夢見る乙女

七草葵

夢見る乙女

「今日もありがとう。楽しかったよ」

 濡れた体を拭いてもらった後、ベッドで隣り合わせに座った。彼女の身体と自分の身体からは同じ石鹸の香りがする。少し安っぽくて、やたら甘ったるいフルーツの香りだ。

「よかったぁ」

 彼女と自分の間には、拳ひとつ分の距離がある。その距離は、視覚で感じるよりもずっと遠い。際限なく身体を密着させていたさっきまでのひと時が、夢だったかのようだ。金で買った夢の時間。儚い夢だった。

 とはいえ、彼女はソープ嬢としては優秀だった。技術が高いわけではないけれど、仕草や言葉選びに愛らしい魅力があった。顔立ちはごく普通で、人より小顔ではあるようだが目も鼻も唇も、同様にこじんまりとしている印象だった。ただ、少々垂れ気味の瞳に見つめられると妙にくすぐったい気分になる。「あなたに親密感を覚えている」とでも言いたげな優しい視線に感じるのだ。彼女がここにいるのは金で時間を買ったからだ、という線引きをきちんと自覚していなければ、好意を勘違いしてしまいそうなほどだ。

「マコトちゃんって、普段は何してるの?」

 残り時間、必死に元を取ろうとするような気分ではなかった。彼女の柔らかい雰囲気を隣で感じているだけで、意外なほど充足感があった。

「普段……うーん、色々だけど……」

 口元に人差し指を一本そえて、小首を傾げる。あざとい仕草を、驚くほど自然にやってのける彼女には舌を巻くばかりだ。私生活では相当モテるだろう、と思った。

「レッスンしてるかな」

「レッスン?」

「そう。歌とダンスのレッスン」

 意外な答えに、少したじろぐ。

 俺がぽかんとしているのを見て、彼女は少し困ったように笑った。

「あのね、内緒にしてね。実はわたし……アイドルのたまごなの」

「アイドル?」

「の、たまご」

 彼女は照れたように付け足した。

「こんな場所で……って言ったら悪いけど、こういう店でアイドルに会うなんて思わなかったな」

 たまに仕事の少ない声優やモデルやらが働いていると噂で聞いたことはあったけれど……実際こうして当たるのは初めてだった。

「ふふっ、まだ『たまご』だってば」

 彼女はおかしそうに笑った。ささやかなことでクスクス笑ってくれるところに、人の良さが垣間見える。そういう人好きのする感じが、彼女の魅力なのだろう。けれど、世間一般で言うアイドルのイメージからは、少し遠く感じた。

「アイドルって、たまごとはいえ結構忙しいんじゃないの? 歌とダンスのレッスンなんて、ハードそうだし」

「そういうイメージ?」

「うん。ほら、テレビでたまにアイドルオーディションのドキュメンタリーとかやってるしさ。あれ見てると……」

「ああ言うのは、テレビ用の演出なんだって。本当のアイドルって、すごく地味なんだよ」

 無知な子供に対して優しく諭すような口調だった。

「たまごだから、ライブに出たりもほとんどできなくて。たまごを集めて、ライブすることもあるけど……そういうライブだって、ノーギャラなんだよ。ステージ費用とか、衣装代とかで、逆にみんなで割り勘するくらい」

「えっ、そうなの?」

「うん。レッスン代だって結構高くて……勉強用の教材だって一個一個がかなりの値段するし。有名な先生だから、しょうがないんだけどね」

「……へえ?」

「たくさんのアイドルをプロデュースしてきた、とっても偉い先生なんだって。わたし、スカウトされるまでアイドル業界のこととか全然知らなかったから、その先生のことも知らなかったんだけど……とにかくすごい人なんだって」

「そう、なんだ」

 雲行きが怪しくなってきたのを感じた。ひたひたと、悪いものが忍び寄ってくるような嫌な感覚がする。けれど、その深淵を覗かずにはいられない。人間は、好奇心には勝てない生き物だ。

「アイドルになるために、ここで働いてるの?」

 言った直後に後悔した。

 彼女の顔に、淡い悲しみと諦観がとがほの見えたからだ。

「うん。アイドルになるためにはお金が必要なの。だから、ここでいっぱい働いて、いっぱいレッスンして、アイドルになるんだ」

 柔和な垂れ目がうっとりと細められる。一瞬垣間見えた自己憐憫の影はすでにない。彼女は全身で、自分がアイドルとして脚光を浴びる日を夢見ていた。

「……応援するよ」

「えへへ、ありがとう」

 金で買った関係だ。彼女の夢を壊す権利なんてない。それに、夢を壊した後の責任を取れるわけもない。彼女に新たな夢を見させることなんてできない。

「あ、時間だね」

 彼女は言って、俺の手を掴む。その時はじめて、自分が堅く拳を握っていたことに気付いた。その拳を、彼女を食い物にしている『先生』とやらに向けたいのか、大人の分別なんて便利な言い草で事実を言わない自分自身に対して向けたいのか、分からなかった。

 扉の前まで連れていかれ、頬にキスをされる。

「お兄さん優しいから、色々喋っちゃった」

「……ありがとう」

「また来てね」

「ああ」

 十人並みの顔立ち。体つきも技術も、突出した部分は無い。きっと、アイドルとしてもそんな評価なんだろうな、と思った。それでも。

「がんばってね。応援してるよ」

「うんっ。ありがとう」

 彼女の笑顔は愛らしくて、優しく――少し寂しくて。

 彼女みたいなアイドルがいてもいいんじゃないかって、少しだけそう思った。


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夢見る乙女 七草葵 @reflectear

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