秋の音

七草葵

秋の音

 近ごろ、あまり食欲がなかった。

 病気をしたとか、ダイエット中だとか、気温が極端に高いだの低いだの、特に原因があるわけではない。ただなんとなく食欲が沸かず、だから食事もおっくうになっていた。貰い物の小さなお菓子をつまんだり、インスタントのスープをちびちび飲んだりしてなんとか身体の形を保っているような状態だった。今まで食事に費やしていた時間は、代わりに仕事や睡眠の時間へと充てた。いや、格好つけて言っただけだ。本当は、大半を睡眠の時間へと充てていた。ひたすらぐうぐう寝ていた。

 先日、昔から懇意にしてくれている雑誌からインタビューのオファーがあった。前日も、当日になっても食欲はわかず、けれど何かしら腹に入れなくてはと思い、インスタントのカップ麺をちまちまと食べて出かけた。

 出版社の受付で編集部の名前を言い、自分の名を告げる。「お話は伺っております」と美しい受付の女性が微笑む。ほっとしつつ、自分の姿を顧みて新たな不安が生まれる。服は一年前に買ったものだし、化粧品もずっと同じものを使っている。今年のトレンドの色と言われても分からない。こんな状態で、のこのこと外出している自分が少し恥ずかしい。

 ロビーで待っていると、顔見知りの編集者が現れた。「いつもお綺麗ですね」なんてお世辞を言いながら、会議室風の部屋に通された。会議室にはインタビューを担当するらしい編集者と、カメラマンが居た。しまった、と思う。最近は自分の食欲のことばかり気にして、服も化粧も適当なのだ。こんな姿が、公に写真として残ると思うと絶望してしまう。たじろいでいると、着席を促された。しぶしぶ座ると、さっそくシャッターが切られる。ウッと息が詰まる。私の動揺を知ってか知らずか、インタビューが始まる。

「新作の長編小説のテーマは……」

「次回作の構想は……」

「作家として今の時代をどうとらえているのか……」

 聞かれたことを一生懸命答える。物腰の柔らかな、若い女性がインタビュアーである。優しい雰囲気で、私の話す全てが興味深いのです、とでも言うように熱心に耳を傾けてくれるものだから、だんだんと興が乗ってくる。余計なことまで話してしまう。やれやれ、と自分で呆れる。

「インタビューは以上です。ありがとうございました」

 女性がぺこりとお辞儀をする。私もお辞儀を返しつつ、苦役から解放された心地でほっとする。しかし、頭を上げた女性が「最後に見出し用のお写真を……」と言い、再び絶望する。ダサい化粧と服で、べらべらと現代のことを話していた引きこもりの女流作家の、決めポーズの写真なんて、誰が喜ぶというのか。笑いものになるだけだ。しかし、仕事なのでやるしかない。

 窓辺に立ち、背筋を伸ばし、さりげなく微笑んでの一枚。椅子に座り、背筋を伸ばし、さりげなく真面目な顔をして一枚。ひさびさに活用された背筋が悲鳴をあげている。

「ありがとうございました」

 カメラマンの男の子が、キラキラとした顔で言った。彼も、苦役を終えてほっとしているのだろう。

「編集部に戻って、書類を置いてきますね。そうしたら、せっかくですからご一緒にお昼ごはんでも」

 編集者に言われて、私はにわかに不安を覚えた。近ごろほとんど食事をしていないのだ。いきなり外食をして、具合が悪くなってはお互いに損だろう。ましてや、酒も飲んでいないのに路上で戻すようなことがあっては笑い話にもならない。

「素敵なお話ですけれど、この後予定がありますから」

 なんとか角が立ちませんようにと祈りながら言うと、編集者はあっさりと納得した。

「それでは、私から先生にお渡しするものがありますので、取りに行ってきますね。申し訳ありませんが、こちらで少々お待ちください」

 編集者たちが部屋から出て行くと、部屋は静かになった。遠ざかっていく足音すら聞こえるほどだ。私は背もたれに寄りかかり、ぼんやりと天井を見つめた。今日は疲れた、と思った。家に帰り、風呂に入って、パジャマを着たらそのまま寝てしまおうと思った。急ぎの仕事もないし、体力回復を最優先にしよう。

「先生、ちゃんとごはん食べてないでしょ」

 唐突に話しかけられた。ぎょっとして彼の方を見る。カメラマンの男の子が、カメラから顔を上げて私の方を見ていた。ああ、そういえば彼も部屋に残っていたのか。

「どうしてそう思うの?」

 いきなり図星を突かれたから、どきどきしながら聞いた。

「俺の実家、農家なんです。兄貴に任せて、俺は写真の学校に入るために上京してきたんですけど。こっちの人たち、誰も彼もどんよりしてるんスよね。ああ、ちゃんと食べてないんだなぁって、分かるんス、そういうの」

 さらさらと、聞き心地の良いテンポで喋る。裏表無くまっすぐで、爽やかな青年だ。そういう青年に私生活の欠点を見抜かれるほど、恥ずかしいことはない。

「私、顔色悪いかしら」

「顔色っていうか、雰囲気スね。化粧してると、顔色なんて分かんないス」

 やれやれと吐息する。流行りのお化粧だの、流行色の服だのを気にしている場合ではなかった。醸し出す不健康な雰囲気を、真っ先に気を付けるべきだったとは盲点だった。

「今の季節だと、里芋がおいしいスね。ごぼうなんかも今の時期ス。トマトも本当は今が一番糖度が高くて美味いし……」

 すらすらと野菜の名前が出てくる。遊びたい盛りのような風貌の青年から、きちんとした生活そのものという雰囲気の言葉が出てくると、それだけでハッとさせられてしまう。

「ずいぶん楽しそうに野菜の話をするのね」

「家を継がないぶん、気楽に野菜と関われるからスかねぇ」

 なんだか、やけに達観した様子だ。

「そうそう。うちの農家が直接卸してるレストランが、この近くにあるんスよ」

 青年がニコニコしながら言う。そこでふと気が付いた。

「もしかして、誰も彼もに同じことを言ってるの? そのお店に行かせようとして」

「あはは、鋭いスね」

 なんの悪気もなく笑っている。だからこちらも、なんとなく可笑しくなってきてしまう。

「最近ちゃんと食べてなさそうだなって思ったのは、本当スよ」

 男の子は言って、優しく微笑む。

「次は、もっと元気な先生を撮らせてくださいね」

 不覚にも、きゅんとしてしまった。モテるだろうなぁ、こういう子。と、人間観察の方が先に立つのは作家の悲しい性だ。

「先生、お待たせしました」

 編集者が、茶封筒片手に戻って来る。「原稿の見直し、せっかくなので郵送するより手渡しの方がいいと思って」修正作業の大変さを思い、急に現実へ引き戻される。

「本日はご足労いただきありがとうございました」

 編集者に見送られて、出版社を後にする。

 このまま電車に乗って、地元の駅に着いたら、まっすぐ家に帰らずに、スーパーに寄ってみようか。季節の野菜の知識もついたし、少し買ってみてもいいかもしれない。電車の中で、季節の野菜を使ったレシピを調べてみるのも楽しいだろう。みずみずしい野菜たちを使った料理を漠然と思い描いていたら、なんだか、お腹が空いてきた。カップラーメンひとつぶんしか入っていない胃が、やけに軽く思えてくる。我ながら単純だ。

 身軽くうきうきした気分になりながら、改札を通り抜ける。その時、くぅ、と小さくお腹が鳴った。


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秋の音 七草葵 @reflectear

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