1‐2  怪力乱神の禁と不語の妃

「きたか、近こう寄れ」


 飾り棚には辰砂しんしゃの壺や青銅の香炉等が飾られていたが、暗中くらがりでは妙々たる調度も艶を損なっていた。几案つくえの側には紫檀したかを彫りあげた硯屏けんびょうがおかれている。めこまれた琅玕ぎょくも酷く曇っていた。病臥びょうがの身をおもんばかってだろうが、よけいに心身を患うのではないか。

 臥牀しんだいに横たわる皇帝の側でヨウひざまずく。


免礼めんれい、おもてをあげよ。……太師たいしより、若年じゃくねんとは想えぬほど立派に励んでいると聴いておる」


勿体もったいなき御言葉、恐縮いたしております」


「大陸を統べるの皇帝として、そちのような聡明なる嗣子むすこを持てたこと、誇りであるぞ。心穏やかに養生もできる」


「ひき続き、皇帝陛下の御心みこころにそって、万事怠らずに進めて参ります」


 父親たる司地シチヨンは羲の第五代皇帝だ。

 くには大陸を統一する帝邦ていほうである。


 時をさかのぼること、約四百五十年。

 大陸が八つのくにに分裂していたころ、神孫しんそんたる英雄が産まれた。英雄はこの地に君臨していた暴虐なる皇帝を退け、くにを興した。その後、百年かけて大陸を統一し、兵戦と殺戮のない地を創りあげた。

 この英雄がにおける始皇帝である。


 の始皇帝は統一後、さらに二百年間羲の邦の皇帝として君臨し続けたと語られる。これが事実だとすれば、始皇帝の寿命は三百歳を超える。よってこの伝承は羲の皇帝は神であるという信仰に基づく誇張と考えられた。

 ただ、奇妙なことに羲の皇族の系譜けいふは始皇帝以降からしか残っていないので、建邦から約四百年経つにもかかわらず、現皇帝が第五代となっている。


 皇帝が咳をした。

 うすぎぬとばりがかかっていて、血をけた息子とはいえども皇帝の素顔を覗うことはできない。


「して、御容態はその後如何ですか」


 ヨウの尋ねかけに皇帝はちからなくかぶりを振った。


宮廷医きゅうていいも皆、匙を投げた」


 皇帝は昨年の秋から病臥びょうがしている。この事実は公にはされていないが、丞相じょうしょうを始めとしたおみは承知しており、皇帝がまつりごとを執れない分を補おうとしていた。

 もっとも、混乱に乗じて都合よく政を動かそうとするものたちがいるのも事実だ。

 だからこそ、ヨウは議会において監視の役割を担っていた。


「職務怠慢です。そのような宮廷医は処分するべきかと」


「事実、何処を患っているわけでもないのだ。宮廷医を裁くのは筋が通らぬ」


「患っていない、ですか」


 果たして、どういうことだろうかと、ヨウは細い眉を曇らせた。


「ただ、眠れないのだ」


 ため息のように皇帝はつぶやいた。


 帳のはしから僅かにのぞいた皇帝の手はやせ衰えている。幼いころから、夭は父親のこの手だけをみてきた。大きな手だった。

 政をる神の御手みて

 こうならねばならぬもの。


「昨秋、なにがあったのか、そなたにだけは教えておこう」


 皇帝は声を落として語りはじめた。


「昨年領地を開拓するため、軍を連れて北へと遠征したのは知っておろう」


 大陸を統一して時は経ったが、いまだに皇帝の威光いこうまつわぬ民族がおり、拓かれていない土地もある。羲朝ギちょうに帰順せず抵抗を続ける民族を滅ぼしたのち、皇帝は森を焼きはらった。

 想いかえせば、その遠征から帰還してから皇帝はせるようになっていた。


「月夜であった。赤々と燃えあがり崩れていく森から、おもむろにはくちょうが飛びたったのをみた。異様に奇麗な鵠であった。わたしは土産に持って帰ろうと弓を持ち、鵠を射った」


 夭は想像する。

 錦を織りなす季秋きしゅうの森が燃えさかる様を。


 火群ほむらは落ち葉に埋もれた地を舐めつくして、白樺しらかばの幹に絡みつく。連枝れんしを飾りつける葉に燃えうつるまで、さほど時は掛からなかったはずだ。錦糸きんしの織物が燃えるように紅葉は端から縮れ、崩れていく。

 灼熱の風が吹きあがり、森はいっきに火の海となる。

 荒れる火の波から舞いあがる純白しろ

 それは地獄のように美しかっただろう。


 続けて皇帝から語られたことは到底、現実とは想えなかった。


はくちょうだとおもったそれは、地に落ちると姑娘おんなになっていたのだ……」


 ヨウは耳を疑った。

 そのようなことがあろうはずがない。

 だが、皇帝が嘘を語っているとはどうしても考えられず、よけいに夭は惑った。


「慌ててかけ寄ったが、矢が胸を貫き、姑娘おんなはすでに息絶えていた。それからだ」


 皇帝が呻き、頭を抱える。


「夢をみる。燃える夢だ。この身が燃え、骨になる。眠っているいとまもない。毎晩だ、毎晩、毎晩」


 皇帝は酷く神経質な声をあげ、敷き布を掻きむしった。

 ヨウはぼう然とするほかにない。

 皇帝は奇異なる事象をいっさい信ずることのない豪胆な男であった。

「かならずや祟りましょう」と呪詛をいて死んだ女のくびを、葬りもせずほりに投げ捨てたこともあった。

 その皇帝が虚妄きょもうとしか想えぬ話を真剣に語り、怯えきって身を患っている。夭はおどろきを隠せなかった。


 まして、これは神怪しんかいではないか。


 神怪とは妖神ようしんと怪異を総称する言葉である。人知を超えたものや道理にかなわぬ現象などを差す。

 時の皇帝が禁じたそれらを、現帝である彼が語るなど錯乱しているとしか考えられない。


 ヨウはひきつった喉から声を絞りだす。


「どうか、そのようなおたわむれは」


ヨウ、とくと聴け」


 うすぎぬの帳を分け、皇帝の腕が延びてきた。

 皇帝はヨウの腕を強くつかむ。


神怪しんかいはある」


 視線で帳を貫くように皇帝の眼が見張られる。


「だが、それを公に認めることはできぬ。時の皇帝――羲の第二代皇帝の命に反することになるからだ」


 大陸統一を果たしたは様々な民族を吸収していった。民族は固有の信仰を持ち、其々の神を崇めていた。神権統治しんけんとうちを敷いていた羲の皇帝は信仰の不統一は分裂の火種になると考えた。

 よって第二代皇帝は「皇帝のみが神である」と宣明したうえで論語を引証いんしょうし、こうさだめた。


怪力乱神かいりきらんしんを語らず」


 怪異や死鬼しき、異能といったことわりを乱すもの。皇帝に非ざる妖しき神。の秩序を乱すいっさいを語ることを禁じ、異端の神を祭祀する民族を排斥していった。それにより始皇帝の亡き後も百五十年間変わらず、羲のくにを維持することができたのだ。


わたしはこれまで、理窟りくつで語れぬものなどはないとおもっていた。しかしながら、そうではなかったのだ」


 かみ締めるように皇帝はつぶやいた。

 困惑する夭の心境を知ってか知らずか、皇帝は枕のなかに隠されていた鍵を取りだして夭の手に握らせた。緑青あおさびのついた古めかしい鍵だ。


「今後、神怪が宮廷をおびやかす事があれば、後宮に居る不語カタラズの妃を訪ねよ」


不語カタラズの妃にてございますか?」


「左様。語られざる怪力乱神かいりきらんしんを語る奇異な妃だ」


 ヨウは眩暈がした。

 とてもではないが、理解が追いつかない。

 日頃から冷静沈着な夭だから声の端が震える程度で踏みとどまっているが、神経の細い官人かんにんであったら昏倒していたかもしれなかった。


「畏れながら、斯様かようなる話は一度も耳にしたこともございませんでした」


「故に不語カタラズよ」


 臥牀しんだいの横にある燈火とうかが揺らぐ。天花板てんじょうで影が渦を巻いた。


不語カタラズの妃なるものがることは秘とされ、皇帝のみが、妃の叡智を連綿と相続している。かくゆう、朕もこの歳まで、しょせんはまやかしであろうと疑っていたのだがな」


 皇帝はため息をつき、話すべきことは終わったとばかりにもだす。

 不可解なことばかりだ。

 どうにも得心とくしんがいかなかったが、不躾ぶしつけなことを尋ねて勘気かんきをこうむるわけにはいかない。ヨウは低頭して退室する。

 ろうかに踏みだしかけたところで、皇帝の細い声が追いかけてきた。


「十三年前、陰陽だんじょ双孖ふたごを許したことが、この羲にわざわいをもたらすのではないかと今頃になって危ぶまれてならぬ」


 ヨウは裾でも踏んだような身振りで振りむいた。動揺を禁じ得ず、視線を彷徨わせる。


「立太子宣明の儀を前に、かげたる皇姫むすめが昏睡となったのは幸いであったな」


 血をけた妹の身に起きた凶事きょうじを幸いとする父親の言葉にたいして、彼は肯定も否定もかえすことができず、ただ黙って袖を掲げるほかになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る