幸せを知らない小さな孤独
霜月透乃
1 疲れ
普通は、公園に自分の足で散歩なんかしない。普通の人がどうかはわからないけど、少なくとも私はそうだった。おめかしもしない、寝ぐせも手櫛で抑え込んだ、なんとか人間の形を保った姿。犬も集まる公園に人間の形をする必要はないけれど、今の私はどちらかと言えば屍の方が似ている。
理由はなんとなく。あるとすれば、休日にまでじめじめとした暗い自室に籠っていたらそれこそ死んでしまいそうだったから。陽を浴びに出て、目的もなかったからここにたどり着いた。
雪の積もった休日にもかかわらず、公園で電子機器のひとつ触れず仲間たちと遊ぶ、大人には到底できないことを軽々とやってのける子どもたち。私はそれをベンチに溶けながら眺める。
いつからだろう、子どもに向ける目線が変わったのは。
小学校の先生になってから? でも、生徒に向ける視線は今も昔も変わらない。大事なクラスの一員。
けれどそれと乖離するように街を過ぎゆく子どもは、そこだけ白くハイライトされて映る。清い、無邪気な、天衣無縫の体現者。その身に纏っているのは羨ましさかもしれない。そしてそれらに向ける私の視線が、醜いものになっていくのも、同時にわかっていた。羨望から、教師として綺麗なだけじゃない子どものトラブルと疲労に揉まれ、やがて潰してやりたいと邪悪に変わる。虐げて、その顔から笑顔を消え去って、私よりも弱い存在にしたい。子どもが好きだったはずなのに、ほほえましさなんて感じなくなってしまった。
教師という仕事がどれほどまで輝かしくなくて、くすんだものなのか。大人の常識じゃ理解できないような行動ばかりとる動物たちを数十人と一人で面倒を見て、まともに話を聞かないそれらに勉強まで教えなければいけない。それまでの準備すら一苦労。
嫌いじゃないはずだった。好きだったはずだった。けれど、どれだけ好きなものだって疲労は溜まって、嫌な部分はあって。そしてそれらが、思っていた以上に身体と心を蝕んで、いつしか私は黒く染まっていた。新品の絵の具セットの白色のチューブからひねり出した、どれだけ純白な絵の具でも、灰色にすらできない。
泥沼に沈んで息すらできなくなってしまいそうな思考を、首を横に振って吹き飛ばす。そういうのから逃げるためにここに来たのに、本末転倒だ。なにも考えなくて済むように、公園全体をぼんやりと眺める。すると、気づけば私の意識は、ある一点に奪われていた。
白の子どもが溢れる中、一人だけ、黒くハイライトされた子がいた。
身に纏う違和感、身体の奥のなにかが狂ってしまっているような眼差し、細部を探せば探すほど、普通とは全くかけ離れていた。磁石のように互いにくっつき合い、塊になっていく他の子たちとは違い、その子はベンチに座るでもなく隅っこにしゃがんで下を向いていた。地面に絵を描くでもない、虫を見ているわけでもない。なにか他に興味深いものがあるような表情にも見えなかった。つまらない、といった様子。
呼吸も忘れていると、一つの影がその子の後ろから近づいて来ていた。背の高い女性だった。その人は乱暴にその子の腕を掴むと、えも言わせずに引っ張り公園から離れていった。その子はそれになにも反応しなかった、まるでそれが普通なように。知らない人であればもう少し抵抗するだろうから、今のは母親だったのだろうか。
私はもうすでにこの場所からいなくなったあの子に意識を引きずられていた。目を惹いたのはその腕が普通よりも細く見えたからかもしれない。それとも、よく見れば至る所にある小さな傷に、絆創膏一つ貼っていなかったからだろうか。頭の中で思い返せば返すほど、脳裏に染み込んで離れない。気づけば私は、ベンチから離れその子のことを追いかけていた。
*
一分も経っていない。おそらく行ったであろう方向に進むと、すぐにあの子とその母親と思しき人物を見つけられた。傍から見ればストーカーになってるのなんて理解しながら、それでもその後ろ姿を追う。人生を諦める理由ならいくつもある、今更この身がどうなろうとよかった。
気づかれないまましばらく追っていくと、二人はボロいアパートの前に止まった。二階建て、外見は廃墟同然、人が住んでる気配すら怪しいその場所で、その子は不思議そうに手を引く女性を見上げた。女性はそんな様子に見向きもせず、スマホを取り出し、その画面をしばらく見つめると溜め息を吐き出した。
会話も聞こえない距離にいるはずなのに、その溜め息はこちらにも聞こえてきてしまいそうなほど大きく見えた。女性はまた女の子の手を乱暴に引くと、錆びた鉄で作られた、今にも折れそうなマンションの階段に近づいていく。そして一段目に近づくと、女性は冷たい表情で女の子に向かってなにかを吐き捨て、その手を放した。不思議そうに女性を見つめる女の子に、女性は苛立ったように頭を掻き、次の瞬間その子の髪をぐしゃりと掴んで階段へ叩きつけた。
誰が見てもわかる。虐待だ。あの子は虐待児なんだ。袖口からちらりと見える痣から、それが今まで何度も起きたことだと悟る。
「うわっ」
その光景に私は声を漏らしてしまった。二人には聞こえない距離にいるはずなのに、褒められない行動をしているせいで、届いていないかと敏感になる。その間女性はというと、何事もなかったようにそのまま階段を上り、二階の一番端の扉を開き入っていった。女の子は、頭を抑えながら、階段の一段目に座っている。
母親はなにをしに行ったのだろうか。なんであろうと、こんな人気のないところで一秒でも子どもから目を離すなんて、やはり責任が頭の中にそもそも存在してなさそうだった。
――この子なら、大丈夫。
そう、頭の中を邪悪がよぎった。その瞬間、私の足はゆっくりと階段に腰かけ座るその子へと向かっていき、手を握っていた。
「行くよ」
「え? おねぇさんだれ?」
会話はそれだけだった。叫びも涙も、抵抗もなかった。家までできる限り人目のない道を即興で作り、そこを早足で駆け抜けた。どんなに疲れた仕事帰りのときよりも長い、人生で一番長い帰路だった。
*
玄関の扉を開けて、焦りで小さく震える手が扉を荒く閉じる。鍵を掛けると、ようやく安全がこの身を包んだ。気づけば、心臓の鼓動が長い道を走り抜けた時のように、空気を求めて煩く、せわしなく訴えていた。
「……? おねぇさん、大丈夫……?」
「……」
攫われてきたその子は、まだ状況を理解してないんだろう、私を見上げて心配そうな表情を浮かべている。
どうして、連れてきたんだろう。立派な誘拐じゃないか。そんな犯罪の背中を押した、あの時横切った邪悪の正体が、私にはわからなかった。
「……あなた、名前は?」
「えっ?」
攫ったはいいものの、これからどうすればいいのかわからなくて、とりあえず名前も知らないのは不便だから、その子の心配に答えることなくそう訊いた。
「名前。ないの?」
「ううん、ある……るのん」
「るのん? 字は?」
「えっと、月に、奏でるって書くの。るのん、まだ書けないけど……」
「そう。……月奏、お腹空かない?」
お昼時の世間話でもするように、私はそう投げかけた。
「え? うん、すいた」
「そう。それじゃ、テーブルに座ってて」
私は玄関から月奏の手を引いて、リビングへと連れていき、食卓の椅子へと座らせた。椅子に乗った月奏は、足が床に届いていないようだった。
私は手を洗ったのちキッチンへと赴き、冷蔵庫を開けながら頭の中のレシピ棚をまさぐる。ふと、いつもは作らないようなものが頭に浮かんできた。別に膨大な時間のかかるものでもないし、いっか、これで。
私はいくつかの卵とケチャップと鶏肉をキッチンに出し、パックごはんをレンジに投入したのち、それを作り始めた。手を休めることなく動かしながら、たびたび月奏の様子を横目に見た。けれど月奏はずっと下を向き、テーブルをまじまじと見ているだけで、なにも動かなかった。壊れたおもちゃみたいだ。
しばらくして料理が出来上がって、私はお皿に盛りつけたそれを月奏の前に持っていく。
「食べて」
私はできるだけ無愛想に、作った料理を差し出した。するとようやく月奏はスイッチが入ったように首を持ち上げ、動き出した。
「おむ……らいす?」
皿に盛られた、ふんわりとした黄色い山。ちょっとだけ綺麗な形でできたそれを見つめながら、困惑したように月奏は首を傾げた。
「そうだけど……嫌いだった?」
「ううん、食べたことない」
それを聞いて私は少し動揺した。オムライスは食卓によく出てくるもののイメージはないけれど、一度くらいなら食べたことはあるものだとは思う。
まあ、私も十年のうちにオムライス食べた記憶があるかと問われると微妙だけど、目の前の子の細さを見る限り、ただ単に食べたことがないと言うわけじゃなく、こんな「普通の食事」すらまともに与えられてなかったんじゃないのだろうか。
「いただきます」
それでも丁寧に黄色い山の前で手を合わせるその子の健気さが伝わって、かわいそうに近い感情が湧き上がってきた。その瞬間、私はどうしてこの子を攫ってきたのかわかった気がした。
そうだ、潰してやりたかったんだ。かわいそうな、未だ人間未満の動物を、汚して壊してしまいたかったんだ。
そっか……今から私は、この子を虐げるんだ。
「……!」
そんな私をよそに、月奏はどこから食べたらいいかわからないといったように、たどたどしくスプーンを右端に刺し、卵とケチャップライスを同時にちまっと小さく掬って口に放り込む。すると目を見開いて、スプーンを咥えたまま数秒固まった。
「おいしい……!」
「そう。よかったね」
それが安全なものだとわかったのか、月奏はおどおどとしていたスプーンの先を少しだけ迷いをなくし動かして、次々とオムライスを口に運んだ。それでも、小動物のような一口の小ささは変わらなかった。このままの速度じゃ料理が冷めるのが先になりそうだ。飲み物を取りに冷蔵庫まで移動しながら横目に見たそんな様子がほほえましくて、健気で、奥底に芽生えた嗜虐心がくすぐられるのを感じた。
黙々と、食べている間は月奏も私も喋らなかった。急かす理由もなかったし、ただゆったり流れる時間にされるがままに揺蕩っていた。眺めていると、子どもが好きなこと自体は変わらないんだなと、自覚した。ほほえましいような感覚、久しぶりだったから。
「ごちそうさまでした」
ちまちまと、小さな一口を続け、やがて食べ終えた月奏は、そっとお皿の前で手のひらを合わせた。
「お腹いっぱいになった?」
「うん……!」
「そっか。それじゃ、お風呂、入ろうか」
「おふろ?」
「うん。そんな汚れたままじゃ、嫌でしょ?」
私は食べている間ずっと月奏を眺めていて、その身体がところどころ汚れていることに気がついた。毛先がボサボサの長い髪からして、多分お風呂もまともに入れてない。
私の言葉を聞いた月奏は、不思議そうにまた首を傾げた。まるで私が見当違いなように。
「嫌じゃないの?」
「いつも、こんな感じだよ?」
「え……」
やっぱり、私の予想は当たっていたらしい。お風呂すら入れさせてもらえない徹底的な虐待に、私は少し頭を抱えた。
「……そう。でも、入るよ。綺麗な方がいいでしょ」
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