世界が終わる日

七草葵

世界が終わる日

明日、世界が終わる。

狭いアパート、1DK。

もうすぐ切れる電球が、弱弱しく室内を照らしている。

タバコ焼けしたくリーム色の壁。ほこりのたまったテレビ台。くたびれたソファ。黒いパイプが錆だらけのベッド。掛布団はくちゃくちゃに丸まっていて、シーツにはジュースや鼻血や、色んなものの染みの痕。

私は脱ぎ散らかしたTシャツや、くつしたや、パンツがみっともない死体みたいに落ちている床にぺたりと座って、スーツケースに荷物を詰めている。

明日、世界が終わるから。

詰めるのは、なるべく思い出がないものだ。手に取るたび何かを思い出させるようなものは、もういらない。

明日、世界が終わるから。

ミントグリーンのティアードワンピース。これには思い出がたくさんまとわりついている。さわやかな色に惹かれて買ったはずなのに、今は灰色に混濁して見える。

ピーチジョンの、くすみピンクのブラ。繊細なレースが可愛くて、肌が透けて見えるのがセクシーで、男受けMAXって煽り文句で、思わず買ってしまったブラ。ショーツもおそろいで買って、これを着た日は毎日ドキドキしてたっけ。この可愛らしい下着に釣り合わない、青くて、ダサくて、みじめな思い出ばかりだ。

卵焼きを焼くための、長方形のフライパン。百円ショップで買おうとしたら、これだけ四百円で、二人一緒にレジであたふたしたっけ。店員さん、笑ってた。あの温かい空気も今は、記憶の中だけだ。

二、三冊のレシピ本。おいしいものを作ってあげたくて買ったんだった。ネットで調べられるんだから買う必要なんてなかったんだけど、レシピ本を持っているってことが、いい彼女である証みたいに思えたからわざわざ買った。ほこりまみれで、たった数回しか使っていないのにページとページの間に汚れがこびりついて満足に読めなくなっている。

そうやって、部屋の中のものを少しずつ整理していく。

思い出が残っているものはいらない。

身軽なものだけスーツケースに詰めるんだ。

だって、明日世界は終わるのだから。

結局スーツケースに入れられるようなものはほとんどなかった。ユニクロのセールで買った未開封のTシャツとスカート、ノンワイヤーのブラとサニタリーショーツ、いくつかの化粧品。たったそれだけ。あまりの軽さに戸惑って、昨日コンビニで買ったスナック菓子と、ポカリと、ヨーグルトを入れた。

液晶の割れたスマホを見ると、午後23時50分。そろそろ頃合いだ。

スーツケースをきちんと締めて、立ち上がる。部屋を見回す。

古い映画みたいだ、と思った。灰色と黒で作られた、淀んだ空気に哀愁と悲哀が満ちている、古いフィルムに焼き付けられた、古い映画みたいな光景。世界の終わりにはふさわしい色彩の中で、私は服を着替える。昨日買ったばかりの、真っ赤なワンピース。男受けなんてみじんも考えていない、でもカッコイイ、鎧みたいなワンピース。

もうすぐ、世界が終わるから。私は精一杯のおしゃれをする。

仕上げに鼻に詰め込んでいた、丸めたティッシュを抜き取った。上を向いて感覚を確かめる。どうやら無事に、鼻血も止まった。

私はスーツケースをコロコロ転がしながら、部屋を縦断して玄関へ向かう。

午後23時59分。玄関で靴を履く。ボロボロのダサいスニーカー。なんの思い入れもないこれが、世界を終わらせる一歩を踏み出すためのお供だ。

冷たいドアノブを握る。振り返って、世界の全てをもう一度、見ておきたい誘惑に駆られた。私はドアノブを握ったまま逡巡する。その時、スマホがけたたましい音を立てて鳴った。0時を告げるアラームだ。

私はハッとして、ドアノブをもう一度強く握り直した。

今日、世界を終わらせる。

1DKの狭い世界を終わらせて、私は私の世界へ行く。私が、私のために守りたいと思える、そんな世界へと行くのだ。

ドアを開けると、アパートの廊下の蛍光灯が、白く白く、輝いていた。

それは灰色と黒でできた1DKの世界にはない、清らかな白色だった。


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世界が終わる日 七草葵 @reflectear

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