<2> 秘密のオシゴト

 書類上は夫となったレナート・アマルディ侯爵の専属執事らしき方に連れられて、三階に上がる。廊下の端から二番目の部屋に着くと執事はドアをノックし、奥さまをお連れしましたと告げた。


 扉を開けてしずしずと出てきたのは、ダナン男爵家から侍女として連れてきたリタだ。

 実家では落ち着きがないと年嵩のメイドに何度も注意されていたのだが、侯爵家にきた途端にできるようになったらしい。

 私が侯爵執務室で話している間に白い襟のついた紺色のワンピースに着替えていた。侯爵家のお仕着せだろう。似合っている。


 庶民出のリタだが、上等な服を着て背筋を伸ばしていれば十分侍女らしく見える。

 侯爵家ともなれば貴族家の二女三女が行儀見習いも兼ねて侍女になる中、庶民出身、それも養護院出身で親が誰かも分からない者がと気にしていた。

 三つ編みにして束ねている焦げ茶の髪は勤勉そうだし、そばかすは十六歳という年頃なら貴族であっても浮いている子はいるだろう。

 何より我が家は三年前に男爵位を賜ったばかりの新参貴族。古参貴族の侍女に嫌味言われて暮らすなんてまっぴらだ。


 普段よりすまし顔でも変わらず前髪が跳ねているのを見て、私は輪郭からはみ出した彼女の髪を人差し指と中指で摘んだ。顔に沿って指を動かしてから離すと、びょんと音を立てるかのように戻って揺れた。


「ふふふっ」


「…ではこれで」


「あ、ええ。ありがとう」


 もう用は終わったとばかりの——実際に済んだのだが——冷めた言葉の執事に礼を言い、部屋に入る。

 扉を閉めてふたりきりになった途端、リタはそれまでの雰囲気を一変させて焦茶色の瞳を爛々に詰め寄ってきた。



「マイアお嬢様、ナマ侯爵様はいかがでしたか?!」


「……はぁ〜〜もぅむりぃ」



 私は一張羅の外出着がシワになるのも忘れて座り込んだ。

 案内されている間はレナート様について考えないようにしたというのに、リタの言葉で三次元、立体的な造形となった推しのご尊顔を思い出してしまったのだ。

 まさに全身の力が抜けた状態。熱くなった顔を両手で冷ますように覆った。


「お嬢様、風邪でもお召しでしょうか」


「そのジョークはもういいのよ」


「いえ、男爵家でお話しされていたころよりも、もっとロブっています」



 ロブるとは、茹でると真っ赤になる巻貝ロブストンから来た言葉で、要は茹で蛸みたいなもの。推しを語る私はいつもロブっていたようだ。

 私は両の手の平の間を少し開けてリタを見ると、衝撃の告白を始めた。



「お言葉をいただいたの……」


「なんと、侯爵様は何と仰ったのですか?」


「『君を愛することはない』」


「きぃやぁぁああ!なんてことでしょう!」



 前世を断片的に思い出してからというもの、触れずとも触れられずともよい憧れの君——推しについてリタに熱く熱く語ってきた。

 その外見の神々しさもさることながら、セリフのいくつかを今世で頂けるのなら、天にも登る思いで昇天するだろうと。


 我が推しの君の公開されていたお言葉の数は少ない。中でもイチオシだったのが、



『君を愛することはない』



 だった。


 かつて日に何度も聞いていたとしても前世の話、声、言葉をはっきりと思い出せたわけではない。

 しかし、間違いなくあの声だった。


 中低音の声音は渋いだけでも深いだけでもない。

 一言で味を表現するなら苦いといえるコーヒーの中に、香りを吸い込めば鼻腔の奥に花畑が広がるようなフローラルなものがあるが、その声は硬く冷たい中に確かに楽園の響きを持っていたのだ。


 まさに、天へと誘う魔性の声。

 さきほどの言葉を脳内でもう一度再生して、私は砕けた腰をさらに砕けさせ、床に寝っ転がった。


「はぁあぁ、推し、好き、好き、推し、すきすきすきぃいーーー」


「お嬢様、お洋服がシワになります」


「むりーー好きすぎてむりーーー」


「お嬢様、とりあえず着替えましょ、う……ぅぅう、ひっく」


「え?」



 腹筋を使ってむっくり起き上がる。

 リタは慌ててしゃくり上げた口を手のひらで覆った。隠せていない両方の瞳からは大粒の涙が溢れていた。


「リタ……」


 泣いているのを見られて恥ずかしくなったのか少し俯いたが、堪えきれなくなってわんわん言いながら腕で涙をぬぐい出した。



「良かったぁ、本当に良かったぁ」


「リタ……」


「お家も救われ、お嬢様も幸せなら、偽装結婚なんてロクでもないバカみたいなトンチキ話、受けて良かった。本当に良かったぁああん。あぁあああん」

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