タバコ

七草葵

タバコ

「おかえりなさいませご主人様っ」

「おかえりなさいませ!」

「ご主人様ぁ、こちらのお席へどうぞぉ」


 今や物珍しさのかけらもない、ごく普通のメイドカフェ。店長の好みだけで採用された、内なる承認欲求に苦しむ女の子たちが、客からお金と羨望の代わりに愛嬌を振りまく飲食店。欲望渦巻くこの小空間が私の職場だ。

 職場といっても、私はいわゆるメイドさんではない。キッチンスタッフだ。「メイドさんの萌え萌え手作りおむらいす」とか「メイドさんの手ごねはんばぁぐ」やらを作る、ゴーストライターならぬゴーストシェフ、それが私。料理の腕に自信はあるが、外見も承認欲求も人並み程度。メイドさんをやる勇気も資格もない。通学中の料理学校にあった求人で、一番時給が良いバイトに応募したらたまたまメイド喫茶だったのだ。「うちの客は料理の味なんて気にしないから」と言われて材料費を削られたり発注数に文句を付けられたりするけれど、まあ一応なんとなく、楽しくやっている。メイドさんが笑顔を振りまいて働いている姿を見るのは、同性とはいえやっぱり眼福だ。フロアと更衣室では態度が全く違うけれど、別に気にならない。フロアできちんとおもてなしを頑張る彼女たちのプロ意識に感心するばかりだ。

 そういうわけで、私はメイドカフェのキッチンに引きこもり、日夜バイトに勤しんでいる。


* * *


「客途絶えたし、あなたも休憩してきたら?」

 フロアチーフのメイドさんが、空いた皿を運びがてら声をかけてくれた。

「でも、今の時間帯キッチン私一人なんです」

「あー、店長フロアは増やすくせにこっちは人削ってるんだよね。職権乱用エグくない?」

「ですね。あはは」

 同性というだけで憎まれることもあれば、優しくしてもらえることもある。私は美人は美人として普通に尊敬してしまう類の人間なので、敵意を向けられることはほとんどない。顔も地味なことを自負しているし。

「適当に休んだ方がいいよ。この後、サクラちゃんシフト入ってるから」

「ああ、店長のお気に入りの……」

「そうそう。だからサボるなら今のうち」

 にこ、と微笑むメイドさんの笑顔が可愛くて、思わず赤面してしまう。こんな流行りもしていないメイドカフェに、こんな美人がいていいんだろうかとたまに思う。


* * *


 メイドさんの忠告を素直に聞いて、私はちょっとだけサボることに……もとい、休憩することにした。

 外階段を上って、屋上まで行く。周りのビルが高いせいで、いつ来てもこの屋上は陰っている。なんとなくじめじめしているその場所は、ちょっとだけタバコの残り香がする。フェンスに寄りかかり、ぼんやりと日常のことを考える。料理学校を卒業した後のことや、バイトのことや、今日の晩ごはんのことを考える。とりとめもない考えは、浮かんでは消えていく。こんなのは、何も考えていないのと同じだ。私の人生はこんな風に、無意味に過ぎ去っていくんだろう。そんな諦めがある。

――『サクラちゃん』は違うんだろうな。そんな考えがふと浮かぶ。

 店長のお気に入り、お客さんたちにも大人気、同僚の女の子たちからは嫉妬と羨望と敵意を浴びるように向けられている、可愛くて素敵な女の子。私は話す機会なんてほとんどないけれど、彼女のことはなぜか意識してしまっていた。少し背が低くて、声は砂糖菓子のように甘くて、肌は真っ白で、スイーツの話が得意で、喜怒哀楽全ての表情が可愛くて、使う言葉が結構上品で――理想が形になった女の子。それが私の知っている『サクラちゃん』だ。

 モテる人にはモテる人なりの苦労があるというし、可愛い子には可愛い子なりの苦労があるだろう。だからこそきっと、彼女の人生は私が経験するそれより何十倍も何千倍も、濃くて意味があるものとなるに違いない。それがただ単純に、うらやましかった。


* * *


 ただぼんやりしていただけなのに、結構な時間が経っていた。焦って外階段を下りていくと、店のキッチンへ通じる裏口扉の前に人影があった。一瞬店長かと背筋が凍ったが、すぐに気付く。その人影は、店長なんかよりずっと小柄だった。それに、店のコスチュームを着ている。メイドさんだ。

「あ」

 彼女は小さく声を漏らした。ピンク色の唇の間から、白い煙がほわっと漂う。

「さ……サクラ、さん」

 予想もしなかった人物に、そしてその姿に、声がかすれた。

 裏口扉をふさぐように立って、慣れた仕草でタバコを吸っている女の子。理想を形にした完璧な女の子であるはずのサクラちゃんが、気だるげに煙を吐き出している。

「あは、見られちゃった」

 ちょっとだけばつが悪そうに、サクラちゃんが微笑む。

「サクラさん、たばこ吸うんですね」

「うん。君も吸う?」

「いえ、私は……」

 首を振ると、サクラちゃんは「ああ」となぜか納得したような声を漏らした。

「プロの料理人はたばこ吸わないんだっけ? 映画で見たよ。味が分かんなくなっちゃうんでしょ?」

「ですね。私はまだプロじゃないですけど」

「そうなの? 料理、あんなにおいしいのに」

「あ……ありがとうございます」

 料理を褒められたことが素直に嬉しくて、胸が高鳴る。彼女はおいしそうにタバコを咥え、ゆっくりと離して白い息を吐きだした。彼女の吐息が形となって空中に余韻を残しているのが、なぜか妙にフェティッシュな感じがした。

「これ、内緒にしてね」

 じっくりタバコを味わった後、サクラちゃんが微笑んだ。

「あ……はい。話すようなことでもないですし」

 頷くと、サクラちゃんは驚いたように目を瞬かせた。

「ふふ……ありがと。見られたのが君で良かった」

 初めて見るアンニュイな笑顔が、あまりにも綺麗だった。世紀に残る芸術品を前にしたかのように、目が離せなくなる。

 見とれていると、扉の向こう側がにわかに騒がしくなった。そういえば、私はバイトをサボっている最中だ。

「あの、そろそろ行きます」

「うん。私、匂い消してから行くから。店長に聞かれたら、適当に誤魔化しといてね」

「分かりました」

 一歩ずれてくれた彼女の横を通って、裏口からキッチンへ戻る。名残惜しくて振り返った時目に飛び込んできた「完璧な女の子」のシニカルな笑顔は、この世界で一番美しいものとして目に焼き付いた、


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