第二話

魔族の少女、メーラにとってこの世界は過酷であった。

親の顔を知らず孤児院で育ってきた彼女は貧しくとも勤勉で心優しい少女に育った。

だが、ある日メーラの頭にツノが生えた。それは魔族の証であり、その瞬間から彼女の未来は暗いものとなった。

魔族の扱いは散々なものである。嬲っても誰も文句は言わないし、奴隷として売り払っても誰も咎めない。


「おい!魔族のお前にゃパンなんか勿体ないだろ!」

「やーい魔族!奴隷商に売ってやろうか?」

「お前がいるだけで皆が不幸になるのよ!消えなさい!」


孤児院の人間からも、街の人々からもメーラは差別と侮蔑の言葉を投げかけられる。

そうして虐げられてきたメーラは常に生傷が絶えなかった。それでも彼女は必死に生きようと、孤児院で雑用を熟していた。


だが、そんな彼女にも一人だけ味方がいた。


「メーラ、大丈夫か?辛いことがあったら俺に言うんだよ」


彼女が幼い頃からずっと側に寄り添っていた人間の青年、アドリアンである。

彼は孤児院の人間ではないが、荷運びの仕事をしながら時折孤児院に来てはメーラと遊んだり、助けてくれたりする青年であった。


「ありがとうアド……でも大丈夫だよ。私は全然辛くないから」


メーラにとってこの世界は辛いものでしかないが、アドリアンとの時間だけは唯一彼女が心を安らげられる時間だった。

魔族だと判明してからも、彼は変わらず接してくれた唯一の人間だ。


「メーラ、俺は絶対にお前を見捨てたりはしない。だから辛いことがあったら俺に言うんだ」


アドリアンの優しい言葉が、彼女の心を満たしていく。

この感情はなんだろうか。肉親に対する愛情とも違う、彼に対するこの感情は一体何なのだろう。

メーラは生まれて初めて芽生えたこの感情を決して忘れはしなかった。


そんなある日のこと、メーラは街に買い出しに行った。

その途中、ガラの悪い冒険者が彼女の容姿を見て絡んできたのだ。


「おい、あのガキ魔族だぜ」

「なに?おぉ、見てくれもいいじゃねぇか」

「ひゃはは!奴隷にして売り飛ばせば金になるな!」


そうしてメーラはたちまち男達に囲まれた。自分よりも遥かに大きな荒くれ者達に、彼女は成す術もなかった。


「や、やめて……!誰か助けて……!」


腕を掴まれ、乱暴に引っ張られる。メーラが必死に抵抗しても、大人の力に敵うはずもなかった。

道行く人間達も、メーラが魔族であると知るや見て見ぬ振りをする。


「テメェみたいな魔族、誰も助ける訳ねぇだろ?」

「おい、売り飛ばす前に少し楽しむか。へへっ」

「や……やだ!やめてぇ!」


メーラは必死に抵抗した。だが、男達の力に敵うはずもない。

彼女は引き摺られるように路地裏に連れ込まれそうになったその時だった。


「やめろ!その子から手を離せ!」

「……あぁ?」


黒い瞳。黒い髪。背の高い、人間の青年……アドリアンである。

絶望に満ちたメーラの瞳に希望の光が差し込んだ。


「アド!」

「なんだてめぇは」

「こんな少女に寄って集って……お前達、恥ずかしくないのか!」

「おいおい魔族を守ってやるなんて正気か?つーかお前みたいな雑魚がこの人数に勝てる訳ねぇだろ!」


メーラを庇うように立ちふさがり男達を睨むアドリアン。そんな彼に冒険者の一人が侮蔑の笑みを浮かべると言い放った。

だがアドリアンは怯まずに、荷車の中から鉱石のようなものを男達に投げつける。

その鉱石は男達の目の前で炸裂すると、辺り一面を強烈な光で包み込んだ。


「ぐわぁ!?」

「め、目がぁ!目がぁぁ!」


男達が目を押さえて悶え苦しむ。アドリアンは呆然とするメーラに手を差し出し、そして行った。


「わり!カッコいいこと言っておいてなんだけど、俺弱いからこいつらに勝てねぇんだ!だから一緒に逃げようぜ!」


メーラの返事も待たずにアドリアンは彼女の手を引き立たせると、荷車を引いて走り出した。

そして男達を撒き、街の外の山に逃げてきたのである。


「はぁ……はぁっ……ここまでこれば追ってこないよな?わはは、怖かったなぁ!」

「ア、アド……」

「ん?」


メーラが恐る恐るアドリアンに尋ねる。

彼女はまだ恐怖と混乱の只中にあったのだ。


「アド、助けてくれて……ありがとう」

「礼なんかいう必要ないさ。それに、近いうちにお前を孤児院から引き取る予定だったしこうして街を出たのも運命かもな……」

「え?」

「あ、いや……なんでもない。それより、あの街は危ないからもう行かない方がいい。俺と一緒に別の街に行こう!』


アドリアンはポリポリと頭を掻いて、そして言った。

何やらいつもと様子の違うアドリアンに首を傾げるメーラであったが、彼女もアドリアンと一緒にいたかったので彼の後ろに付いて行く。


山道を進み、夜の帳が下りてきて辺りが暗くなった頃……。

不意にメーラが呟いた。


「ごめんね……アド」

「ん?」


アドリアンが振り返ると、彼女は瞳に涙を浮かべながら申し訳なさそうに顔を歪めていた。


「私のせいで、アドまで面倒なことに巻き込んじゃった……ごめん……ごめんなさい……」

「……」

「私が、もっとしっかりしていれば……貴方に迷惑をかけずに済んだのに」


メーラは自分が不甲斐ないばかりに彼を危険に晒してしまったと、責任を感じていたのだ。


「私なんて、見捨ててくれれば良かったのに」


メーラというのは自分を卑下し人より劣っていると思い込む節がある。

それは彼女が過去に幾度となく「役立たず」と罵られてきたトラウマによるものだった。


「メーラ。お前を見捨てたら、きっと俺は俺でいられなくなる。だから俺は君を助けたんだ」

「……?」

「はっはっは!まぁ、そんな訳だ!だからお前が気に病む必要なんてこれっぽっちもないのさ!」


アドリアンは笑う。なにがそんな訳なのかは分からないが、その笑顔はまるで太陽のように、底抜けに明るかった。

メーラは不思議そうに彼の笑顔を見つめたが、すぐに顔を俯かせて言った。


「私なんて助けても……いいことなんてないよ」

「ん?」

「魔族なんて、何処に逃げても虐げられる……だから、このまま死んだ方がマシなんだ……」


その言葉に、アドリアンは小さく頷いた。そしてメーラの頭を優しく撫で、そして言った。


「メーラは死ぬのが怖くないのか?」

「……」


メーラは押し黙る。怖かったからだ。魔族である以上、この屈辱とずっと付き合っていくしかないと思っていたからだ。

だが、アドリアンはそんなメーラに笑いかけた。


「俺は死ぬのが怖い!」

「……え?」

「だって死んだら何も残らんだろ?だから俺は死にたくないし、だから誰も死なせたくないんだ!」


そう言って彼はメーラに笑いかけた。


「大丈夫さ!生きてりゃいいことある!だから、死ぬなんて言うなよ」

「……」


なんて無責任な言葉だ、とメーラは思った。

人間には魔族の辛さなんて分からない。だからそんなことが気軽に言えるのだ。

……だけど、何故だろう。

この言葉に、救われた気持ちになったのは。

メーラは自らの感情に戸惑いつつも、無言で彼に付いて行く。


───だが、その数分後である。


「──メーラ!!」


アドリアンがメーラを庇い大岩の下敷きにされたのは。

メーラを突き飛ばし、岩に直撃を受けたアドリアン。

彼は血塗れになって地面に倒れ伏し、そして動かなくなってしまった。


「え……」


メーラは呆然とする。彼女は何が起きたのか理解できなかったのだ。

いや、理解はしていた。だがそれを脳が拒絶しているような……そんな感覚だった。


「う……そ」


震える足でアドリアンに近づくと、彼は穏やかな顔で目を閉じていた。


「あ……あぁ……!」


メーラの視界が涙で滲んだ。彼女はアドリアンの身体を揺らすが、彼は返事をしなかった。

まるで、死んでいるかのように、動かない。


「ね、ねぇ……起きてよアド……」


彼女がそう呼びかけるが、彼は返事をしなかった。


「ねぇってば……」


メーラを庇わなければ彼は助かっただろうに、アドリアンはそれをしなかった。

だから今、彼はこうして血を流して倒れているのだ。

暫くして、山の静寂が戻った頃、メーラはアドリアンの亡骸に縋りついて泣き叫んだ。


「うぅ……うっ……!」


メーラは泣いた。涙が止まらなかった。泣きじゃくりながら、彼女はアドリアンの顔を叩いたが反応はない。

そうして何度も彼を揺さぶった後、彼女はぽつりと呟いた。


「わ、わたしの……せいだ……わたしがいるせいで……アドは……」


いつも自分に優しげな言葉をかけてくれたアドリアン。

慈しむような瞳で自分を見てくれたアドリアン。

月明りに照らされた彼の顔は眠っているかのように安らかで。

でも、もう二度とメーラを見てくれないのだと、彼女は理解してしまった。


「う……うぅ……!!うぅぅぅ!!!」


その時であった。

不意にメーラとアドリアンの身体を狙うように、巨大な蛇が姿を現した。

ティタノボア。世界を飲み込むとされる凶暴な魔物。軍隊すら滅ぼすという正真正銘の怪物。

その魔物が、メーラとアドリアンの身体を食い殺そうと鎌首をもたげている。


「あ……」


もう抵抗する気も出なかった。いや、抵抗したところで逃げ切れる訳がない。

──どうなってもいいや。

アドは生きていればいいことがあるって言っていたけれど。

でも、こんな世界なら。

生きていても辛いだけならば。

もういっそ……この蛇に飲み込まれて死のうがどうでもいい。

メーラはアドリアンの身体に覆いかぶさる。そして目を瞑り、死を覚悟したその時であった。


「う……ん?」

「!?」


───アドリアンが起き上がった。


メーラは驚きのあまり飛び起きると、少し離れた位置に尻餅を付いてアドリアンを見つめる。


「ワシは……」


彼は何やら困惑した様子で自身の身体を見ていた。

彼はキョロキョロと周りを見渡し、そしてようやくティタノボアに気付いたようで、ニコリと笑みを浮かべた。


「イキがいい蛇だ!ワシは好きだぞ、お前みたいな生意気な奴がな!」

「命は奪わんでやろう!魔物とはいえ、命は命だ。ま、少しばかり死ぬほど痛い目にはあってもらうがね」


と、よく分からない言葉を発した。それと同時に巨大な蛇の牙がアドリアンに迫る。


(だめ……!)


メーラは声にならない悲鳴を心で叫んだ。

だが、アドリアンは逃げない。

彼は颯爽とティタノボアの攻撃は風のように躱し、まるで舞うように拳を叩き込んだ。


「───え?」


その姿を見て、彼女は呆然とした。

メーラの目の前で繰り広げられた光景。それはあまりにも現実離れしたものだったからだ。

ティタノボアと言えば高ランクの冒険者ですら手も足も出ない災害級の魔物である。

だというのに、アドリアンはティタノボアをまるで子供のようにあしらい、そして拳一つで圧倒しているではないか。


「す……ごい」


メーラはただ呆然と、その光景を眺めていた。

アドリアンの動きは信じられない程に疾かった。それこそ、常人の目では追えない程の速度である。

アドリアンは天空を舞い、時には拳に炎を纏わせ、時には脚に雷撃を纏わせ、ティタノボアを圧倒していく。


「───」


メーラはアドリアンのその姿に見惚れていた。


美しかった。ただ、そう思った。


彼の動きはまるで野生の獣の如くしなやかであり、美しくすらあった。

星空の下で縦横無尽に動き回るその姿はまるで閃光のようですらあったのだ。

巨大な蛇の攻撃を紙一重で避け、すれ違いざまに拳を叩きこむ。その流れるような動作はまるで至高の芸術を見ているかのような気分にさせる

絶望に彩られていた彼女が初めて見る希望の光はメーラの心を優しく照らし出した。

やがて、アドリアンがティタノボアを圧倒して戦いは終わった。その様子をメーラは呆然と眺めている。


「綺麗……」


知らず、メーラは呟いていた。

今まで生きてきて、このように華麗に舞う人間を見たことがない。

アドリアンの髪が、月光を受けてキラキラと輝いている。

その姿はまさに幻想的であった。


「この世界のワシは身軽でいいな!変なしがらみも、面倒な義務もない。やりたいようにやろう!はーっはっはっは!!!」


彼がよく分からないことを言って笑った。そして、ようやくメーラに気付いたのか彼女を振り向く。

黒い瞳。黒い髪。

幼い頃から彼の姿をずっと見ていたのに、何故かこの瞬間初めて見たような感覚に陥る。


「ごめん……なさい……!」

「ん?」


知らず、メーラは謝っていた。

自分を庇って死んだ……訳ではなかったようだが、大怪我を負ってしまったであろう彼に。

すると彼は一瞬哀しそうな顔をしたけれど、すぐに満面の笑みを浮かべてこう言った。


「わはは!ワシがあんな岩如きで死ぬと思ったか?傷一つないわ!そぉら、ピンピンしとるぞ!」

「お主を守ってやろう。この世界のワシならば、きっとそうしただろうからな」


なんだか喋り方がいつもと違うが、メーラは彼の言葉を聞いていた。

死んだと思っていた大切な人物が無事で、彼女は心の底から安堵した。

そして彼に身を委ねようとしたその時である。

不意に、アドリアンが言った。


「ところでそろそろ出てきてもいいぞ。そんなへったくそな隠れ方、見てるこっちが恥ずかしくなるからのう」


アドリアンの言葉と共に、数人の男達が繁みや木の陰から現れた。

皆、一様に下卑た笑いを浮かべておりその手にはナイフや棍棒を持っている。


「あっ……」


メーラの顔が絶望と恐怖で染まる。その男達は街でメーラに絡んできた暴漢だったからだ。


「へへっ……街での借りを返させて貰おうか……」


どうやらここまで追ってきたらしい、彼等は武器をちらつかせながらアドリアンとメーラに近づいてくる。

メーラは震えるが、そんな彼女を守るようにアドリアンは立ちふさがった。

彼は全く臆した様子もなく、むしろ楽しげに笑っている。何故、こんな状況でそんな顔をできるのか。

メーラには理解できなかった。


「お前さん達、しつこいのう。その欲望をもっと別のことに向ければどうだ?ほら、花を育てるとか」

「うるせぇ!今度は油断しねぇぞ……!」

「ぶっ殺して女とシャヘライトを頂くぜ!」


そんな男達の言葉を聞きながら、アドリアンは呆れたような顔をした。


「はぁ、仕方ないのう」


彼は溜息を吐いて、そして言った。


「稽古をつけてやる、ガキ共。死ぬかもしれんがまぁいいよな?」


その瞬間、アドリアンの動きが消えた。


「へ……?」

「は?」

「え……」


男達の間抜けな声が響く。そして、次の瞬間には彼等の身体は宙を舞っていた。

男達の中心に突如として現れたアドリアンは腕を軽く振るうだけで彼等の身体を吹き飛ばしたのだ。


「て……てめぇ……!?」


仲間が吹き飛ばされたことに激昂した一人が、アドリアンに襲いかかる。

鋭利な刃がアドリアンの背後から迫り来るが、彼は後ろを見ずに、その刃を指で摘んで止めてしまった。


「な……」

「おっそいのぅ。前の世界ならお前さんなんぞ魔族の子供にも負けとるぞ」


そう言って、アドリアンは指の力だけで刃をひん曲げてしまった。

そして、彼はそのまま男に近付くとその顔を鷲掴みにして宙吊りにした。


「いぎぃ!?」


背は高いが鍛えられているようには見えないアドリアン。

だがその細腕のどこにこんな力があるのか、男はアドリアンの拘束から逃れられないでいた。


「あ……がぁ!」

「ほれ、お仕置きじゃ。悪いガキにはこれがよく効く!生きてればな!」


そう言ってアドリアンはもう片方の手でデコピンの構えを取る。

そして、そのまま男の額にデコピンをかました。


「───おごぉぉぉぉぉぉっ!?」


瞬間、男は凄まじい勢いで吹っ飛び、途中にあった木を粉々の瓦礫と化しながら森の奥に吹き飛んで消えていった。


「……」

「……」


メーラも、暴漢達も驚きの余り声も出せずにその光景を見つめていた。


「んー……少しやり過ぎたかの?まぁ、いいか。さて」


アドリアンは男達に向き直る。そして、彼は言った。


「わはははは!どうだ、ワシ強いだろ?」


男達の顔に冷や汗が伝った。その内の一人が身体をわなわなと震わせながら、アドリアンを指差して叫んだ。


「こ……こいつ……『加護』持ちだ!!逃げろ!」


───加護。

それは生まれながらにして持つ、またはある特定の年齢で覚醒する特殊能力。

極少数の者にしか発現しないその能力は時に英雄を生み出し、まさに神の如き力を振るうことができるという。

加護持ちという存在は一般人からすれば畏怖と恐怖の対象だ。

なにせ一人で大軍を相手取れるだけの力を持つ者もいるからだ。


「ん~?加護……あぁ、加護ね……あったなそんなもん」


だがアドリアンはどうでもいいと言わんばかりに頭をポリポリと掻いていた。

通常、加護を一つでも持っていればそれだけで超一流の冒険者となれる。

───そしてアドリアンは、加護という強力無比な存在を十以上もその身に宿していた。

それも、一つ一つが神話級である強大な加護を。それこそが彼が英雄たる所以である。

だが、アドリアンは今現在加護を殆ど発動させていない。正確に言えば自動的に発動してしまう加護もあるので、それに関しては発動させているのだが。

アドリアンが本気で加護を使って戦ったらこの周辺が塵芥と化してしまうだろう。こんな相手には加護を発動する必要もないのだ。


「に、逃げろ!殺されるぞ!!」


暴漢達はそう叫ぶと、アドリアンに背を向けて逃げ出した。

そんな情けない姿を見て、アドリアンは今日何度目になるか分からない溜め息を吐く。


「はぁ~情けないのう。相手が加護持ちだと分かった途端にスタコラ逃げおって。前の世界じゃあ複数加護持ちに命を賭して挑む奴が沢山いたんだがのう」


心底つまらなさそうにアドリアンはそうぼやいた。


「まぁどっちにしろ逃がさんけどな」


ドンっと、アドリアンの脚が地面を蹴る。

そして次の瞬間には彼は暴漢達の目の前にいた。


「ひぃ!?」

「う、うわぁぁぁ!?」


男達は悲鳴を上げて逃げようとするが、アドリアンはそんな彼らを逃さない。

拳を振るっただけで強烈な暴風が巻き起こり、次々と男達が宙に舞った。

脚を振っただけで地面を爆ぜ、彼らの身体を吹き飛ばす。


「うぎゃぁ!?」

「ぐべぇ!!」


アドリアンは一方的に暴漢達を痛めつけると、最後に残ったリーダー格の男の胸ぐらを掴んで言った。


「あっ……あっ……」


最早言葉すら出せない男。彼は恐怖で失禁しており、アドリアンが拳を振るっただけでその命は儚く散るだろう。

身体はガクガクと震え、歯の根はカチカチと鳴りっぱなしだ。


「ひっ……ひぃぃ……!あっ……はぅっ……」


そしてとうとう恐怖の余り気絶してしまった。アドリアンは呆れたように溜息を吐いた。


「やれやれ、情けないのぅ。ワシに向かってくるくらいだからもう少し歯ごたえがあると思っていたが、見込み違いだったか。ワシ、人を見る目だけはないんだよな」


なんと情けないことか。自分から襲っておきながらこの体たらく。

アドリアンは気絶した男を地面に放ると、メーラに向き直った。


「おぉ!お前さんがいるのを忘れとったわ!すまんすまん、ちと加減ができなくての。見苦しいもんを見せてしまったな。大丈夫か?」

「あ……」


メーラは差し出された手を見て、そして恐る恐るその手に触れた。

温かい手だった。優しくて、大きく逞しい手。彼はメーラを優しく立たせると、そのまま彼女の服についた土を払ってくれた。


「ア……アド……加護持ちだったの?」

「ん?あぁ、黙っていてすまんかったのう。実はワシ世界最強の男なんだが、一般人相手に力を誇示するのも恥ずかしくて今まで黙ってたんじゃ」


アドリアンはそう言って笑った。最強というのは彼なりの冗談なのだろうか?とメーラは思った。

その笑顔を見て、メーラはなんだか胸がポカポカと暖かくなったような気がした。

正直、アドリアンがこんなに強かったとは知らなかった。

自らを弱いと称していたのに、ティタノボアを鎧袖一触で倒してしまう程に強いし、あの数の人間をあっという間に倒してメーラを救ってくれた。

しかも加護持ちという、超常の存在だ。

身近な、それも慕っている青年がそんな存在だったということに驚きを隠せない。

だけど、メーラには彼が何者でも良かった。

アドリアンはアドリアンで、彼は自分の大好きな人なのだから。


「さぁ、こんなのは放っておいて早いとこ街へと向かうかのう。あぁ、運ばなきゃならん荷物も引いてたっけか、この世界のワシは」


アドリアンは傍らに置かれていた荷車をポンと叩く。そして笑顔を浮かべながら、こう言った。


「こんなアホ共にしょっぱなから絡まれるとは、前途多難よのぅ」


アドリアンはそんなことを言うが、表情はとても嬉しそうだった。


「だが、人生っちゅうのはだからこそ面白い。そうは思わんか?」

「えっ……」


不意に言われて、メーラは言葉に詰まる。だが、アドリアンはそんな彼女の様子を見て笑っていた。


「どんなに辛くても……どんなに悲しくても……諦めなければいつかいいことが巡ってくるもんだ」

「……」

「人生は長い。辛いことも沢山あるが、それと同じだけ楽しいことだってあるんだから」


アドリアンはそう言ってメーラの頭を撫でた。

その手つきはとても優しくて……そして温かかった。


「異なる世界よ、ワシにどのような物語を見せてくれるのかな。ま、ろくでもないもんだったらその顔面に一発いれてやるがね。おっと、顔面はないか……」


そう言って笑う彼の顔を見ていると、メーラも自然と笑顔になった。

そして、彼女は思った。


(アドは……きっと私にとっての英雄なんだ)


絵本の中でしか見たことがない英雄。

幼い頃から自分を見守ってくれて、そして今も、これからもずっと見守ってくれるであろう、そんな存在。

それが、メーラにとってのアドリアンだった。


「生きてさえいれば……いいこと、あるかな?」


知らず、メーラはそんなことを口にしていた。

その言葉にアドリアンは瞳を大きく見開く。そして、ニカっと笑った。


「あるとも」


その瞳の奥には強い光が灯っていた。

鮮烈な炎の色。それは、アドリアンがメーラにいつも見せていた瞳の色だ。

その輝きは、まるでメーラの心を照らすかのように優しく輝いていた。


「生きていれば、どんなことだってできるんだ」


そう言ってアドリアンは片膝を付き、メーラの手を取った。

それはまるでお姫様の手を恭しく取る騎士のようで、思わずメーラの鼓動が跳ね上がる。


「辛くても、苦しくても、俺が側にいる」


その言葉に、メーラの鼓動が更に高鳴る。顔が熱い。

きっと、今の自分の顔は真っ赤になっているだろう。


「だから」


そしてアドリアンは言った。


「生きよう、メーラ」


その力強い言葉に、メーラの心に光が灯るような気がした。その温かさに触れながら、メーラは自然と頷いていた。


『大丈夫さ!生きてりゃいいことある!』


彼女の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。

それは、この世界のアドリアンが放った言葉だ。

何の力もないけれど、無力な少女を救った小さな英雄の言葉は彼女の心に確かに届いていたのだ。


「……うん!」


そして、彼女は笑顔を浮かべた。

それはまるで花が咲いたかのような可憐な笑顔だった。

アドリアンもまた、自らの身体の内から湧き上がる感情に身を委ねていた。


(もう一人のアドリアンよ。何の力も持たぬ、小さな英雄よ。ワシはお前の意志を継ごう。お前の代わりにこの子を支えよう。だから……)


そして彼はメーラの笑顔を見ながら思うのだ。


(安心して眠れ、もう一人のワシよ)


その瞬間、アドリアンは自らの身体に在ったもう一つの魂が眠りに就くかのような感覚を覚えていた。

だがいなくなった訳ではない。確かにこの身に存在して、今も彼女を支えようとしている。

その魂がメーラを慈しんでいることを、アドリアンは感じていたのだった。


「アド?」

「ん?いや、なんでもない」


メーラの声に我に返ったアドリアンは笑顔を浮かべると、立ち上がる。


「さて、行くかのぅ。いつまでもこんなところにいたら、また岩やら蛇やら人間やらが湧いてきそうだ」


そうして二人は山道を進み始める。

満天の星空と、美しき月の下、ゆっくりと歩を進める。

行く先にはきっと新たなる世界が広がっているのだろう。

でも、きっといいことがある。だってこんなにも素晴らしい英雄が側にいるのだから。

メーラはそんなことを思いながら、アドリアンの背中を追いかけて行ったのだった。

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