共犯者の名
師
共犯者の名
一九七九年。私は生まれた。
父と母は同じ会社の職員だった同じ職場で知り合い、数年の付き合いののち、結婚に至った。そして一年後には私が誕生していた。
「ここは京都だから、京子でいいだろう」
単純な父は単純な名前を一人で勝手に決めて、役所へ届け出た。その日から私は京子という単純な名前を一生涯背負うはめになった。そんな父に母は、
「いい名前ね」
と、言った。しかし、父が仕事に行っている間の母は、私と二人きりになるやいなや、
「勝手に名前をつけてしまって嫌だわ」
本当はいい名前だとは思っていないらしく、不満そうな顔して、まるで口癖のように私に言う。父の前での台詞はお世辞なのだったのだろう。
母の名前は夏子だ。母は単純な自分の名前が嫌いで、せめて私には良い名前をくれてやろうと考えていた。父の安易な発想で母の夢がつぶれてしまったことが私も残念でならない。
「単純な名前なんて嫌でちゅよねー?」
私は同感の意を母に伝えるべく、きゃっきゃっと、声を上げた。「そう思いまちゅよねー?」
母は普段使わない言葉で私に笑みをみせ、おでこにキスをしてくれた。私は嬉しくてまた、きゃっきゃと、今度は足をばたつかせて喜んでみせた。
私は、思考はしっかりしているのにも関わらず、体が未熟なため言葉を発する事が出来ないでいる。一人で立つことさえ出来ず、いつもベビーベッドに寝かされている。見えている視野なんぞは未だぼやけていて、挙句に、外観を覗き穴二つから覗き込んでいるかのように視界の回りのふちが丸く闇に包まれている。まだ、この体に私が据わっていないのだろう。分かっているが、それでも時々、この体のもどかしさにいらいらしする。そんな私に母はすぐにかけつけ、私を抱き上げては「よしよし」と慰め、苛立ちを緩和してくれる。ぽんぽんと背を叩く母の手に合わせて私の心臓の打ちが落ち着く。
ぽんぽんとされると母のお腹の中で聞こえていた母の心臓音のようで私は好きだ。
「夏子さん」
背後からの声に、母はおもむろに嫌な顔をした。だが、声の主に気づかれぬようため息をすると愛想の良い表情をつくり、
「こんにちは、お義理母さま」
振り向いた。
父の母である正子が、いつの間にか居間の戸口に憮然として立っていた。
六十過ぎの愛想笑いの笑みもない顔に年甲斐もなく厚化粧で清潔感はない。口紅ののりも悪く、目が悪く、自分の唇がよく見えないのだろう、口紅のラインがいつも微妙にずれて、唇からはみだしたりしている。毛の無い眉毛にアイブロウだけでかかれた眉は下品に見える。その様を見ているとこの人の血が少しでも自分に流れているだろうかと思うと、私は祖母から目をそらしたくなる。
「お義理母様、ご連絡くだされば駅までお迎えに行きましたのに」
祖母は私たち家族と同居はしていなかった。しかし、時折、様子伺いに来ては、事あるごとに逐一首を突っ込んでは小さな問題を大きな問題に変えてしまう迷惑な人だった。
母が祖母に対して一番嫌がっているのは、今のように、家のチャイムも鳴らさず、合鍵を使って勝手に自宅へあがってしまうことだ。
「今日は敏郎の誕生日だから、ご馳走を作ってちょうだい。洋食はだめよ」
「和食でよろしいのですか?」
母の愛想笑いが崩れた。
「でも敏郎さん和食はあまり好かないと、今朝に言ってます・・・」
「敏郎は和食で育ったのよ。好かないはずがないわ」
祖母に言い切られて母はぐっと押し黙ってしまった。
祖母は自慢気に断言したが、父は母の言うとおりに和食が嫌いだった。今朝だって仕事へ行き際、母に「和食頼むからやめてくれよ、嫌なんだ」と念を押していたのを私もちゃんと聞いていた。
「・・・はい、わかりました」
母はしぶしぶ同意した。
これでは母はまた父に文句を言われるに決まっている。
私は手足をばたつかせ、甘えた声を出した。
「あー、京子ちゃんおばあちゃんでしゅよー?」
予想通り、祖母は私に近づいてきた。そして母から私を奪い上げた。
私は懸命に出来る限りの笑みを祖母に向ける。
「京子ちゃんはおばあちゃんが好きですねー?」
祖母の腕の中で、私は手をばたつかせ喜んでみせた。
母は義理母のナルシスト的な発言に眉をひそめ、じっとこちらを見つめている。
「夏子さん」
祖母が急に母に振り返り、母はあわてて笑みをつくった。「今日の夕飯は私も参加しますから」
京子ちゃんもおばあちゃんにいて欲しいわよねー?
高い高いをしてくる祖母に私は再びきゃっきゃと喜んでみせた。
「ええ、お義理様、是非・・・」
母が安堵した表情になった。
祖母は今夜いる。祖母がいれば夕飯のメニューを和食にせざるを得なかった母が父に叱咤されることはない。
父は自分の母親の前では、なんでも祖母の言うことを聞く「いい子ちゃん」なのだ。
巧くいった。
私は心から喜んだ。私は私の母を傷つけられぬよう守ったのだ。
作戦は成功した。
夜。
春と言え、まだ四月で父が帰宅する夜は微妙な寒さが残っている。
「ただいま」
父が帰宅した。
「お帰り、敏郎」
いつもで迎える母と違う声に父は一瞬驚いた。玄関には私を抱きかかえていた己の実母が立っていたからだ。しかし、次の瞬間には、
「やぁ、母さん。来ていたんだね」
満面の笑みをこぼし、「来てくれて嬉しいよ」と言った。
いつもと違う声のトーン。
ご機嫌取りだ。私にはすぐに分かった。喜びの声の裏にはまた来たのかよ、といった隠された感情があるのを。
父がキッチンにやってくる。
「帰りなさい、あなた」
母は気まずそうに父に言うなり、
「まぁ、夏子さん、夫が帰宅したと言うのに玄関まで出迎えないなんて良いことではなくってよ?」
祖母は嫌味をこぼすが、母は夕飯の支度について祖母にあれをしろ、これをしろと一日中、命令されいたので、母はくたくたになってしまっていた。
父はタイミング悪く、母が鍋の火加減を見ている時に帰宅した。いつも通りに出迎えるには、物理的に無理だったのだ。ただただ、父の帰りを待ちわび、私を抱きかかえていた祖母とは違うのだ。
また厭味を言うか。
私は祖母へ、きゃっきゃと声をたて、祖母の頬に手をやりぐいぐいとその頬をひっぱった。私の非力で祖母の頬を引っ張ったところで痛くもかゆくもないのだろう。私は無念に思ったが、しかし、祖母が母へ言う厭味はそこで止まった。
「やぁ、今日は和食か」
父はダイニングテーブルにお膳立てられた夕飯を見て嬉しそうに言った。しかし、祖父に気づかれないよう、母に、和食は嫌だと言っただろうと、キッと睨み付けた。
母は困惑した。仕方が無いことだったからだ。祖母と父との板ばさみ。
私は母が憐れに思えた。だが、そんな母をフォロー出来る程、この体はまだ成長していない。この体がなんとも歯痒かった。
それほど母が悪いのか?
いや、元をただせば祖母が悪い。母に用事をいいつけ、夕飯の用意以外は何も出来ないようにあれよこれよと言い、己の言い分を通らなければ、母に厭味一つ二つと言う。
母は何故言い返さないのか?
厭味を言われ続けても言い返さないのは、自分さへ黙って聞いていれば丸く収まるのだと思っているからに違いない。言い返せば、また父へといいつけるなどして、厭味が濃いものになり、一つ二つでは済まなくなるからと考えているのだろう。
なんとか、母に理由をつけて祖母に言い返せないものか。
私は考え、私を抱いている祖母に向かって大声で叫んだ。
うんぎゃぁ!
そして、叫んだ瞬間、私は足をばたつかせ、祖母の手からするりと、抜けた。
「きゃぁ!」
母の叫び声が聞こえる共に、私の背中に強い痛みが走った。「京子!」母が私に駆け寄る。
そう、私は祖母の手からすり抜け、祖母の腕から落下したのだ。
「京子ちゃん!」
祖母が慌てふためく。
私は生まれて初めての痛みに一瞬、我を忘れてきょとんとしてしまったが、次に泣き叫けばなければと思い懇親を込めて叫んだ。
ぎゃぁぁああ!
痛みがじわじわ押し寄せてきて涙が出てきた。
「母さん!なんでちゃんと抱きしめてないんだ!」
父は祖母に向かって怒鳴った。
もっと怒鳴れ。
私は思った。そして母も怒鳴ると思った。
母さん、今だ、私を理由に鬱憤を込めて祖母に怒鳴ればいい。
しかし、母は私の予想外に、
「義理母さん、いいです、気にしないでください。京子は大丈夫ですから」
そう言うと私をそっと抱き上げ、痛いところはないか、私の体じゅう触って確かめた。「念のため、明日病院で頭を打っていないか・・・看てもらいますから・・・」
頭から血がでていないか私のまだ少ない髪の毛を掻き分けた。少しくすぐったかったが、なにより私は悲しくなった
次の日、父はいつも通り仕事に出かけた。今日は黙って出かけた。祖母がいたため、夕飯メニューの希望を言わずでかけざるを得なかったからだ。しかも、昨日は祖母がいたせいで大好きな酒が飲めず、少しイライラしているのが分かった。「行ってきます」も言わずに出かけた。
「朝から愛想がないわ」
父を玄関で見送り、父の弁当を作りの後片付けの続きをしている母に祖母が声をかけた。「あんな愛想のない見送りされて、敏郎は朝から気分が乗らないでしょう?」
「・・・すみません」
「貴方は本当にすみませんしか言わないのね?」
名前をすみませんにでもしたら?
心ない事を付き加える。
母はぎゅっと台布巾を握った。
祖母は母に対してなにかしら理由をつけては文句を言う。
俗に言ういびりというやつだろう。
老後何もすることがなくなった老人の唯一の楽しみなのだろうか?
祖母は続ける。
「毎日毎日退屈だわ」
あなたのせいね。
そう言わんばかりに祖母は母に横目をやった。
「敏郎は楽しそうではないみたい」
祖母はおかしそうに声を出して笑った。「はいかいいえしか言えない女に、つまらない女に引っかかったものだわ」
「・・・」
母は目を見開いた。
「料理は下手、夫も癒せない。貴方は妻失格ね」
祖母は母に背を向け私へと向かってきた。笑い続け、「女としてもね」
母はぐっと・・・・布巾ではないものを握り締めた。
祖母に突進する母。
リビングに差し込む太陽が何かを光らせた。
「!」
祖母が異様なまでに目見開いた。
生臭い何かが私の鼻を掠めた。
大量の赤い液体が床にぼとり、ぼとりと落ち始める。
祖母はぐらり・・・前方に倒れた。
祖母の背中の肉に刃物が食い込んでいる 。
祖母は死んだ。
母の顔から血が引けるのが分かった。
私は足をばたつかせた。
「きょう、京子」
母は私に気づいて近づき、抱き上げた。「京子・・・京子ちゃん。きょーちゃん」母は何度も私の名前を呼んだ。
まるで現実逃避するかの様に。
再びの夜。
「ただいま」
父が帰宅した。
「お帰りなさい、あなた」
母は私をあやす手を止め、玄関へ出迎えた。
「いい匂いだな。夕飯何?」
「ビーフシチューにしたわ」
父は良かった、と言った。ビーフシチューは父の大好物だ。
「ただでさえ、仕事であれこれと我慢しているんだから、夕飯ぐらいは好みのがいいよな」
と、ジャケットを脱いでネクタイを緩めると、ソファに踏ん反り返った。母は少し困った顔をして、そうですね。と父の夕飯のお膳立てをし始める。
「喉が渇いたな」
父は台所まで来て冷蔵庫を開け、缶チューハイを取りだした。「そういえば母さんは?」
いきなりの問いかけに、母は体をびくっとさせた。
皿にビーフシチューを入れる手が震えている。
「どうした?」
父はその場で缶を開け一口飲みながら、横目で母を見た。
母の顔からまた血の気がなくなっていく。
シチューを入れるお玉が皿にカチャカチャ当たって鈍い音を出している。
「あの・・・」
私は母が祖母の遺体を隠したのを父にばれると思った。
父の気をそらさねば。私は思いっきり叫んだ。
ぎゃあ!!
「あっ!」
ガシャン
母は私の声にびっくりしシチューの皿を床に落とした。
「すみません、あなた、京子をあやしていただけます?」
母は慌てて父から目をそらし、床にひざまづいて、割れた皿の処理をし始める。父は少し不思議そうにしていたが、私が泣くものだから、急ぎ足で私の元へとよる。
「どうしたー?京子」
父は私を抱き上げる。
酒の匂いがして、私は少し嗚咽を感じたし、タバコ臭い匂いで不快を感じたが、母のため我慢した。
しばらく泣いていると、泣きすぎても疲れると思ったので、泣き止み、父にあやされて嬉しいふりをした。と、父は空を見上げた。
「変な臭いがする・・・」
呟いた。けれど母の耳にはしっかり届いていた。
「何の臭いだ・・・?」
父は私をベビーベットに寝かせてこともあろうか探り始めた。「ガス漏れ・・違うな」
母の手ががちがち震えだす。
父は部屋をうろつき始めた。
まずい。
私は寝返りをうち、父の行動を見た。
空の臭いをしきりに嗅ぐ父。
「ここからか・・・」
父は物置を開けようとした。
まずい!ばれる。
押入れに手をやる父、今にも開けようとする。
ぎゃあああ!
私は声を上げて泣いた。
父は驚き私に振り向いた。
「京子」
父は慌てて私の元へやってきた。母も慌てて私の元へやってくる。
「お前・・顔が青いぞ」
父は母の表情を異様に感じ取った。
母の目がかすかに物置へ動く。
父はそれを見逃さなかった。
私から離れると、迷いもなく物置に向かった。そして、物置をガラリ活き良いよく開けた。開けた瞬間、どさり、毛布にくるまれた物体が落ちる。
毛布から見える手。
父はこともあろうに、足でそれを踏んだ。足で確かめる感触。凝固している。
「死体か」
父の口元がにやり。
「あなた・・あなた・・・」
母は泣き出した。
「そうか、死んだか」
父は冷静だった。
母はえ?という風に見上げた。
「いきなり効果が出るものだったのかな」
父は祖母の死体から手を離すと、母を見下ろして言った。
「夕飯に毒を入れてみたんだ」」
「毒?」
母はピタリと泣き止んだ。
「そうだ。毎日毎日、自己主義で俺はノイローゼになりそうだったよ。小さい頃からずっと、自分がこうだと思ったことは、俺も思っている。自分が正しいと思ったことは、俺にも正しいから強制的にさせる。昔からだ。高校も、大学も就職する時でさえ自分が選んだものしか俺に選ばせない。俺が他のものを選ぼうものなら、徹底的に邪魔をしてくる。何回、夢をつぶされたか」
シチューがぐつぐつと音を立てだした。ひるがえるその様はにやけた頬の様だった。
数年後。
私は中学生になった。父も母も元気にしている。
身長も伸びて151センチになった。成長期ゆえに一ヶ月前より1センチ伸びている。
中学生になって私はバスケット部に入部し、より身長を伸ばすことが最近、自分のブームになっている。
「今日は伸びてるかなぁ?」
二階の和室の柱で私は身長が伸びていないか測る。
柱を背にもたれ、下敷きを頭に載せて、右手の鉛筆でシャッと柱に線を引いた。残念なことに一ミリも伸びていない。
「あぁー伸びてない!」
私は口を尖らせた。「おばあちゃん、私の身長が伸びるようにしてよぉ」私は和室の隅に置いてある祖母の仏壇に向かって話しかけた。
祖母の仏壇にはお位牌がない。
土の下になんて眠りたくない。と生前は言い続けていた。
私はにっこり笑って、柱のすぐ横の壁を手のひらでたたいた。
そこは以前押入れがあったはずの場所だった。今はセメントで塗られ上から壁紙が貼られている。
「おばあちゃんの念願通りにしたんだから」
私の身長が伸びるようにしてよ。
一階で母の呼ぶ声が聞こえたので私は、はーいと返事をして和室を後にした。
私たち家族は幸せだった。
共犯者の名 師 @moro_jkp
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