【アップ】2024年7月7日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年7月7日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/itmygSGyOec?app=desktop&feature=share


【ブログ】

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12860033025.html



前奏

招詞

詩編89編6〜9節

詩 編 歌 65編 6節

歌声は全地に 響きわたらん

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問95

「悪の支配からの救出」

こどもさんびか

ひかりのこになるため[改 121(1,2節)]

牧 会 祈祷

讃美歌 304番

聖書

使徒言行録 19章28〜34節

列王記上 18章16〜24節

説教

「混乱の中で

〜真理と正義はどこに」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 376番

使 徒 信条

聖餐式 配餐(パン・杯)

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 544番

祝祷

報告



讃美歌~♬


讃美歌304番(歌詞付)54年版「真実なるみ神を」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KgMlMZ9kCow

(ブログを見てくださると歌詞も閲覧できます)


讃美歌376

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=AFBiV9g7vgI


1

正義の君なる 神の御子の

血にそむ御旗に 続くは誰(た)ぞ

悩みのさかずき おおしく受け

十字架を負うもの その人なり

2

み跡につづきて まず主のため

石もてうたれて たおれつつも

み空をあおぎて あだのために

祈りし御弟子に つづくは誰ぞ

3

わが主に選ばれ みたまをうけ

剣もほのおも 獅子の牙も

おそれず厭わず すすみゆきし

むかしの聖徒に つづくは誰ぞ

4

老びと 若うど おとこ おみな

新手(あらて)となりつつ 敵にあたり

み国をのぞみて いさみ進む

つづかせ給えや 主よ我をも



2024年7月7日 礼拝説教 中心聖句


さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まっているのかさえ分からなかった。

使徒言行録19章32節


「そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。

列王記上18章24節


はじめに

様々な混沌と混乱の中で神の正義と真実はどこに。今日、主の眼差しを求めたい。

「これを聞いた人々はひどく腹を立て」とは、自分たちの仕事を失う危険を聞いた、銀細工人の全体を管理する中心人物であった、いわば、元締めのデメテリオのもとで働いていた銀細工人たちの怒りが充満したこと。彼らは、「エフェソ人のアルテミス(完全な光の意)は大いなる方」と声高に叫んだ。「神とは何か」、「宗教とは何か」、「偶像とは何か」との問いは、彼らには皆無。原理原則を問うことをしようしないとき、堕落した人間の有り様はさらに悲惨な結果を見る。さらに問うとすれば、「聖なる者とは何か」。礼拝の原則は、聖なる方にある。聖書の神は、「聖なる神」。デメテリオは、パウロが言ったこと(実際にはそのとおり言っていない)は、自分たちの手の産物が真っ向から否定された、と受け取った。しかし、「神の国」を伝えパウロの福音の中心は、イエス・キリスト。このお方が、人びとの本当の支配者であり、罪の支配にある者たちを義の支配のもとに救い出す力のあるお方。そして、自ら、「聖なる僕」(4章30節)となられたお方。罪人にとって神聖なものを人の手にゆだねるとき、礼拝の原則は、不明なまま。「そして、町全体が混乱に満ちた」。「さらには、マケドニア人のガイオとアリスタルコを捕らえて、一丸となって劇場(見せ物の公開場:シアター)へかけ急いだ」。

「パウロは群衆の中へ出て行こうとした」。それは、事態の収拾を急ぐとともに、キリストを弁明する機会を得たと思ったことを証言する。しかし、「弟子たちは許さなかった」。エフェソの教会において、主に従っていた者(弟子)たちは、パウロの思いよりも、行動を制した。それは、パウロを命の危険から守ること。「同時に、アジア州の祭儀(競技、宗教的祭り)をつかさどる高官たたち(一語で、アジアルケースの複数形:アジアルコーン)も、彼(パウロ)に使いを送り、劇場に入らないように懇願した」。ちなみに、5月全体がアルテミスの神聖な月で、アルテミシオンと呼ばれた祭りの月だった。仮にもその時に「この道のこと」で騒動が起こったとすれば、火に油を注ぐ事態。群衆はパウロを発見していなかったが、彼らはパウロの居場所を知っていた。「人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった」(新改訳2017)。この道か、ユダヤ人か、パウロか、弟子たちか、あるいは、アルテミスか、いずれか。「このとき、ユダヤ人たちがアレクサンドロを前に出し、好機を得た。彼は手をふって、人々に弁明しようとしたが、彼がユダヤ人だとわかると、皆が一斉に『エフェソ人のアルテミスは、偉大なり』と二時間にわたって同じことを叫び続けた」。ここで、ユダヤ人が憎んだ偶像と偶像崇拝と、パウロの伝えた「神の国」を吟味することはまったくない。あるのは、偶像を嫌う者たちへの感情的対立。ここで、アルテミスは、祭儀の中で拝まれるものですらなくなった。エフェソの街を経済的にうるおす神殿への反発とある宗教がみなされたとき、混乱の中で、無秩序に見えたある宗教の「告白」が、明るみに出ることになった。

おわりに

時の王アハブに集められた預言者たちは、主の預言者エリアの声に沈黙した。「あなたたちは大勢だから」とエリヤは預言者たちに祭儀を促したとき、主の答えはなかった。主はエリヤの応答において「主の火」として顕現した。問、真の信仰とは、真の神とは、何か。



(Mynote)

二〇二四年七月七日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝出来る事を神様に感謝する。

※本日は聖餐式の日である。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問九五』

「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ』では、何を祈り求めるのですか。」

「今も弱さを持って居る私達は、神様の憐れみが無ければ、一瞬でも神様の子供としての祝福に生きる事は出来ません。ですから罪と悪魔の支配から救い出され、聖霊の力によって勝利を得る事が出来る様に祈り求めます。」

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第一九章二八〜三四節)

『列王記上』(第一八章一六〜二四節)

この『使徒行伝』の箇所では、アルテミスを拝むエペソ人達と、主イエス・キリストを仰ぎ信じるパウロ達との一騎打ちのエピソードが記される。物理的に争う一騎打ちになく、信仰に依る一騎打ちに在り、何を信じるか?どの神を本当の神として畏れ崇めるか、これが争いの根底に成る。

先週からの続きの学びにあるが、エペソ人達は邪教を厚く信じる者達でありながら、自分達が実際に何を信じ、その信仰の在り方と内容が具体的にどの様なものかに就いて全く知らない。ただ周りがそうして居るから自分もそれを取り敢えず信じ、その為に心を熱くし、その主義・信仰を非難し邪魔する者が現れたら、悉く容赦無く切り捨て蹂躙し、その敵とした相手を葬る事を憶えた。

これは邪教による洗脳がそうさせて居り、人間が作り上げた無数の邪教が他に在る事も助長して、どの信仰が本当なのか?又、別の信仰を見ても聞いても「所詮それも邪教ではないか」と盲目の内に冷め、真実も正義も含めて全ての宗教を邪教と決め付け、キリスト教もその内の一として、同じくキリスト教徒も迫害と葬る対象にした背景がある。

パウロとその連れも同じエペソ人達から見て「敵」となり、エペソ人達は劇場(それなりの集会を持てる公の広場と心得て良い)に入った時、パウロの友二人(ガイオとアリスタルコ)を捕えて引き連れ、彼等に害を加えようとして居た。

しかしその劇場に集まり、「或る者はこの事を、他の者はあの事を、怒鳴り続けて居たので…」と在りながら、彼ら(エペソ人達)はそこになんで集まって居るのか、その理由が極論して全く分かって居なかった。エペソ人達が信じて居たのはアルテミスの神であり邪教である(偶像である)。だからその信仰に正義も内容も無く、在るのは全て「人が取り決めた正義と内容」で、その正義と内容はその時々によって変わるものだった。だから確かなものが何も無く、信じる対象を失うのである。

そしてその「正義と内容」を取り決めたのは、そのアルテミスの神を祭り上げる事により金を儲けて居た職人達であり、

「アルテミス(これ)を信じれば皆救われる」

と謳いながら、その裏で自分達の利益を確保し、その神(アルテミス)を利用して自分達のステータスを保持し続けて居た。それを半信半疑ながらも知らなかった他のエペソ人達は、やがて長年の洗脳により疑う事もしなくなり、現代の邪教を信じさせる経過・結末と全く同じに、その「人間が作り上げた邪教の傀儡」にさせられた。

だからアルテミスの神を祭り上げ作り上げた職人達と同じく、そのアルテミスの神を少しでも否定し、他に目と心を向かわせようとする者が現れたら、容赦無くその彼等を責め立て蹂躙し、挙句は葬り去ろうとまでした。これは正式な正義から成る主張の為でなく、ただ「自分がやられたから、それに反発する衝動的な怒り」だけが原動に成って居り、ここでもイエス様が十字架に付けられた時に祈られたあの言葉、

「彼等は自分で何をして居るか、分かって居ない…」

その状態に陥って居た。この邪教に操られ支配された人の現象は現代(いま)でも全く変わらず起きて居り、様々な人間の正義を邪教の神々の言葉として作り上げ、それを人々に信じさせ洗脳し、その邪教を作り上げた者達の利益に繋がる様にと暗躍され画策される。その暗躍・画策は文字通り中々表面化せず、他の人々に分かり辛く、心の隙を突かれたら、すぐに人々は信じさせられる傾向に在る。これは魂の永遠の闇を暗示する傾向・現象でもあり怖い事である。

『列王記』でも唯一誠の信仰・キリストの道と邪教の道とが先に示され、エリヤはそれに対しはっきりと、

「あなた方はいつまで二つのものの間に迷って居るのですか。主(キリスト)が神ならばそれに従いなさい。しかしバアル(邪教・偶像)が神ならば、それに従いなさい」

と集まった人々を諭した。

偶像の神(アルテミス含む)は、その町を何も収めて居ない。偶像は人間が作り上げた唯の木や陶器の物であり、命も無ければ動く事も無く、それを信じる人々を救う力など初めから無い。寧ろその偶像が人々に齎したのは混乱であり、争いであり、憎しみであり、嫉妬であり、大声で叫び合わねば収まらない暴力と無秩序だった。これも現代と何も変わらない。

正しい信仰を認める目と心が誰にも必要である。これは何時(いつ)の時代にも同じであり、正しい信仰を持たねば邪教が(人から)産まれる。その正しい信仰を見定める目と心は神様の御力と聖霊の働きから成り、唯一誠のキリストへの道、その道を歩む時に備えられる信仰の力に依らねば必ず成らない。

神様を信じる者と、信じない者とは、初めから神様により定められて居るのか?これに対する疑問が湧く。信仰に入る事は、人の合理、常識、理知、知性、考えを超えて居る。感覚によるものに近く、その感覚を持つ者と持たない者に初めから分けられて居るのか?

祈り願わくば、この地上に居る皆(兄弟姉妹を信じる)が神様の下(もと)へ辿り、唯一誠の信仰であるキリストの道に歩まされ、宗教ではなく、人が生まれる前・自然が生まれる前の初めから存在した唯一誠の神様に気付き、救われる様に。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=q0lc_w0zV-I&t=16s


「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=1Cg1VaUcAWU&t=337s


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)







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