偽装結婚相手の侯爵さまが前世の推しだったので今日も覗き見に精を出します

沖綱真優

<1>「君を愛することはない」

「私が君を愛することはない」


 左頬に掛かった金色のストレートヘアを二本の指先でさらり耳の後ろへ流すと、レナート・アマルディ侯爵はため息めいた呟きにて、私たち夫婦のこれからを語った。


 アマルディ侯爵家の執務室にある深緑色のソファに背を預けて腕を組み、その表情と同じく冷め切った紅茶を前に、恐らくは扉に控えた執事の方へと視線を遣りながら。

 テーブルを挟んで向かい側の一人掛けソファに浅く腰掛けた新妻、婚姻誓約書にサインしたばかりの私が、ペンも置かず顔を上げるより前に。

 愛することはないと言い放った。


 普通ならば立ち上がって喚き散らすか顔を伏せて泣き出すか、インクの乾き切らない誓約書をビリビリ破りって薪の代わりと暖炉にてパチパチ燃やし尽くすか。

 偽装結婚を承知していたとしても羞恥と落胆に震える場面で、私は思った。



 き、「君を愛することはない」、キターーー。




 侯爵家執務室に通されてから、ひと言も口を開かなかったレナート様の第一声が、あの有名な科白だとは。

 脳を蕩けさせるそのお声が発せられたご尊顔を直視することは——ファンとして許されていないから、私はただただ思い出そうとした。


 そう、天の与えたもうた奇跡としか言いようのないご尊顔——文官貴族には珍しい浅黒い肌色をした細面に乗る吊り気味に長い目と、その内側に神秘のサファイアブルー。宝石を模したというよりは宝石の方が彼の瞳を模したのではないかと思うほどの煌めきを有する瞳は小さめで一段と希少性を高めて、眉は目より少し短く攻撃的で寄せずとも相手を威嚇する眉間からゆったりと立ち上がる鼻梁は雄山の高さを誇る一方で小さめの鼻翼から頬を見れば陶磁の艶やかさをまた鼻尖から降りて髭の跡など微塵もないつるりとした人中とやや薄型ながら潤いにて視線を吸い寄せるくちびると鋭角なあごからまた上へと戻れば天からこぼれ落ちる金髪に照らされた三日月の耳……



「……か言うことはないのか?」


「ありがとうございます」


「え?」


「え?」


 不意に声を掛けられ、それまで頑なに下げていた視線を上げてしまった。目に入ったかんばせのあまりの眩しさに、興奮なにより神絵師へのお礼が口を突いて出た。

 瞬間、神スチルが困惑の表情へと変化する。いや、スチルではなく……実在する人物だった。


「あ、あの……」


「よく分かった」


 困惑は、私が弁解する前に苛立ちへと変わったようで、レナート様は鋭い一言とともにソファから立ち上がった。私へはもはや一瞥もくれず、執事へ「案内を」と告げて執務室を出て行く。


 私はソファの背もたれに身を預けて両手で口元を覆い、肩を震わせた。

 なんてこと。なんて…ことなの。



「奥様、その、お部屋に案内させていただきますので……」


「課金もせずに追加ボイスなんて許されていいの?!」


「え?」


「え?」


 ソファの後ろから腰を折り、囁きかけるように話しかけてきた執事が、私の呟きを拾って驚きの声を上げ——耳元で驚かれた私も驚いて振り返った。


 執事と目が合う。青みがかった銀色の短髪と、少し長めの前髪に半分隠れた琥珀色の瞳が印象的だ。十代後半くらいか。佇まいに品があるのは侯爵家の執事として当然といえば当然。

 邸宅に着いた際に案内してくれたのはもっと壮年の執事だった。この執事はレナート様専属だろうか。


 思案しつつ眺めていると、執事は驚きの表情など浮かべなかったというように真顔に戻り、一歩距離を取って再び口を開いた。


「奥様……マイア様のお部屋にご案内いたします」


 奥様という呼び掛けに対する反応の薄さ——というより反応のなさに、執事は名前で呼ぶことにしたらしい。

 そう。私は、マイア・ダナン男爵令嬢。先ほど婚姻誓約書に署名し、アマルディ侯爵夫人となったマイアである。苦しゅうない。


「あ、だから、奥様って私のことだ。ねっ!」


 察しの悪さをごまかすために執事に笑いかける。が、執事は真顔のまま、


「はい、その通りでございます」


 私の笑顔は響かなかったらしい。

 まぁ、三年前まで庶民だった男爵家の、困窮して契約結婚を了承した娘に、侯爵家の執事が愛想笑いなんてしたくないよね。仕事だとしても。

 

 私としても、さっさと部屋に戻って、私の侍女と悦びを分かち合いたい。


「では、案内して」


 そう言って、私は立ち上がった。

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