君に10年越しの「ただいま」を
花籠さくら
第1話 10年ぶりの帰省
8月13日、沙保里は昼過ぎの新幹線に乗り、実家のある田舎へと向かった。緑豊かな山々が連なる中、川が涼しげに流れ、一面に広がる田んぼが太陽の光を反射していた。窓から見える風景は、都会の喧騒を忘れさせる。生きていく為に日々消耗していく疲労感が静まり、10年ぶりの帰省にも関わらず安心感が湧いてくる。
背もたれに体を預け、目を閉じると、子供の頃の思い出が次々と浮かんでくる。放課後は友達と山に登ったり、川で泳いだり、とにかくやんちゃだった小学生時代。都会への憧れや嫉妬から、全てに反抗してきた中学生時代。思い返すと、心がほわほわと温かくなり、自然と笑みがこぼれた。
しかし、その笑顔はすぐに消える。高校生の思い出は、いまだ沙保里の胸の奥底で、重たく残り続けていた。
実家に着くと、両親が玄関で待っていてくれた。母の笑顔と、父の優しい眼差し。迎えられた瞬間、長旅の疲れも一瞬で吹き飛ぶ。
「おかえり」
「ただいま。お母さん、お父さん」
母の広げた両腕に静かに飛び込むと、父が「おかえり」と頭を撫でてくれる。8年経っても変わらない温かさに、年甲斐もなく涙で視界が滲んだ。
家に入ると、居間には沢山の料理が並んでいる。母お手製の煮物の甘い香りと、焼き魚の塩気が混ざり合い、ここで暮らした毎日を思い起こさせる。食卓には既に祖父母が付いていて、沙保里の顔を見るや否や、祖母はこぼれんばかりの笑顔を見せた。
「沙保里、元気そうだな」
祖父のしゃがれた声が耳に触れる。昔は頑固で怒ってばかりの祖父も、今ではすっかり丸くなった様子だ。もしかしたら、祖父も沙保里の帰りを待っていてくれてたのではないか、淡い期待に胸が躍った。
「うん、元気だよ」
そのまま、家族全員が集まって、賑やかな夕食が始まった。色とりどりの料理に囲まれ、時折笑い声が聞こえてくる、何にも代えがたい大切な家族の時間を過ごした。祖父と父が釣ってきた魚を食べ、どちらの魚の方が大きかったと言い合う姿は、高校生の頃に戻ったかのようだった。一通り、料理と会話を堪能したところで、沙保里は口を開いた。
「私、結婚、する」
その瞬間、場の雰囲気が一瞬で静まり返る。全員の視線が沙保里に集中した。
「おめでとう」
最初に声を上げたのは祖父だった。次に、祖母、父も「おめでとう」と口にした。その度に、「ありがとう」と返す。母を見ると、今にも泣きだしそうに目を細めていた。
「沙保里が幸せなら良かった」
「……うん」
夕食後、沙保里は外に出て星空を見上げた。夏の夜空は満点の星で埋め尽くされ、その美しさに思わず息を呑むほどだ。都会に出て、世界が広がったと思っていたけれど、今は都会で見上げた空の狭さに気付く。頭上に満ちる星々を眺めると、何か大きなものに包まれている感覚がした。
どのくらいそうしていたのだろうか、気付くと母が隣にやって来た。8年ぶりの母は少し小さくなったように思える。しかし、母が沙保里を見つめる眼差しは変わらない。
「沙保里は、幸せ?」
――やはり全てを見透かされているようだった。
「幸せになってもいいか、分からない」
婚約中の彼にも、親しい友人にも、誰にも伝えられなかった本音を、10年会っていなかった母には言えてしまうのは何故だろうか。胸の内に秘めた言葉は、涙と共にこぼれた。そんな沙保里の背中をさする母の手は、少しぎこちなくて、それでも一番の安堵を与えてくれる。
「沙保里、健二君には報告した?」
「……ううん」
「そっか、健二君には会えた?」
「……まだ」
しばらく、母は何も言わずに、ひたすら泣き続ける沙保里の傍に居続けた。
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