溶けたアイス

七草葵

溶けたアイス

 小野さんの手が、私の身体の上を這う。こわれものをあつかうように、そうっとなぞる。頭のてっぺんから、耳、頬、首筋、肩、鎖骨、乳房――じれったいくらいにゆっくりと、下へ下へ向かっていく。

 いつもそうだ。小野さんはじれったいくらい優しくて、のんびりと、余裕たっぷりに愛撫する。

「小野さんは、優しいね」

 わたしの言葉に、小野さんは少し顔を上げる。小野さんはちょうど、わたしのおへそのあたりを優しく舐めているところだ。

「そうかな」

 小野さんはあいまいにほほえむ。あいまいさは、優しさ。そしてすこし、残酷でもある。

 かたくなったそれが私のあそこに触れる。それは熱くて、かすかに脈打っている。

「いれるよ」

 ていねいな愛撫でよくうるんだそのいりぐちに宛がったまま、たしかめるように言う。

「お母さんにも、こんな風にしたの」

 小野さんは、やっぱりあいまいにほほえんだ。わたしのいじわるな質問にも萎えることなく、それはわたしのなかに入ってきた。


 夕暮れの中、土手沿いを歩く。コンビニへ向かうところだ。小野さんとふたりで。

 わたしの方が、少し先を歩いている。セックスをしたからといって、べたべたと、あからさまにふるまったりはしない。

 首筋に汗が流れていく。背中を伝い落ちていく汗の感触。ブラジャーのところに汗が溜まって、ほんのり湿る。夏は服を着ているのがばかばかしくなる。わたしは、夏が嫌いだ。

「桐ちゃんは、何を買うの」

 後ろから、小野さんが朗らかな声で訊ねてくる。

「パンツ」

 いじわるな気持ちでわたしが言うと、小野さんは「コンビニで、女の子が履くようなパンツ、売ってるの」ととぼけたように言う。ぜんぜん怯まない。小野さんは、残酷なおとなだ。

 コンビニに着くと、わたしは店内をぶらぶらと歩きまわった。小野さんは小野さんで、雑誌なんかに目を向けている。店内は冷房がよく効いていて、とても快適だった。汗が引いていく。汗ばんでいた場所からひんやりと冷たくなっていき、だんだんと寒くなってくる。それでもわたしは、アイスケースの前でアイスをじっくり吟味して、一番高いアイスを手に取った。飲み物を選んでいる小野さんが持っているカゴへ、その高いアイスを放り込んだ。小野さんはわたしのことなんか気にせずに、新作のビールなんかを手にとって鼻唄を歌っている。そのくせ、わたしが小野さんから離れようとすると「パンツはいいの?」なんて平然と訊いてくる。小野さんは、変なおとなだ。なんだかいつも、うわの空。わたしや、コンビニの店員さんや、この町の人々みんなと、全然違うところに心があるみたいに見える。

 コンビニを出て、もと来た道を戻る。夕日はまだ落ちきっていない。町中をくまなくオレンジ色にそめて、満足そうに空に引っかかったままでいる。

 わたしは小野さんの持っているビニール袋に手をつっこんで、高級アイスを引っ張り出した。歩きながらふたを開けて、そのアイス専用の、プラスチックのスプーンで、すくって食べる。

「それ、好きなの?」

「好きだったら、なに」

「きみのお母さんも、よくそれを食べてたよ」

 小野さんは、へらっと笑った。自分からお母さんの話題に触れることに、ためらいはない様子だった。

「これが一番高かったから、選んだだけ」

 ひどくうちのめされた気持ちになって、わたしは言った。

「正直なところも、お母さんに似てるね」

 アイスの味なんて、もう分からなかった。ただ濃くて、舌や喉がもったりと重たくなる、冷たい塊。食べずにいると、夏の夕日にあたためられて、じわじわと溶けていく。アイスは、一度溶けてしまったら二度ともとのアイスの味には戻れない。高級アイスだって、例外じゃない。はかない価値。わたしは溶けつつあるアイスを眺めながら、なにもできないでいる。

 小野さんは、わたしのお母さんの不倫相手だった。

 まだわたしが小さな子どもだったころ、お母さんはわたしを連れて小野さんに会いに行くことがあった。小野さんの家でお絵かきをしたり、絵本を読んでもらったり、お昼寝をしたりした。お昼寝から目が覚めると、お母さんも小野さんも姿が見えないことがたびたびあった。不安になって泣き出すと、別室から焦った様子のお母さんが出てくる。後から、のんびり笑っている、パンツ一丁の小野さんが現れる。そういうことが、たびたびあった。

 ふたりから、明確に口止めをされたことは一度もなかった。けれど、お父さんには、なんとなく言い辛かった。もともと仕事ばかりで家に寄り付かないひとだったし、お母さんと小野さんとわたしの秘密、というところが好ましかった。もしもその、繊細な糸で結ばれているような秘密の関係を他の人に漏らしたら、ふたりとわたしを繋ぐ糸は簡単に切れてしまうだろう。おさなごころに、そういう予感があった。

 お母さんが、いつ小野さんと別れたのかは分からない。学校がはじまって、わたしは小野さんとのあいびきに連れて行ってもらえなくなったからだ。

 不倫をするような母親ではあったけれど、わたしはお母さんのことが好きだった。

 真面目で、寂しいひとだった。まるで上等な香水のように、いつもほんのりと、体に憂いをまとわせていた。まるで、間違って人間の世界にまぎれこんでしまったかなしい動物のように、いつも困ったような顔をしていた。写真を見返すたびに、いつもお母さんに感じていた、ひんやりと冷たい孤独の気配を思い出す。

 そんなお母さんが、最近、死んだ。

 お父さんはてきぱきと、まるで仕事をこなすように葬儀を済ませ、納骨もして、それから、お墓の前で、やっと少しだけ、泣いた。その横顔を見た時、わたしはふと、小野さんのことを思い出したのだった。

 お母さんの持ち物は、そう多くは無かった。そのすべてを、わたしはきちんと箱にしまってとっておいていた。お父さんは、そういう感傷的な物品にはあまり興味がない様子だった。わたしはお母さんのもちものを丁寧に調べた。なにげない、お土産品らしい海のポストカードの裏に電話番号が書かれているのを見つけた。何かをたしかめるように、ひとつひとつ丁寧につづられたその数字を眺めているうちに、これは小野さんの電話番号だと、なんとなく分かった。

 その番号に連絡して、わたしは、小野さんに約束をとりつけた。昨日が、約束の日だった。

「そうか」

 お母さんが死んだ、とわたしが告げると、小野さんはぽつりとそういった。わたしたちは、どこの町にもあるような、なんの変哲もないカフェの、窓際の席に向い合せで座っていた。

「きみのお母さんは、きれいなひとだった」

 小野さんは窓の外をぼんやりと眺めていた。

「覚えてないんじゃないですか」

 遊んでいそうな人だと思った。記憶の中の小野さんは爽やかで清潔な感じだったけれど、目の前にいる小野さんは、なんだか世慣れて余裕のあるおじさん、という感じだった。わたしにとってお母さんは特別なひとだけれど、小野さんにとってはそうでもないのかもしれない、と落胆していた。

「どうしてそう思うの」

「色んなおんなと寝てそうだから」

「こんなに小っちゃかった君が、そんなことを言うなんてね」

 小野さんは親指と人差し指を3センチくらい開いて「こんなに」ともう一度言った。

 否定も肯定もしないところが、ずるい。あいまいなところが、大人っぽくて、なんとなくいやだった。

 気が付くと、小野さんは、また窓の外を見ていた。窓の外では、人がまばらに行き来していた。よく晴れた夏の日で、外を歩いている人たちの足元には黒々とした影が落ちていた。あまりにも明るくて、見ていると残像が目の奥でちらついた。実際に歩いている人と、目の奥の影が一緒くたになって、ゆらゆらと揺れている。

「覚えているよ、ちゃんと」

 小野さんは、ふいにわたしを見た。

「紅茶に、角砂糖を三つ。レモンをひと切れ。君のお母さんも、必ずそうしていたよね」

 小野さんは微笑んだ。


「あの喫茶店で会った時、君のお母さんが、会いに来てくれたのかと思ったんだ」

 コンビニからの帰り道に、意識が引き戻される。小野さんが後ろから声をかけてきていた。わたしは立ち止まり、振り返った。

「わたし、お母さんには似てません」

 親戚のひとも、近所のひとも、学校の友達も、そう言っていた。お母さんは悲しいひとだったけれど、きれいなひとだった。

「そうかなあ」

 小野さんは、ふんわりと笑った。小野さんはやっぱり、普通の人たちと、見ている世界が違うのかもしれない、と思った。人間の、表面じゃなくて、内側だけをまっすぐに見ているのかもしれない。

「でも、君のお母さんが会いに来てくれたと思って、うれしかったんだ」

 小野さんも立ち止まっていた。わたしたちは、一定の距離が開いたまま向かい合っていた。

「君のお母さんのことが、ほんとうに好きだったんだよ」

 小野さんの瞳から、ぽろぽろと涙があふれてきた。夕日に照らされて、涙はきらきらと光っていた。涙は、次から次へとこぼれて、止まらなかった。

「わたしと寝たくせに」

 お母さんに似ていないわたしと、寝たくせに。

 いじわるな気持ち程度では、涙にたちうちはできなかった。わたしの頬にも、なまあたたかいしずくが伝い落ちていく。

 そういえば、お母さんが死んでから、初めて涙が出たな、と思った。


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