出る杭は打たれるけど出過ぎたら認められる――2
五月五日。ゴールデンウィーク三日目。
「お前さんには今日から調理に加わってもらう」
「……はぇ?」
厳さんから告げられた言葉に、仕事に取りかかろうとしていた俺は呆然とした。自分の耳がおかしくなってしまったんじゃないかと疑うほどだ。
「俺が? 調理に? 加わる?」
「
「それについてはわかっているし、受け入れてもいます。問題はそこじゃないんですよ」
困惑から眉を下げつつ、俺は尋ねる。
「俺はバイトに過ぎないんですよ? 修行してもいないのに、調理に加わっても大丈夫なんですか?」
板前にはいくつかの階級がある。
板場の下準備、掃除などの雑務を担当する、下積み時代『追い回し』。
魚介類などの下ごしらえを担当する『洗い場』。
八寸、先付け、そのほかの料理の盛り付けを担当する『
揚げ物、焼き物を担当する『
蒸し料理を担当する『蒸し場』。
煮物、鍋物、出汁取り、タレ作りを担当する『
刺身作りを担当する『
板場の副責任者である『二番』。
そして、板場の総責任者である『板長』。
新人の板前は『追い回し』から入り、そこで任せられた仕事を満足にこなせるようになると、次の階級に上がれる。そうやって、ひとつひとつ仕事をマスターしながらステップアップし、最上位の『板長』を目指す。これが、いわゆる板前修業だ。
板前修業は厳しい。担当する仕事をマスターし、次の階級に上がれるまでには一年くらいかかる。一人前の板前になるには、長い時間と努力が必要なのだ。
それなのに俺は、一年どころか一週間すらも『
だからこそ、厳さんの言葉が信じられなかった。動揺してしまったわけだ。
「たしかに修業は大切だ。生半可な腕のやつに、調理を任せるわけにはいかねぇからな」
「けどよ」と、厳さんがニヤリと笑う。
「習わしにこだわりすぎるのもいけねぇぜ? 頭を柔らかくしなきゃならねぇときもある。たとえば、原石どころじゃねぇ、とうに磨き抜かれ、輝きを放っているダイヤを見つけたときなんかは、特にな」
厳さんのたとえが、なにを指しているのかは――誰を指しているのかは、歴然だった。
息をのむ俺に、厳さんが告げる。
「哲。お前にゃぁ、雑用はふさわしくねぇよ」
震えるほどの歓喜が
無理もない。板前の頂点である厳さんからここまで褒められて、どうして喜びを我慢できるというのか?
嬉しくてたまらない。混乱も動揺も一瞬で吹き飛んだ。一も二もなく頷いて、厳さんの話を受けたい。
しかし、ギリギリで俺はその衝動を抑えた。無視できない懸念があったからだ。
先輩たちは、俺が調理に加わることを許してくれるのか?
調理に携わっている先輩たちは、月日と努力を積み重ね、そこに至った。険しい道のりだったことは想像に難くない。
だというのに、俺が――バイトの若造が、自分たちと肩を並べようとしているのだ。心中穏やかではないだろう。
納得なんてできるはずないよなあ。それどころか、
反応をうかがうべく、恐る恐る先輩たちのほうを見る。
だが、厳さんに反対するひとも、俺に文句をつけるひとも、ひとりとしていなかった。
「そいつらの顔色をうかがう必要はねぇよ」
予想外のことにキョトンとしていると、厳さんがクツクツと喉を鳴らす。
「もう確認はとってんだ。お前が調理に加わることに、異論があるやつはいねぇ」
「確認って……そんなの、いつとったんですか?」
「お前がまかないを作ってくれたときだよ」
言われて思い出した。
――さて。どうだ、お前ら? 『例の話』に異論があるやつはいるか?
昨日、厳さんが先輩たちにしていた問いかけ。そこに出てきた『例の話』とは、『俺を調理に加えること』だったのだ。
問いかけの結果、厳さんに反対するひとはいなかった。つまり、いま厳さんが言ったとおり、俺が調理に加わっても構わないと、先輩たちは思っている。
なら、もう心配することはない。心のままに、厳さんの話を受ければいい。
決心した俺は、厳さんに向き直って頭を下げた。
「わかり――」
「ちょっと待った!!」
怒声に似た叫びが上がったのは、そのときだ。
ビックリして声がしたほうに顔を向けると、二〇歳過ぎと
いかつい顔つきをしているその先輩は、昨日、厳さんが先輩たちに問いかけていた際、俺を睨み付けてきたひとだ。
「どうした、
「やっぱ、認められねぇッス!」
その先輩――秀さんの言葉を受けて、厳さんが顎をさする。
「昨日訊いたとき、異論はなかったはずだぜ?」
「あのときは我慢してました。厳さんの言うことッスから」
「けど」と続けた秀さんが、激情で顔を染めた。
「納得できねぇッスよ! 俺たちは板前の仕事に誇りを持ってるんス! 人生をかけてるんスよ!? それなのに、どこの馬の骨かもわからねぇ若造が調理に加わるなんて、許せるわけないじゃねぇッスか!」
吠えるような秀さんの主張に、何名かの先輩が同意の頷きをした。昨日、厳さんに問いかけられたとき、渋々賛成していたひとたちだ。
や、やっぱり、不満はあるよね。しかたないっていうか、それが普通だよね。
タラリと冷や汗がこぼれる。
うろたえる俺を、秀さんの視線が貫いた。
「甘やかしちゃいけねぇんスよ。調子に乗ってもらっちゃ困る」
憎悪すら籠もっていそうな眼差しに、思わず震えてしまう。
マズい流れになってきたなあ……どうやって収拾を付ければいいんだよ、これ。
予想だにしなかったトラブルに、俺は頭を悩ませる。
一方、こういう事態も想定済みだったのか、厳さんは平然としていた。
「まあ、秀の意見ももっともだ。不満があるのはしかたねぇ」
髭のそり跡をジョリジョリとなぞって、厳さんが口端を上げた。
「なら、腕試しといこうじゃねぇか」
「腕試し、ッスか?」
「おうよ」
「哲とお前さんで料理対決をするんだ。お前に勝てるほどの腕前を持ってるとしたら、哲を認めねぇわけにはいかねぇだろ?」
「たしかにそうッスね。そんな可能性は万に一つもありませんけど」
秀さんが歯を剥き、肉食獣みたいに獰猛な笑みを浮かべた。
「秀が勝ったら、哲を調理に加える話はなし。哲が勝ったら、これ以上の反論はなしだ。どうだ、お前ら? この条件で満足できそうか?」
秀さんに賛同していた先輩たちに、厳さんが確認を取る。先輩たちは揃って頷いていた。どうやら文句はないらしい。
「うしっ! 決まりだ!」
厳さんが、パンッ! と手を叩く。
「この話は一旦おしまいだ。仕事の時間だからな」
厳さんに促されて、先輩たちが昼営業の準備に取りかかる。
あれよあれよという
俺は頭を抱える。
秀さんが睨み付けてきた。
「叩き潰してやる。覚悟しとけ」
「お、お手柔らかにお願いします」
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