玄冥宮の屍王

有田くもい/角川文庫 キャラクター文芸

 陽がのぼるにつれて、絹のとばりをはぐように空の暗がりが消えていく。

 回廊を抜ける風に混じり、春蘭が淡く香る。

 いまは春の終わり。その訪れを告げる春蘭の花が咲く時季はとうに過ぎているはずなのだが……。

 季節外れの香りに気を取られて、じゆんとうせいは立ち止まる。

 歳は二十代半ばといったところか。鋭く飛ぶ矢のように鍛えられたたいせいかんな印象を放つ青年だ。

 さらには黒ずくめの装束に、腰には使い込まれた剣と、身なりもどこかいかめしい。

 けれど、端整で優しげなようぼうった雰囲気を薄めるのか、向き合う者に恐れや警戒心を抱かせない。

「どうかしましたか?」

 前を歩いていたちようりんがふり返り、尋ねてくる。

 高く涼やかな声と同じく、面差しも麗しい青年は深緑の官服をまとっている。たいせいこく皇城において、それはかんがんを意味する衣だ。

「いえ、その……春蘭の香りがしたので」

 冬惺の返答に、霖雨は感心した風にまゆを上げる。

「おや、この花香を言い当てるとは驚きです。がくほうなど、荒々しい無頼漢ばかりかと思っておりましたが、どうやら冬惺殿は違うようだ。品良く柔らかな見目のみならず、風雅を解する心もお持ちでいらっしゃる」

 思いがけない反応に冬惺は戸惑う。

 人が生きる世界──現世にはと呼ばれるようが存在する。

 太古の昔、神と人の生きる世界が隔てられる際に、現世に残ってしまったけがれの塊、それが穢鬼である。

 穢鬼は人の血肉を好み、らう。言うなれば害獣であり、有史より延々、人はその犠牲になってきた。

 穢鬼の多くは猛獣よりはるかに強く、出くわそうものなら人は枝葉のごとく容易たやすく斬り裂かれてしまう。

 しかし、長い時を経るうちに、人の中に穢鬼を退治するすべを持つ存在があらわれはじめた。霊力というぎように通じる力を使いこなす者たち。それが鬼方士だ。

 冬惺は幼い頃に親を失い、孤児となったが、持って生まれた霊力のおかげで五岳──鬼方士が集う組織に入ることができた。

 鬼方士は脅威をはらう存在として、人々より敬意をはらわれてはいる。

 だが、黒一色の装束に加えて、武器を持ち、異能をふるうせいか、得体が知れないと恐ろしがる者も少なくない。さっき、霖雨が口にしたように、粗野で血気盛んという先入観を抱かれがちな面もある。無論、そういった者がいないとは言えないが、厳しい規律の下に生きる鬼方士たちは大部分が礼節をわきまええている。中には、学者や高官も顔負けの知識や教養を持つ者もいるくらいだ。

 とはいえ、あいにく冬惺はその範疇にない。

 気質は真面目で謙虚、なおかつ辛抱強い。けれど、情趣の有無となるといささかこころもとなくなるのが潤冬惺という青年だ。当人自身も、己を剣をふるうくらいしか能のない不調法者だと思っている。

 そんな風に、世間の機微にはやや鈍い冬惺ではあるが、霖雨が自分を褒めている訳ではないのはわかっている。おそらくはの意味が濃いのだろうが、それでも風雅などと言われてはどうにも据わりが悪かった。

「そんな大層なものでは。げんめいきゆうは春蘭の香りがする、というのは五岳では誰もが知る話でしたので」

「なるほど、そういうことでしたか。では、噂が真実と知り、感動されたと?」

「……実感した、という方が正しいかもしれません」

 霖雨に対するというより、どこか独り言に近い口調で冬惺は答える。

 玄冥宮を取り巻く、春蘭の香りに触れればすべてがわかる。それが、五岳に伝わるおうに関する風聞だ。

 市井と比べればまだ近いといえる鬼方士にとっても、玄冥宮の屍王は謎に包まれた存在である。時には、本当にいるのだろうかという疑いさえ頭をもたげる。

 だが、話に聞く春蘭の香りに触れて、いや正確には花香がはらむ尋常ならない霊力を感じ取り、冬惺は全身全霊で思い知った。確かに、この回廊の果てには人よりも神に近い存在がいるのだと。

 他の霊力を感知するにも、ある程度の霊力が必要となる。霖雨にすれば、この香りも単なる花の匂いに過ぎないのだろう。説明したところで伝わらない部分ははらに収めて、冬惺は霖雨に頭を下げた。

「すみません、余計な刻を取らせました」

「お気になさらず。では、参りましょうか」

 霖雨はにこやかに踏み出し、冬惺もあとに続く。

 高い壁に挟まれた、複雑に入り組んだ回廊を進みながら、霖雨は気負いない口調で話しはじめる。

「しかし、花など影もなく、香木をいている訳でもないのに、どうして玄冥宮は常に春蘭の香りで満ちているのか。現屍王、はくれい様にお仕えして間もない頃、不思議に思って尋ねたんですが、あっさり無視されました」

 れ言めいた口調であったが、改めてその名を聞いて冬惺の身に緊張が走る。

 冬惺が皇帝の勅命という異例の形で、屍王の手足となって働くよう命じられたのはひと月前のこと。覚悟はできているつもりだったが、今更ながらに課された役目の重さを痛感する。

「ここだけの話、白玲様は物わかりの良い方ではありません。私の前任者の話によると、先代屍王のはくへき様は知的で優美な方だったらしいですが、白玲様ときたらまるで逆。端的に言うと、無駄に顔が良いだけの、いろいろとこじらせた面倒臭い野猿です。冬惺殿も苦労されるでしょうが、めげずに頑張ってください」

 何と答えればいいのかわからない。冬惺はただ、黙ってうなずく。

 感じ取れないとはいえ、この霊威の持ち主をこき下ろせる霖雨の胆力に感心してしまう。言葉の端々から察してはいたが、見かけは仙女のようなやさおとこなれども、性根の据わり方はまるで違うのかもしれない。

「さて、着きました。あれが玄冥宮の楼門です」

 霖雨の言葉通り、回廊が切れ、視界が開けた先にその入り口はあった。

 黒ずみひとつない真っ白な楼閣は立派な造りで、いたばかりのような鮮やかないろかわらが朝陽を受けて輝く様は壮麗だった。

「あの楼門をくぐり、殿舎を取り巻く水路にかかる橋を渡れば玄冥宮──なんですが」

 霖雨は話しながら楼門に近づき、門扉へ続く石階段の前で足を止めると、冬惺に向き直る。

「肝心なことを言い忘れておりました。実を申しますと、白玲様は冬惺殿の来訪を歓迎しておりません」

「え?」

「先触れを出したところ、助けなど不要、絶対に寄越すな、とまあ、何を言っても聞く耳を持たずで。毎度のことですが」

 考えるまでもなく、霖雨はあえて黙っていたのだろう。

 そして、それは同時に、このぼうの宦官が事態の解決をすでに投げ出していることを意味する。おそらく、手を貸してくれる可能性も低い。

 しかし、承知していてもなお、冬惺はこう尋ねずにはいられなかった。

 だとすれば、自分はどうすればいいのか?

 冬惺が口を開きかけた時だった。

 音もなく、門扉が大きく左右に開く。途端、あえかだった春蘭の香りがすがすがしくも濃密なものとなった。

「あれほど来るなと言ったのに……」

 門扉の向こうからまかり出てきた青年がいまいましげにつぶやく。

 その姿を目にした瞬間、冬惺は我を忘れた。

 事前に霖雨から聞き及んでいた、「平伏やはいは不要です。仰々しい真似は嫌がる方なので。一応、きようしゆだけはお願いします」という教えも頭から消え去った。それほどまでに美しい青年だった。

 冬惺より幾分も若い。二十歳に届くどころか、ともすれば少年にさえ見える。

 線が細く、身の丈もそれほど高くない。びやくれんの花弁を思わせる肌に、このうえもなく整ったもく。背に垂らした長い黒髪は目映まばゆりんこうをまとっている。

 肩とすそあまいろの水紋が入ったちようをはじめ、しんほうきやくちように至るまで、青年の身を包むものはすべて白銀色でそろえられている。並外れた美貌と相まって、その姿はあたかもげんそうたんから抜け出してきた月の化身のようだった。

 こちらをにらみつけるひとみは珍しい宵闇色で、しかもいっそう特異なことに双方のこうさいに白銀の三日月が浮かんでいる。

 花香に潜む霊力同様、あの月影もまた、見える者にしか見えない。

 虹彩に浮かぶ銀光は霊力の証左だ。

 鬼方士でも、砂粒を散らした程度にあらわれれば多い方だが、青年のそれはしっかと弓月を成している。容姿だけでなく霊力、いや神の代行者ならば神力と呼ぶ方が正しいのか。とにかく、その強さは人の域をはるかに超越している。

 もはや、疑いの余地はない。

 この美しい青年こそが現屍王、白玲だ。

じいさんに伝えたはずだ。俺は誰も召し抱える気はないと」

 白玲は段上から冬惺を見下ろし、冷たい声で言い放つ。

 しかし、冬惺は動けない。

 白玲のあでやかさと強大な霊威に完全に魅入られていた。

 返答どころか、まばたきひとつしない冬惺にれたのか、白玲は不機嫌もあらわに眉根を寄せ、再びしんらつな言葉を放つ。

「聞こえていないのか? 足手まといは要らない、と言っている。わかったら、さっさと去れ」

 白玲はにべもなく言い切ると、鋭いいちべつを最後に背を向け、後ろ手に扉を閉める。

 ガシャンという、重たい音が響き渡ってから、しばし。

 静寂と春蘭の香りがゆるゆると散っていく中で、霖雨が軽く肩をすくめた。

「足手まとい、ですか。これはまた、随分と手酷い拒絶を喰らいましたね」

 霖雨から声をかけられて、冬惺はやっと正気に立ち返った。

「あ、えっと……私はどうすればいいのでしょうか?」

 途方に暮れながら、冬惺はさっき出し損ねた問いを口にする。

 最初からいまこの瞬間まで、徹底して傍観者を貫いていた霖雨は、「さあ」とたおやかに首を傾げた。

「私の役目はあくまで道先案内ですから。それ以外となるとちょっと」

「霖雨殿は屍王……白玲様のちゆうと聞きましたが」

「侍中など、神の代行者におそれ多い。私なぞ、ただの伝達役に過ぎません。ですが、そうですねえ。事と次第によっては、協力を考えないでもありませんがね」

「事と次第、というのは……」

「皇城内はすべてに値札がついているんですよ。知識、情報、協力といった目には見えないものにも」

 世慣れないなりに、冬惺は事と次第の意味を理解した。要するに、霖雨は仲立ちを頼みたいなら手間賃を寄越せと言っているのだ。

「……それは、その。どれくらい必要なんでしょうか?」

 素直過ぎる冬惺の質問に、霖雨は吹き出す。

「いまの私の話を聞いて、それを尋ねます? 言ったでしょう、すべてに値札がついていると。冬惺殿はいま少し、皇城の常識について学ばれた方がいい。まずは私の協力があがなえるよう、精々頑張ってください」

 ほほえみこそ柔和だが、霖雨のとりつく島のなさは先程の白玲と同じくらい徹底している。早々に冬惺はあきらめの息を吐いた。

「……努力します。ところで、白玲様が口にしていた爺さんというのは」

「ああ、皇帝陛下のことです」

 用は済んだとばかりに、早くもきびすを返そうとしていた霖雨は足を止めて、事もなげに答える。

「不敬極まりないですが、屍王は不可侵、威光の治外法権ですから。この太星国で唯一無二、皇帝にこうべを垂れることのない存在です」

 洗練された会釈を最後に、霖雨は去って行く。

 残された冬惺は再び息を落とすと、改めて扉と向き合う。

 寸分の隙間もなく閉ざされた扉が冬惺の絶望をいっそう深めていく。

 一体、どうすれば開くのか。皆目見当がつかなかった。

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