額の十字架

いとうみこと

額の十字架

 物心ついたときから父親はいなかった。明け方に酒と煙草の臭いをプンプンさせて帰って来る母親に、風呂無しの四畳半一間で育てられた。ネグレクト寸前の環境だったが、俺はそんなに嫌だとは思っていなかった。母親は俺を可愛がりもしなかった代わりに拒否もしなかった。甘えれば抱き締めてくれたし、それなりに欲しいものは買ってもらえた。世間から可哀想な子どもと思われていたとしても、俺からすれば毎日塾だの習い事だのと自由時間のない他の子どもたちの方がずっと気の毒だった。


 中学生の俺が試験勉強をしていたある晩、まだ早い時間に母親が慌ただしく部屋に駆け込んで来た。呆気にとられた俺の額にかかった髪を無造作にかき上げると、突然ヒャヒャヒャと笑い出し、俺に薄汚い雑誌を押し付けてよこした。

「見てごらんよこの記事。どっかの国で生まれた子どもの腕に十字の痣があってさ、マリア様の生まれ変わりだって騒ぎになってるんだって。寄付やらお布施やらがガッポガッポだってよ。こんなちっぽけな、しかも腕にある痣くらいでそんなに儲かるなら、あんたなんか城が建つよね」

 そう言うと、俺の額の痣を愛おしそうに撫でた。俺には生まれつき額に十字の痣があるのだ。俺は母親の手を振り払い記事に目を通した。確かに母親の言う通り赤ん坊の二の腕にはくっきりと十字架のような痣が浮かび上がっている。そしてその子を抱く大人は随分ときらびやかな服装をしているように見える。


「ねえ、あんた、テレビに出てみない? お客さんでそっちの関係の人がいてね、あんたの話をしたら興味あるって。ふたりで大儲けして、こんな暮らし抜け出そうよ」

 母親はこれまでのどんな時よりゲスな顔をしていた。

「俺を見世物にするのか?」

 母親は大仰に手を振って否定した。

「そんな、見世物だなんて、人聞きの悪い! 生まれ持った武器で稼ぐだけのことさ。モデルだってスポーツ選手だってそうやって稼いでるんだよ。何の問題があるもんか」

 確かに母親の言う通りだ。この際、役に立つなら使わない手はない。ただ……


 俺は立ち上がって壁にかかった我が家で唯一の鏡を覗いた。前髪を上げるとそこにはくっきりと十字の痣が刻まれている。

「母さんは、これがほんとに金になると思うかい?」

「なあに、あんたがちょっと首を傾けてくれりゃあ……」


 俺は改めて鏡を見た。額の痣は斜めに傾いて、十字架というより☓に近い。


 いや、これは無理っしょ!

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額の十字架 いとうみこと @Ito-Mikoto

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