二重人格国家

森本 晃次

第1話 仇討ち

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年1月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。どこかの大学を模しているようですが、あくまでもフィクションです、ただし、読者の想像に蓋はできませんので、そこはご勘弁をということになります。


 世の中に存在する犯罪というものには、

「原因による結果」

 というものが存在する。

 これは、犯罪という事件だけに限ったことではないが、偶発的な事件が犯罪となる場合もあり、ただ、その場合は、

「犯罪として、処罰できない」

 という場合もある。

 例えば人を殺しても、

「罪に問われない」

 というものも、まったくないわけではない。

 それが、刑法でいうところの、

「違法性阻却の事由」

 というもので、これには民法上のこともあるが、基本的には、

「刑事上」

 ということで言われることの方が圧倒的に多い。

 この

「違法性阻却の事由」

 というものは、

「人を殺さないと、自分の命が危ない」

 ということが、客観的に見て、想像できる状態にあった場合などが、その問題が発生するということになるのだ。いわゆる、

「正当防衛」

 というものである。

「正当防衛」

 というのは、例えば、

「相手が自分に殺意を持っていて、凶器を振り回していたりする場合に、相手を殺さないと、自分が殺されるという状態になった時、抵抗したが、もみ合っている間に、誤って殺してしまった」

 という場合などである。

 また、自分の近しい人間、例えば、家族などの肉親や、配偶者などが、暴漢に襲われていたりしたのを助けようとして、相手を誤って殺害してしまったりした場合の時のことである。

 その場合に、もちろん、

「相手に対して殺意はなかった」

 と立証されること。

 または、

「殺さなければ、誰かが死ぬ運命にあった」

 という状態。

 あるいは、

「殺人者に、殺害された人間を殺すという意志が存在していない場合」

 が問題となるだろう。

 となると、問題はいくらでも出てくる。

「普段は、殺したいという意志はあったが、その時は、無我夢中で、自分が助かりたいという一心だったので、殺意はなかった」

 といったとしても、普段が普段ということで、まわりは、信じてくれることはない。

 そうなると、

「正当防衛は、自分が主張するわけではなく、まわりが判断するわけなので、警察が捜査すればするほど、加害者にとって不利になるに違いない」

 証言者が第三者であれば、特に、

「公平に、表に見えている部分を正直に答える」

 であろう。

 もっとも、加害者に贔屓的な人間は、

「彼には殺意がない」

 というだろうが、果たして、それを証言として取り扱ってくれるだろうか?

 それを考えると、圧倒的に加害者にとって不利だということになるだろう。

「有罪だ」

 ということになった後で、

「情状酌量」

 という意味で、彼らの証言は役立つだろうが、

「正当防衛というのは成立しない」

 ということになるであろう。

「実際に正当防衛というものがいかに立証できるか?」

 という場合、証言する方も大きな覚悟がいるというものだ。

 正直に見たままを言えばいいのだろうが、

「被害側と被害者側」

 というどちらに対して有利な証言をしたとしても、それがいくら、

「正しいことだ」

 ということであっても、

「お互いに禍根を残す」

 ということに変わりはないし、その原因を作ったのが、自分だということで、

「罪の意識など感じなくてもいいはずなのに、感じなければいけない立場に追い込まれてしまった」

 という証言者は、

「どちらかから必ず恨まれる」

 という大きな重荷を背負って生きなければいけない。

 それこそ、

「とんだとばっちりだ」

 ということで、それこそ、

「冗談ではない」

 ということになるのだった。

 そして、もう一つの

「違法性阻却の事由」

 というものは、

「緊急避難」

 と呼ばれるものである。

 これは分かりやすい例として、

「大型客船、たとえば、タイタニック号のような巨大豪華客船などが、氷山に乗り上げて座礁し、人が海に放り出されたとして、船にはいくつかの救命ボートが積んである」

 ということである。

 しかし、そのボートには、当然のことながら、多くても10人までくらいの

「定員」

 というものがあるというものだ。

 だから、ボートが10台しかなければ、最大でも、100人しか助けられない。豪華客船などというと、数百人以上の乗員、乗客がいるわけであり、すべての人が助かるということはできない。

 しかし、それでも助かろうとして、ボートにたくさんの人が乗り込んでくるわけなのだが、実際には、

「10人以上が乗り込んでくると、結局は、皆がおぼれてしまうことになる」

 ということで、10人に達した時点で、あとの人は、拒否しなければ、全員が死んでしまうことになる。

 その時、自分以外の9人を守るということで(いや、本人も人間なのだから、同じ権利を持っている)、他の人を拒否ることをしても、

「それは殺人罪には当たらない」

 ということになるのだ。

 なぜなら、

「一人を乗せると。11人となり、全員が死んでしまうことになる」

 ということになる。

 それこそ、

「究極の選択」

 といえるのだろうが、

「10人の命が大切ということで、一人を犠牲にする」

 と考えるから、

「何か違和感がある」

 と思うのであり、

「一人を助けると、その一人も含めた11人全員が死んでしまうことになる」

 ということを考えると、

「10人を助けるか、11人全員が玉砕するか?」

 ということになるわけで、その状態であれば、法律は、

「10人を助ける」

 ということに傾くことであろう。

 そうなると、民主主義で考えると、かなりの矛盾があるかも知れない。

「皆、平等だ」

 ということであれば、

「11人、全員で、船を枕に討ち死に」

 とでもいうことになるのだろうが、逆に民主主義のもう一つの理論として、

「多数決」

 ということであれば、

「一人の犠牲はやむを得ない」

 といえるだろう。

 ただ、これはあくまでも、

「泳ぎ着いた人間が一人だ」

 ということに限定しているわけで、実際には、

「10人以上、100人近い人が押し寄せる」

 ということになるのだから、逆に、

「一人でもダメなのに、100人などありえるわけがない」

 ということになるだろう。

 そうなると、最後には、

「緊急避難」

 ということを法律で規定しておかないと、結果、実際に起こった時、判断がつかないということでの、

「違法性阻却の事由」

 ということができてくるのであった。

 基本的に、刑法では、その二つが、

「違法性阻却の事由」

 ということになるのであろうが、それぞれに特徴のようなものがあり、

「まったく同じ性質のものではない」

 といえるだろう。

「正当防衛」

 の場合は、客観的に見ると、その見方は、

「人によって、バラバラだ」

 といってもいいだろう。

「あの人は、あの場面では、ああするしか他になかった」

 という人もいれば、同じ場面を見ていたとしても、

「いや、何とか止めようと思えばできたはずで、殺すところまでは必要がない」

 という見方をしたとしても、その一点だけを取ってみても、

「すべてが同じことになる」

 といえるであろうか。

 というのも、

「見え方が違う」

 ということが言えるからではないだろうか。

 例えば、まず、

「見る角度によって、見え方が違う」

 というもので、例として適切かどうか分からないが、野球で、

「タイムリーヒットになるかならないか?」

 という場面において、

「外野からバックホームされたボールを受け取ったキャッチャーが、ホームに突っ込んでくるランナーをタッチに行った時、審判の見る角度によって、まったく違ったりするのではないだろうか?」

 今の時代であれば、

「審判によって下った判定に対して、異論があれば、リクエストという形で、2回だけ、「審判に、ビデオ判定を求めることができる」

 というものがある。

 この場合、

「リクエストが成功すれば、その1回は、リセットされる」

 というルールがあり、つまり、

「判定が覆れば、使わなかったことになる」

 ということである。

 または、日本の国技でもある、

「相撲」

 というものは、土俵のまわりに数人の審判員がいて、もし、微妙な判定があった時は、

「物言い」

 という形で、判定を一度保留にし、

「審判員が、ビデオで確認をして、最終的な判定を行う」

 という形になっているのである。

 これは、サッカーや他のスポーツにもある、

「ビデオ判定」

 というものである。

 なぜか、プロ野球だけは、

「リクエスト制」

 などという、面倒くさい裁定があるのか分からないが、それを考えると、

「プロ野球だけ、何か変だ」

 と思える。

 どうしても、最初の職業プロ集団が、野球だったということからなのかも知れないが、相撲だって、昔からの国技なので、本来なら、

「相撲の方が、もっと厳しいはずなのに」

 と考えてしまうのだった。

 どうしても、相撲界というと、

「他の世界からは見えない世界が蔓延っている」

 ということで、どうしても、

「その世界だけで完結しているものがある」

 といえなくもないだろう。

 つまりは、

「見る角度によって、ミスジャッジも仕方がない」

 ということになるのかも知れない。

 というのは、

「しょせんは、人間の判断だから」

 ということになるわけで、

「他の動物に比べて、一番の高等動物であるはずの人間であるが、生身ということからか、絶対的な信用というものはない」

 ということになるのであろう。

 これは、

「矛盾した考えの最たるもの」

 といってもいいかも知れない。

 いわゆる、

「ロボット工学」

 という問題であるが、

 ここには、

「フレーム問題というものが存在することで、ロボット開発が進まない」

 ということで、ずっと昔から、

「人工知能を持ったロボット開発」

 というものが考えられていたが、一向にできないではないか。

 人工知能という意味では、

「コンピュータの開発は、結構スムーズに進み、大型の電子頭脳と呼ばれるものも、今では存在している」

 といえるだろう。

 しかし。古くは、それこそ、

「江戸時代」

 といわれる昔から、

「ロボットというものに繋がる発想があった」

 といえるではないか。

 それは、

「からくり人形」

 といわれるもので、この開発にかけては、当時は世界的にも日本は長けていたといってもいいだろう。

 そういう意味では、

「ロボット開発の黎明期として、最先端を行っていた」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「そんな日本人にも、開発できないのがロボットというものだ」

 といえるだろう。

「ロボット開発とタイムマシンは、開発が無理ではないか?」

 といわれている。

 タイムマシンにおいては、

「タイムパラドックス」

 であったり、

「パラレルワールド」

 などといういろいろな発想が頭をよぎることで、開発は無理だということになるのだろう。

 しかし、これが、

「ロボット開発」

 ということになると、2つの大きな問題が存在するのである。

 一つが、

「ロボット工学三原則」

 と呼ばれるもので、これは、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものからきている。

 これは、

「今から200年くらい前に書かれたゴシック小説」

 というもので、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」

 という話であった。

 つまり、

「開発においては何が起こるか分からない。だから、そのことを考えて、人工知能に、最初から、人間のために動く知能を入れ込んでおく必要がある」

 ということになるのだ。

 それが、3箇条によるもので、

「ロボットは人を傷つけてはいけない」

「ロボットは人間のいうことを聞かなければならない」

「ロボットは自分の身は自分で守らなければならない」

 という3原則である。

 そして、これらには、

「厳格な優先順位が存在する」

 ということであり、これが、最初から順の、絶対的な優先順位ということになるのであった。

 これを人工知能に組み込んでおけば、

「怪物になることはない」

 ということで、もちろん、

「機械の故障」

 というものを考慮には入れていない。

 ただ。この頭脳は絶対に必要なもので、

「人間が生きるのに、心臓が必要だ」

 というのと変わらないくらいのものであろう。

 これを考えたのは、実は、SF小説家であり、ちょうど60年くらい前に考えられたことであった。

 さらに、もう一つの、

「ロボット開発に不可欠なもの」

 というのが、前述の、

「フレーム問題」

 であった。

 これは、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 ということからであった。

 人間は、この可能性に関して、

「意識することなく、乗り越えている」

 ということだ。

 例えば、

「家を出る時、靴を履く時など、どちらから履けばいいのか?」

 ということに直面した時、ロボットは、その時に起こりえる可能性だけではなく、あらゆる可能性を考えるのだ。

 人間の場合は、あらゆる可能性の中から、

「考えられる可能性」

 というものを、無意識のうちに、当たり前のようにして、

「どちらの足から」

 という、二者択一ということに狭めることができる。

 しかし、それはロボットにはできない。だとすれば、

「考えられる可能性をパターンに分けて、まるでフレームに当てはめるようにすれば、その判断が爆発的に早くなるだろう」

 ということであるが、よく考えると、元々が無限なのである。

 つまりは、

「無限から整数の何を割ったとしても、出てくる答えは無限でしかない」

 ということになるのだ。

 しいていえば、

「無限から無限を割った場合。答えが1なのか、それとも無限なのか分からない。ただ、ゼロとマイナスではありえない」

 というだけのことなので、こちらも、

「答えは無数にある」

 ということだ。

 これが、

「フレーム問題」

 というもので、それをロボットに組み込むことはできない。

 ということは、人間の創造主は、

「人間など比較にならないほど高等な、神様的な存在のものなのだろう」

 ということになるのだ。

 つまり、人間というものが、

「一番だ」

 といってもいいだろう。

 しかし、その人間が、

「自分たちにできないこと」

 特に、

「肉体的に不可能」

 と思わるようなことをロボットに託すという発想から生まれたロボットというものに、人工知能を入れて、

「自分で判断できるようにする」

 というのは、それこそ、

「神を冒涜する発想」

 ということになるのだろうか?

「神を冒涜する」

 ということで思い出すのは、旧約聖書の中に出てきた、

「バベルの塔」

 の話である。

「天にも届きそうな塔を、当時のバビロニア王であるニムロデ王は、バベルの塔の横で、自分が神になったかのように宣言し、天に向かって、矢を射った。そのことが神の怒りを買い、バベルの塔は、一気に破壊され、そして、人民は、言葉が通じないようにされ、そのまま世界各国に知里尻にさまようことになった」

 というのが、

「バベルの塔」

 という話の内容である。

 いくら人間であろうと、創造主である神に近づいたり、紙をもしのぐ態度に出るなどおこがましいということであり、さらには、

「人間が、創造主になどなれるわけではなく。創造主は、神以外にはありえない」

 ということを示しているのだろう。

 さらに、

「人間が、その肉体において、寿命のある身体を持っている」

 という欠点を補う発想として、以前の特撮初期には、その問題に直面するかのような話を書いた脚本家がいた。

 内容としては、

「人間が消失する」

 というところから始まるお話だったのだが、

「その焼失した人間は、宇宙の星に連れていかれて、そこで、そこに住んでいる生物の脳を、地球人の若い肉体にそのまま移植する」

 ということだったのだ。

 その星の科学力は、すごいところまで進んでいて、

「彼らの寿命を、自在に伸ばしたりすることに成功はしているようなのだが、生身の肉体の衰えに関しては、どうすることもできない」

 ということであった。

 それをどうにかするために、彼らは、

「地球人の肉体に目を付けた」

 ということである。

 結局最後は宇宙人の計画はとん挫することになったのだが、この発想は、それこそ、

「その時の宇宙人を、まるで未来の人間に見立てている」

 ともいえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「結局、人間というのは、一番高等な動物である」

 ということに変わりないが、ただ。それは、

「地球上でだけいえることだ」

 ということであり、

 さらに、

「人間が、ロボットを開発して、人間以外で、人間のために役立つロボットを作り。そして、そのロボットが自分の判断で行動するという人工知能を入れ込むということは、不可能なのではないか?」

 ということであった。

 そこで、考えられるのが、

「特撮初期に作られた、前述の発想」

 ということになる。

 つまり、

「人間の脳を、ロボットの身体に埋め込む」

 という考え方である。

 つまり、

「アンドロイドではなく、サイボーグ」

 という形である。

 人間の脳をロボットに移植すれば、脳の寿命が尽きようとも、肉体だけは残る。

 逆にいえば、

「寿命を延ばすことができれば、肉体は永遠だ」

 ということになる。

 そもそも、

「脳が死んでしまえば、身体の機能は停止するので、結局すべてが死ぬ」

 ということになる。

 そして、人間の死因の中で、そのほとんどが病気ということだが、脳関係以外は、サイボーグなのだから、病気になるということはない。

 それを考えれば、

「フレーム問題」

 というものも、

「ロボット工学三原則」

 というものも、なくなるということになるのではないだろうか?

 どちらも、

「人工知能」

 というものが問題だったのだが、その人工知能というものが必要なくなり、人間そのものの脳なのだから、問題ないという考え方だ。

 しかし、本当にそうなのだろうか?

 一番の懸念として、

「人間の脳は、人間の身体に宿っているということで、人間の脳としての役割を果たしている」

 といえるのではないだろうか?

 つまり、身体がロボットということになると、そこに、何等かの、

「拒否反応」

 というものはないのだろうか?

 ということである。

 例えば、

「内臓移植」

 などということがあるではないか。

 そのためには、

「ドナーの選定には、細心の注意が必要で、完全に適合する人でなければ、移植しても、苦しみは続く」

 ということになるのである。

 それだけ、

「身体の臓器同士であっても、その拒否反応は未知数だというわけで、それをつかさどっている人間の中にある装置というものが、脳だ」

 ということになるのであろう。

 移植をしないと、

「このまま放っておけば、確実に、半年以内に死んでしまう」

 ということが分かっている場合は、藁にも縋る思いで、

「移植」

 というものを考えることであろう。

 もちろん、サイボーグを作るなどという技術は、今の人間にはない。あくまでも、

「近未来」

 とは言われながらも、

「遠い未来」

 としか思えないのは、

「ロボットという発想が生まれてから、かなり経つのに、分かったことは、フレーム問題であったり、ロボット工学三原則というものが、その開発のネックになっていて、研究者の心に、開発は無理なのでは?」

 ということを感じさせるようになっているということである。

 それを考えると、

「人間というものが、本当にそこまで高等な動物なのだろうか?」

 ということである。

 そういう意味で、

「動物の中で、人間だけが、生きるため以外で殺戮を繰り返す」

 といわれている。

 他の動物は、

「弱肉強食」

 ということで、他の動物を食べるが、それは

「生きるため」

 ということであり、人間だって、食事をしなければ、生きていけないではないか。

 これも、

「弱肉強食」

 の一種として、

「自然の摂理」

 という、

「自然界の循環」

 のようなものである。

 だから、人間も、

「生きるために、食料となる動物を屠殺して、それを食事として、生活の一部としている」

 それを、無意識に行っているから、

「弱肉強食」

 という発想はなく、その分、

「罪の意識」

 などというのも、毛頭ないということになるのだ。

 だから、

「人間は、自分たちが一番高等な動物であるから、少々のことは許される」

 という発想があるのだろう。

 旧約聖書における、

「バベルの塔」

 という話はその戒めではないだろうか。

 特に、人間が、

「生きるため以外でも、平気で動物を殺す」

 ということであるが、特に問題なのは、その動物が、同類である、

「人間」

 というものなのだ。

 だから、法律の中に、

「殺人罪」

 というものがあり、その殺人罪が、一番厳しい罰則があるということになるのである。

 そこにあるのは、確かに、

「元々は、生きるために、水や土地を求めての争いが高じたものだ」

 といってもいいだろう。

 しかし、そのうちに、権力などを持ちたいという気持ち、ただ。それも、

「統治するために必要なもの」

 であったことは確かだろう。

 確かに、人間を統率するためには、それだけの権威という力が不可欠である、

「力のない人間のいうことを誰も聞かないから」

 ということであり、じゃあ、

「なぜ、統治が必要なのか?」

 ということであるが、それは、

「統治がなされないと、人間が個々に争ったりして、戦いや殺し合いが絶えないからだ」

 ということになる。

 これは動物にもいえることだが、動物の場合は、それをうまくコントロールできている。

 それが、

「本能」

 というものの力によるのだろう。

 だが、人間だって動物なのだから、

「本能というものを持ち合わせている」

 ということである。

 人間が本能を使って、争いが止まれば問題ないのだが、人間の場合は、本能だけではどうしようもない。

 では、そこに何があるのかというと、

「欲望」

 というものである。

 ただ、これは決して悪いというわけではなく、

「欲望というものがあるからこそ、人間は、自分たちの頭で成長を遂げてこれる」

 ということであった。

 人間が、

「争い」

 というものは、人間が発展するための能力の一つとして、不可欠なものであると考えると、

「それも致し方がない」

 といえるだろう。

 ただ、人間社会の中で、どうしても、避けて通れない大きな問題であることはいえるのだ。

 ということで、

「人間社会から、永遠に亡くならないのは、同胞である人間に対しての殺りくである」

 といえるだろう。

「戦争」

 であったり、

「犯罪」

 などというのはなくならない。

 つまりは、それこそ、

「人間の中から、欲望というものがなくならない限りは、戦争も犯罪もなくならない」

 ということになる。

 しかし、人間の進化は、

「欲望という感情が不可欠だった」

 ということを考えると、それこそいたちごっこのように、

「善と悪」

 というものが、錯綜を繰り返し、人間の中で、永遠にその葛藤がなくなることはないだろうといえるだろう。

 そうなると、

「悪というものが、殺人であったり戦争だ」

 ということになれば、善というものもあるだろう。

 その善というものが、

「人情ということになるのではないだろうか?」

 それが、愛情というものであり、

「家族愛だったり、近しい人に対しての情というものになる」

 といってもいいだろう。

「戦争や殺戮がなくならない」

 という発想の中に、この

「人情」

 という発想が含まれているともいえるのではないだろうか。

 というのは、

「人間というのは、一人では生きられない」

 といわれている。

 つまり、

「親や家族、親友など」

 生きていくうえで不可欠な人たちに対して、愛情などという情が湧くということになるのである。

 そんな人たちが、殺戮や戦争によって、

「訳もなく殺される」

 ということになると、その人に情が湧いていた人は、

「敵を討ちたい」

 と考えることであろう。

 いわゆる。

「敵討ち」

「仇討ち」

 などといわれる、

「復讐」

 という感情である。

 基本的に、今の時代では、法律的に、

「仇討ち」

 というものは許されていない。

 つまりは、

「個人に個人を裁くことはできない」

 というものであり、日本のような、

「法治国家」

 においては、刑法というものをその法的な手段として、それを判断するために、

「裁判」

 というものが行われ、

「司法が、答えを出してくれる」

 ということになる。

 ただ、そこには問題も含まれていて、

「被害者がいれば、加害者がいる」

 ということで、

「加害者に対して、大目に見るような、情状酌量が大きければ、被害者の残された家族は、大いに不満であろう」

 逆に、

「加害者に過剰な裁定が下れば、そこか、公平さを欠いた裁判ということになり、加害者の家族の思いだけではなく、第三者として中立な立場の人の中には、何か、納得できないいやらしい思いが残ることになった」

 という、後味の悪さが残るということではないだろうか?

 弁護士や検事などのように、

「法による裁定」

 というものにかかわっている人は、

「公正というものがその理念だといってもいいだろう」

 しかし、

「罪を憎んで人を憎まず」

 という感情は必要で、この言葉には、裁判という意味では、

「大いなる矛盾を含んでいる」

 といえるだろうが、だからと言って、裁判は、

「それ以上でも、それ以下でもない」

 といえるだろう。

 そして、

「仇討ち」

 などというものを認めると、いたちごっこを繰り返すということになるだろう。

 なぜなら、

「仇討ちをされる相手にも、情をもっている人というのもいる」

 というもので、その人が今度は、情を持っている人を殺したということで、復讐心というものを抱けば、このまま、永遠に

「殺意の連鎖」

 というものが消えることはないだろう。

 それが、一種の、

「合わせ鏡」

 のようなものだといえるのではないだろうか?

 自分の前と後ろに鏡を置いた時、永遠に自分が写り続けるというもので、その姿はどんどん小さくなっていくのだが、それは、

「限りなくゼロに近い」

 というものであり、決して、ゼロになることはないというものだ。

 そして、それが、無限というものを導いているということで、無限の存在というものを証明しているかのようであると考えられる。

 その発想とよく似たもので、それが、

「マトリョシカ人形」

 のようなものではないだろうか?

 それを考えると、

「それが、人間というものの性といえるのではないだろうか?」


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