陰陽とりかえばや奇譚

夢見里 龍

第一部 語らずの宮廷と萬鬼行

1‐1  陰と陽の皇子(みこ)誕生

 それは、竜であってはならなかった。


 晩夏。天を破るような嵐の晩だった。

 吹きつける風が地を揺さぶる。荒れた天候だというのに月は玲瓏れいろうと澄みきっていた。逆まく颱風かぜは暗雲を散らし、一雫いってきの雨も連れてくることはない。


 異様な嵐だ。


 雲ひとつない帝青あおの帳を裂いて、雷が落ちた。

 宮廷の屋頂やねに敷かれた瑠璃瓦るりがわらが震える。神を語ることが許された時代ならば、竜のえる晩だとしるされたに違いなかった。

 ここは神禁城しんきんじょう。大陸を統一する帝邦くに――の都に築かれた皇帝の宮城きゅうじょうである。城壁にかこまれ、さらにほりが張りめぐらされた堅いまもりを誇る皇城の敷地には豪奢な宮殿が建ちならんでいる。なかでももっとも華やいでいながら、秘められた一郭いっかくが後宮である。


 荒天のもと、後宮で産声があがった。

 皇帝の嗣子よつぎが産まれたのだ。


 だが、産声はひとつではなかった。


 重役を果たして、皇后は臥牀しんだいに身を横たえていた。難産であったため、息も絶え絶えで意識も虚ろである。産まれたばかりの嬰孩あかごを抱きあげることもできぬあり様であった。

 水桶や布を抱え、慌ただしくしていた官女かんにょたちがいっせいに廻廊かいろうの端によけてひざまずく。待望の嗣子しし産まれたりと報せを受けて気のはやった皇帝が直々に後宮へと渡ってきたのだ。


 皇帝は皇后をねぎらってから「して、嗣子みこはいずこか」と尋ねる。


 皇后の臥牀しんだいの側に天蓋つきの揺籃ゆりかごがおかれていた。ここにいたかと皇帝が天蓋のとばりをは取り払おうとしたのがさきか、老齢の腰懐さんばが畏みながら進みでた。彼女は頭をあげることなく「申しあげます」といった。


「皇帝陛下、お産まれになったのは陰陽だんじょ双孖ふたごにてございました。双孖は昔より、わざわいをもたらすたねと語られます。畏れながらおなごは棄て、おのこだけを育てるべきです」


「愚かなことを」


 皇帝は腰懐の忠告を跳ねのけた。


「しかしながら」


くどい」


 一段と強い風が吹きつけた。青葉を繁らせた枝が窓を敲き、飾りの施された窓が激しく揺さぶられる。宮の側にある泉水いけは波うち、荒海のように唸っていた。


「時の皇帝はのたまった。怪力乱神かいりきらんしんを語らずと」


 嵐のなかでも、皇帝の声は搔きけされることなくとおった。


 怪力乱神かいりきらんしんを語らず。これは賢者ののこした論語のひとつである。

 ことわりから外れた事象を語ってならないといさめた教訓であり、人智の及ばない神怪しんかいについて論ずるべからずとも訳される。


 の皇帝は天地創造の神の子孫と伝承されてきた。

 つまり、皇帝は神である。


 ゆえに皇帝を除き、なる神を語ってはならず、人智の域から外れたものを認めてはならない。それはにおいて絶対なる掟であり、禁であった。


「よって根拠のない伝承など畏れるにあたわず。皇帝は神なれば、その御子もまた神となるもの。どちらもわたしの血をけた御子だ」


 皇后の頬にひとつ、涙がこぼれる。

 皇帝は揺籃ゆりかごから嬰孩あかんぼうを抱きあげた。右腕に男孩おのこを、左腕に女孩おなごを抱く。


「名を与えよう。男孩だんじヨウ女孩じょじインとする。女孩が産まれたことは外には語らず、男孩の陰武者みがわりとして育てるのだ、わかったな」


 皇帝になるのは男、これは論ずるまでもない。女がけがれをひき受けるものであるというのにも異論はなかった。

 だが陰陽の双孖ふたごとはいえ、そのようなことが現実にできるのか。なんと苛酷な宿命さだめを与えられたものかと腰懐さんばは震える。

 あるいはこの時にくびられていたほうが幸せだったやもしれないと。


「新たな神の誕生だ」


 風がいっそう強くなる。凄絶なまでの風鳴りが宮殿の壁を震わせた。竜の咆哮ほうこうと聴きまごうような。


 紫電しでんが、天を裂いた。

 明滅する窓に視線をやった腰懐さんばは咄嗟に息をのむ。

 真昼ほどに明るくなった天にあるものが舞っていた。星漢あまのがわを想わせる細かな輝きを帯びた黄金の蛇身じゃしん。鱗のある身を悠々とひらめかせて、月を背にして昇る――あれは竜か。


 腰懐さんばかぶりを振る。


 いや、彗星だ。

 竜であろうはずが、ない。


 遠きむかし、竜は天と地を結ぶ神であると語られた。

 いまや皇帝をおいて神はいない。


 よって、宮廷を揺さぶるこの嵐が――九重きゅうちょうてんを舞うものが、竜などであってはならなかった。




       ◇




 光陰こういんは矢の如く、過ぎた。

 嵐の晩に双孖ふたごが産まれてから、十三年もの時が経った。


 微かに花のを残した春の終わりの風が、の宮廷を吹き渡る。南寄りの風に散らされた最後の桜の花葩はなびらがはらりと舞った。花葩は官人かんにんたちが慌ただしく通りすぎる板張りの廻廊に落ちる。

 白髭しろひげをたくわえた中老の文官ぶんかんや屈強なる武官ぶかんがすれ違うなか、名残りの花葩を踏みつけたのは小さな靴のかかとだった。

 男物の服を身につけていなければ、姑娘むすめかと想うほどに綺麗な男孩しょうねんだ。みるからに敏そうな眼もとにひき締まった唇、微かにうす紅を帯びた頬には幼さを残している。しゃんと背を張りつめた姿は萌えたばかりの落葉松からまつの新芽を想わせた。


 の行政をつかさどる皇城に年端もいかぬ男孩しょうねんは場違いにも程がある。だが、彼は親のつかいで来たというふうでもなく、むしろ勝手知ったる様子で廻廊を進み、宮門へといたる。鏤金るきんの縁が施された唐紅からくれないの扉を通ろうとした彼を、ふたりの衛官もんばんが六尺棒を交差させて阻んだ。


「君、官人かんにんの子息か? ここからさきは内朝ないちょうだ。皇帝陛下の居城きょじょうなるぞ。とがめを受けるだけでは済まん。帰れ」


 新人と思しき衛官もんばんの言葉を聴いて、男孩しょうねんは微かに笑った。可愛らしい容姿からは想像もつかないほどに冷ややかな笑いかただ。


「ほお、私を知らないのか?」


 男孩しょうねんは色素の薄い怜悧れいりな眼で衛官ふたりを睨みあげる。


「なんだと」


 衛官は動揺し、ふたりして顔をあわせる。この男孩しょうねんが何者だというのか。まさかと考えたその時である。


「おお、東宮とうぐうではございませぬか」


 ちょうどその場を通りがかった官人が声をかけてきた。男孩しょうねんにむかって袖を掲げ、丁重に揖礼ゆうれいする。


「拝謁でき、幸甚でございます。春に東宮とうぐうとして宣明されたばかりだというのに、議会においても明晰めいせきなる能弁のうべんを発揮され、的確な指揮をだされている。いやはや、感服いたしております」


 東宮とは皇太子のことである。

 それを聴き、衛官もんばんたちは一様に青ざめた。


「ま、まさか、君――いや貴方様は」


内朝ないちょう外朝がいちょうを隔てる重要な宮門きゅうもんまもるものが、よもや皇太子の顔も憶えていないとはな。怠慢もいいところだ。この時をもって官職を剝奪する」


 男孩しょうねんは冷徹に処する。容赦はないが、適切な措置だ。成人(15歳)を迎えていない彼は公式に皇太子となる春までは後宮にいた。式典を除き表にはあまりでてこなかったとはいえ、衛官もんばんが皇族の顔も把握していないようでは侵入者を通す危険をはらむ。


「無知は罪だ。憶えておけ」


 男孩しょうねんはそれだけいって、銀糸の施された朝服ふくすそをさばき、門を抜けていく。

 後ろからは捕吏ほりに連れていかれる衛官もんばんたちの哀れな声が聴こえてきたが、男孩が振りかえることはなかった。


 司地シチヨウ――彼はあの晩産まれた双孖の、男孩だんじである。

 この春、夭は立太子宣明の儀を経て、正式に次期皇帝となった。


 父親である皇帝に呼びだされ、ヨウは皇帝の臥室しんじょである神清宮しんせいきゅうにむかっていた。中院なかにわを通りすぎ、閑静な宮に足を踏みいれる。

 皇帝つきの宦官かんがんたちが「お待ちいたしておりました」とヨウを通す。

 宦官とは男根を切除し、浄身じょうしんとなった男たちだ。妃妾ひしょうを懐妊させる危険がないため、男子禁制の後宮に配属されているほか、皇帝の身のまわりの補助をするのも宦官の役割だ。皇帝は神である。よって人に非ざる宦官を側にはべらせるのがことわりであるとさだめられていた。

 真昼だというのに、皇帝の臥室しんじょはうす暗かった。窓に帳がおろされ、はおろか風が通ることもないのでどんよりとしている。ここにだけ春がこなかったような寒々しさだ。人払いが徹底されている。


ヨウが参りました」


 臥室には天蓋のついた臥牀しんだいがある。

 帳のむこうから低くかすれた声が聴こえてきた。


「きたか、近こう寄れ」

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