Ⅱ-壱
――今日からあなたのお母さん代わりになる〇〇と申します。二年という短い期間ですが、なにとぞよろしくお願いいたします。わたしのことは遠慮なく「お母さん」と呼んでください。困ったことがあったら何でも言ってくださいね。
〇〇寮母
――わたし、大きくなったら赤ちゃんがほしい。可愛い赤ちゃん、わたしが守ってあげる、わたしが育ててあげる。
かつての万引き少女
電車が止まった。あなたと隣の人たちは立ち上がり、電車を降りて侘し気なプラットフォームに立つ。緑の山をバックに、小豆色の車体が鮮やかに映える。プラットフォームはしばらく手入れしてないようで、コンクリートの継ぎ目に名もない雑草がたくましく生えていた。
雲ひとつない秋晴れの空。色どり豊かな、それでいて殺風景な景色。のどかな風景のなかを殺人犯の少女と児童自立支援施設の職員たちが歩いている。平日の昼なのに人気のない改札を出て、あなたは待機していた黒いワゴンに職員たちと一緒に乗り込む。あなた、不安じゃないの? そうだよね、あなたはどんなに不安でも他人に表情を見せないんだった。転校生のわたしは不安になりながら少しずつ友だちができて、教室でも部活でもいつもひとりだったあなたを、わたしは何度も見てきたから。
暦の上ではもう秋なのに、空には急に黒雲がもくもくと湧きだして、職員たちは湿った重たい空気を感じる。季節外れの梅雨? それとも雨? 急がなきゃ、急いでこの少女を送らなきゃ。黒光りしたワゴンが出発し、あなたは電車と同じように車窓を見る、スモークを貼ったあらゆる窓に。窓には大粒の水滴がぶつかって落ちて流れていく。あなたは見ているようで何も見ていない。寂れた商店街を通り、緑豊かで開放的な平原を通り、あなたが住んでいた山とよく似た傾斜地に入る。人里離れた田園風景。あなたは懐かしいとも感じない。初めての、見たこともない土地で、不安だとも期待を胸にすらしてもいない。あなたの曖昧な訪問に、見知らぬ土地は冷淡に応える。
雨は本降りとなり、どんなに近い距離でも傘がないとずぶぬれになる、と職員たちは感じた。道路は閑散としていて、見ている人は誰もいない。古くて大きな赤レンガ門を通り、施設の玄関のところでワゴンは止まった。門のなかは樹々が鬱蒼としていて外からは何も見えない。職員たちの頭に少し嫌な予感をよぎった。これまで多くの少女たちを送ってきたが、こんな大雨になるなんて初めてだ。もしかしてこの少女は、ここに歓迎されないのかもしれない。あなたは職員たちに促され玄関に入った。風化しかかった丸みを帯びたクリーム色の建物はあるが、来る人を拒んでいる。まるで要塞か廃墟のよう。何から誰を守ってるんだろう。たぶん、あなたのような子どもたちを社会から隔離してるんだ。
古臭い部屋に入ると、そこの院長、館長、寮長、寮母、精神科医、心理カウンセラーたちが、にこにこして立っていた。テレビで何度か見たことある、ありふれた、時代遅れの応接セット。ひとりひとり無意味な挨拶をあなたにする。そんななか、あなただけが無表情で無反応。誰の顔も見ない。自分の靴先だけじっと見ている。色褪せたペルシャ絨毯がうす汚れている。わたしは、ここはちょっと不気味だなと感じる。あなたはどう? やっぱり何も感じない?
付き添いの職員に変わり、寮母と寮長の案内で、あなたはあなただけの部屋に入る。そこであなたは肩にかけた小さなリュックを椅子の上に置く。荷物は少ない。ハンカチとポケット・ティッシュ、キティちゃんの可愛らしいメモ帳。何もはいってない小さなピンク色の財布。寮長の△△です、寮母の○○です、荷物を置いたあなたを待って、ふたりは挨拶した。ここが□□さんのうちで、私がお父さん、そして〇〇さんがお母さんとなります。どうぞよろしくお願いいたします。ふたりは深々と頭を下げた。何かわからないことや困ったことがあったら遠慮なく言ってね、寮母は暖かい眼差しであなたを見て言った。
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