声が聞こえてくる。覗くと返品の漫画を読んでいる。
「村田さん、仕事いいんですかぁ」
なにっ、と睨み返される。すぐに一変し「ぬぅわっはっはっはっは」とたるみ切った表情で笑い出す。「なにをバカなことをぬかしとる、おまえ引き籠りなんだろぉ」
「は、はい」
「なら、引き籠っておれ」そして、また陽気に鼻歌なんぞ歌って賞味期限切れの弁当を食いだすのだった。村田は朝の六時までその調子で、やったことと言えばその賞味期限切れのパンや弁当を食い、ネットフリックスのドラマを見て、返品の漫画雑誌を読み、時間切れのおでんや揚げ物類、肉まんあんまんを持って来たタッパーに詰め、タバコを買いにきた高校生らしき少年たちを怒鳴りながら人生論を諭し、形だけ清掃に出た駐車場で拾った千円札のネコババだった。すべては圭太が走り回ってそこそこの作業をした。村田は配送されたパンはケースごと棚にひっくり返し、冷凍食品やアイスクリームもダンボールから保冷ケースにひっくり返した。「これでいいんじゃ」という始末である。その度に圭太がその場を繕ったし、清掃関係もうろ覚えの中なんとか一人でやりきった。六時になると村田は「楽しかったなぁ、次もよろしくな」と言ってわっはっはっはっはっと笑って車に乗り行ってしまった。なんのことはない、結局圭太はさんざん走り回って、どっと疲れて家に戻るとこんこんと眠り続けることになったのだった。
二晩続けた夜勤は次は休みとなった。疲れて思考もままならない中、ぼんやりとした頭で一階に降りた。エリとおばちゃんがいてジジィの姿はなかった。リビングでテレビ見ながらお茶している。
「あなた御飯まだでしょ」と言っておばちゃんがコンビニの弁当を出してくれる。
「ジジィは」と聞くと今夜は夜勤だという。もう一人中西君という大学生がいて、彼と組んでいる。中西君は一週間で田村や村田と組むのは嫌だから辞めると言い出したので、ジジィと組むことになったのだ。さもありなんと思わずにはいられない。
「ぼくがその中西君と組む訳にはいかないんですか」と悲壮な訴えをするもエリから一発殴られて終わりである。それでも不満は消えないから「あの村田村ってどういうおっさんたちなんですか」
「あら、うまいこと言うのね、でもね、あの人たちは偉いのよ、ちゃんと昼間は働いているんだから」とおばちゃんが言う。「そうだよ、あんたみたいな引き籠りとは違うんだからね」とエリ。
へぇ、そうなんだと「仕事は何してるんですか」
おばちゃんが答えた。「二人とも自営業よ、でもね、夜働きに来ているのには訳があって経営がうまくいってないのね、税理士事務所と歯医者さんなんだけど」
えぇっと驚く。そんな風には見えない。落ちこぼれの変わり者の偏屈なおっさんじゃないか。「どっちがどっちなんですか」
「田村さんが歯医者さん、村田さんが税理士さんよ」
圭太は「行けぇ、突撃ぃ」の田村が歯を治療する場面を思い、ぬぅわっはっはっはっはっの村田がパソコンに向かって会計業務をする姿を想像して恐ろしくなった。そりゃ経営がうまくいくはずがない。
本当は逃げだしたいところだが、英一のところのカギを返してしまったし、彼女がいるのならあてにはできない。家に戻っても悦子はまた何か方法はないかと探すのだろう。仕方ないがせめて昼の仕事に戻してもらえないかと交渉したいと思うがミカとエリ、あのジジィ、そしておばちゃんも一筋縄ではいかない。ため息をつきつつ、時間は過ぎていった。
日々は夜の運動会よろしく鍛錬と熟練、そして我慢と技能で過ぎて行く。いつしかそれが当然となって圭太の中に確固たる精神と肉体が形成され、二年の時が流れた。店内をくまなく見渡し、鋭い眼光と鍛えられた身体で走る姿には、もうかつての引き籠りの圭太の面影は微塵も見えないのだった。
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