[短編]歌う隣人

ばやし せいず

第1話

「ふふ」


 一口ひとくちしかないガスコンロの上部には、古びた換気扇が取り付けられている。油汚れの蓄積したフィルターを見上げ、俺は思わず笑ってしまった。

 スパイシーな香りとともに、中年女性の奏でる調子の外れた子守歌が漏れてくるからだ。


『ねーんねん、ころーりーよ、おこーろーりよぉ……』


 大学進学のためこのボロアパートに引っ越してから約三か月。住んでみてから気付かされることは、多々あった。


 トイレの水圧が弱いこと。二階の部屋の住人の足音がやたら大きいこと。ゴミを出すためには、自治体指定の袋を購入しなければいけないこと。

 それから――、お隣さんである101号室には母子が暮らしていること。

 101号室のキッチンのにおいと音が、換気扇を伝って俺の部屋である102号室まで流れ込んでくること……。


 101号室の今夜のメニューはカレーライス。(カレーうどんの可能性もある)。そして選曲は「ねんねんころりよ」の子守歌、らしい。

 換気扇越しで音が遠いうえ、あまりにも下手で、始めは何を歌っているのか全くわからなかった。

 それが子守歌だということに気が付いたのは、電気ケトルに水を入れ、カップラーメンを開封し、お湯が沸いた時になってようやくだ。


 カップラーメンにとくとくとお湯を注ぎながら、「下手な歌を聴かされている子どもがかわいそうだ」と余計なことを考えてまた笑いが込み上げる。

 母親が音痴なら、子どもきっと音痴に育つに違いない。彼女の子どもというのが何歳なのかも、男か女かも、俺は知らないのだが。


 歌声の持ち主であろう女のことは何度か見かけたことがある。

 四十代くらいで、身なりに無頓着という印象だった。梳いた様子すら無い黒い髪は長く、小太りで、服も部屋着のようなワンピース。腕には大事そうに赤ん坊を抱いているのが常だった。


 雨が続いていた先週も、アパートの前で一度すれ違っている。ブランケットのような布で包んで保温した子どもを腕に抱き、やはり下手な童謡を歌いながらどこかへ出かけていった。旦那は見たことがない。


「あ、やべ」


 スマホに表示されたリマインダーが、バイトの時間が迫っていることを教えてくれた。

 慌ててカップラーメンをかき込み、エアコンも消す。隣人の下手くそな歌に心奪われている暇は無い。

 スニーカーを履いてアパートを出る。うんざりするような蒸し暑さの中、ドンキで購入した自転車をとばした。

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