21.流れ込む

 鉄柵は右端の一部のみ設置されておらず、足場から川面まではだいたい大人一人分程度離れていた。

 その間には多くのタイヤが吊り下げられ足場に困ることはなさそうで、それ自体は事前に伴さんが探してくれた当時の画像とほぼ同じであるので全く問題ない。


「ん? 封鎖用のロープが見当たらないな」


 件の画像では鉄柵がない部分にロープが渡されていたが、今ここにはそれが見当たらないことに気づき周囲を見渡す。

 が、やはりどこを見ても存在しないようだ。


『まあ数十年経っているでござるし、外したまま人が逃げたか外れて流されてしまったのではないでござろうか』


 タイヤを結ぶロープも千切れるほどではないとはいえ目に見えて劣化しているし、伴さんの言う通りなのだろう。

 現地に着くまでもあれば命綱として使おうとして考えてはいたものの、水に触れるカイルを俺が上から支えることもできるしタイヤはあるので足場には困りそうもない。


「まあ周りに幽霊もいねぇし、仮にもVhunterやってる人間ならこの程度で落ちる奴のが稀だろ」


 何より川に近づく方の役割であるカイルがやる気である。

 よって、このまま調査を続行する。


 一応川に落下した時を想定し、彼は水泳の際に使うゴーグルを着用し始めた。

 俺は逆に周囲の警戒がしたく視界が悪くなると困るため身に着けないが、それと全く同じ支給品を俺も所持している。


 逆に言えば俺を含め現代人は幼少期から全員水泳を習っており、健康管理も徹底されているため運動神経の個人差自体はあれど体力そのものは数十年前の人間の平均を超えている者が圧倒的に多い。


 急な鉄砲水が来る可能性もゼロではないとはいえ、俺やカイルなら仮に落ちてもまず溺死はしないだろう。

 俺の方は特に準備はないため、カイルが手招きすると同時に鉄柵の欠けた右端に歩み寄った。


「さーて、ここから降りてくが……クロウ、俺の右手を掴んでな。面白いもんが見られるかもしれねぇぞ」


「右手を?」


 俺が右手を掴むということはカイルは左手で水面に触れることになる。

 彼は武器も右手で扱っているので左利きという訳ではないと思うのだが、結局そうする意図がわからないまま俺は左手で柵につかまった。


 連結されたタイヤを慎重に伝っていく彼の右手をとり、彼が落ちないよう気を払いながらも周囲の様子を絶えず確認する。

 彼の中指と人差し指にはアバターと同じ刀傷の意匠を施した指輪がはめられており少し握りにくく痛いのだが、本当にどういうつもりで指示を出したのだろうか。


 ――そんなことを考えているうち、カイルが神田川の水面に指先を降ろす。

 ごく小さな水音が立ったと思ったその瞬間、不意に視界が目の奥から白く染まっていった。


 意識もまた白み始め、俺じゃない誰かの記憶が急速に流れ込んでくる。



 ――――



 2024年、8月。

 日が落ちてもまだ蒸し暑い夏の夜のこと。


 オレは万世橋の欄干に背を預け、目の前を行き交う人々の姿をただ漫然と眺めていた。

 もう日付が変わる直前だと言うのに必死になって駅を目指すなんて社畜だな、と内心であざけってみる。


 だが空しくなるだけだった。

 社畜だろうが何だろうが、今のオレよりは遥かにマシで社会的地位もあるからだ。


 オレの名前は佐藤ぱら

 踊ると書いて読みは『ぱら』。


 まず一発で読み仮名を当てられた事がない。

 親がパラパラという踊りにハマった世代だったからという理由だけで息子にこんな名前をつけたらしいが、果たして先のことまで考えてそうしたのだろうか。


 まあ十中八九、何も考えてなかったんだろうな。


 この名前は小中高いずれの学校でも必ず笑いものにされた。

 高校に関しては中退した後のことを知らないが、もしかしたら今もネタにされているかもしれない。


 オレは生まれた時点で失敗していたのだろうか。

 大学に行くでもなく、安定性のある職につくでもなく日雇いの仕事で日々を生きるのが精いっぱいとなってしまった今の自分を顧みてはそんな事ばかり考えてしまう。


 惨めさのあまり時折通る背広姿を見るのが嫌になり、オレは向きを反転させ神田川の方へ視線を置くことにした。


 身長だけはオレの中で唯一自慢できる部分だ。

 背が高いので手すりの上で腕を組むと自然にやや前屈した姿勢になる。


 そして溜息をついた瞬間、うっかり持っていたスマホを橋の下に落としてしまった。


「あっ……! 嘘だろ買い替える金なんかねーぞ!」


 手を伸ばした努力も空しく、水音と共に黒い水面から小さな水柱が立った。

 ただでさえ気分が悪いというのに、マジでサイアクだ。


 今日たまたま上司から聞いたので覚えているが、万世橋付近の水深は確か3メートルほどあるという話だ。

 おまけに今は夜で光も何もなく、オレが立っている位置は欄干のど真ん中。


 どんなに空しくやるせなくとも、諦めるより他はない。

 それでも感情の整理がつかず、口惜しさに唇を噛んで数秒はその場に佇んでしまっていた。


 だから、


「……は……?」


 脳の奥で何かが爆ぜたように、頭の中が真っ白に染まる。

 ようやく取り戻した思考を必死に働かせ、あれが何なのか考えた。


 水深3メートル。

 夏の夜、ドブ川。


 オレが川と向かい合ったのが1分ほど前。

 それまでに気づかれずに川に入れたとしても、川の中央まで移動する時間を含めれば少なくとも合計で3分はあのドブ川に息を潜めていたことになる。


 ――確実に普通の人間ではない。


 脊椎に直接冷水を塗られたような悪寒が走り、さらにその手がと気づいてしまった瞬間にはもう、こみ上げてきた胃液に喉を激しく焼かれていた。


「……、オレ、の……」


 普通に考えたらとっととスマホは諦めてこの場から逃げ出すべきだ。

 だがオレはもはや自然に歩けないほど脚が震えているという自覚があっても、なぜかそうすることができなかった。


 嫌だと叫ぶ本能とは裏腹に、震える足が操られるように北東へと向かう。

 いつの間にか周囲からは誰もいなくなっていた。


 橋が終わればすぐ右折して、鉄柵の扉を乗り越える。

 船着き場に辿り着いて川を見ても、はまだいた。


 街灯の光を受け、黒く影が落ちていてもまだ白さが目立つ手。

 細く小さな女のものと思われるそれは、徐々に徐々にこちらに向かって推進してきていた。


 どす黒い川面の下は全く見通しが立たない。

 水面に呼気の証である泡が上がってくるのをまだ一度も見ていないのは、気のせいではないだろう。


 そして、オレの足元にスマホを持った手がたどり着いてしまった。


「……」


 落下防止のために張り渡されたロープの間から手を伸ばし、スマホを受け取る。

 触れてしまった指先は氷のように冷たく、肌理きめが細かく若そうな割にはハリやツヤのない不気味な手だった。


 その手はそれきり、何もせずに川に沈み二度と姿を現さなかった。

 おそるおそる、スマホに視線を落とす。


 裏面は無事だ。

 だが、表のガラス面は中心から蜘蛛の巣状にヒビが入ってしまい一目で使い物にならないと判断できた。


 しかし、不思議と悪い気分じゃない。

 そのヒビを見ていると脳の奥底から何かアイデアが沸いてくるような不思議な心地になった。


 顔を上げ、万世橋を仰ぎ見る。

 ちょうど一人、橋を渡っている最中のようだ。


 なんの偶然か、それはいつもネチネチと小言がうるさいバイト先の上司。

 気づいた直後、なぜか半ば無意識に彼に対してスマホを向けていた。

 二回電源ボタンを押してカメラを起動し、蜘蛛の巣の奥にその姿を捉える。


 画面は割れているが、画面下部のシャッターボタンは反応したようだ。

 軽やかなシャッター音が、夜の静寂の中によく響く。


 橋の上で上司は、もがき苦しんで

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